第一話 ニートの始まり
朝5時半。
まだ夜と朝の境目みたいな空の下、俺は工場のロッカー室で制服に着替えていた。
機械油の匂い、鉄粉のざらつき、遠くで鳴るプレス機の音。
この匂いと音が、もう俺の生活そのものになっていた。
俺が働いていたのは、県内の金属加工工場。
自動車の部品を作るラインで、ドリルを回し、ネジを締め、検品して箱に詰める。
その繰り返し。
気づけば3年。
手の皮は硬くなり、頭の中は空っぽになった。
「おい、山下。今日も残業頼むぞ。」
課長の声。
それはもう、日常のBGMみたいなもんだった。
誰も逆らえない。
「はい」と言えば9時まで、「無理です」と言えば空気が重くなる。
結局、いつも通り「わかりました」と返した。
だけど――この日の残業中、俺はふと手を止めた。
回転する機械を見つめながら、何も感じなくなっている自分に気づいた。
「……もう、無理かもな。」
小さく呟いた声は、機械音にかき消された。
その夜、帰宅してすぐ、机に向かって便箋を取り出した。
震える手で、ゆっくりと文字を書く。
退職願
一身上の都合により、来月末日をもって退職させて いただきたくお願い申し上げます。
書き終えた瞬間、手のひらに汗が滲んでいた。
怖さと、少しの解放感。
翌日、ポケットにその紙を入れて出勤した。
出勤後、意を決して課長の席へ向かう。
「課長、少しお時間いいですか。」
書類を差し出した瞬間、心臓の鼓動が耳の奥で響いた。
課長は眉をひそめて、それをじっと見つめた。
「……そうか。まあ、よく頑張ってたもんな。」
それだけ言って、課長は静かにため息をついた。
怒られると思ってたのに、逆に優しい声だった。
余計に泣きそうになった。
退勤時。
タイムカードを押す音が、今までと同じ「ピッ」なのに、まるで別の音に聞こえた。
帰り道、工場の煙突から白い蒸気が昇っていく。
あれは俺が毎日見上げていた景色。
でもこれからは、もう見る必要がない。
その日の夜はテレビやゲーム、漫画など好き放題遊び夜更かしをした。
翌朝、目が覚めたのは10時過ぎ。
カーテンの隙間から陽が差し込む。
アラームは鳴らない。
制服も、もう着ない。
冷蔵庫を開けると、水と卵とマヨネーズ。
その中身が、今の俺みたいだった。
空っぽだけど、少しだけ軽い。
俺はそのまま窓を開けて、深呼吸した。
「さて……これから、どうするかな。」
静かな部屋の中で、自分の声がやけに響いた。
こうして俺の、ニート生活が始まった。




