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翌日宿酔

 男は夜の街をふらつきながら歩いていた。酒臭く、足取りは覚束ない。酒を飲まなければ壊れてしまう夜が時々あった。二十五年も生きていればそんな夜があっても不思議ではないだろう。


 先刻、二年余り交際していた女性に別れを告げた。理由は、彼女は隠れて蜜月を重ねていた別の彼氏がいた。吐き気がした。一刻も早く身を引くのが賢明だと判断した。


 男は商店街にある安いだけが取り得の薄汚い暖簾の居酒屋へ逃げた。


 どれだけクズのような女であろうと、一度は愛した存在であり、思い出になるにはそれなりの時間を要する。脳の記憶は彼女との甘い風景ばかりがフラッシュバックする。その度に男は酒を食らった。


 自動販売機が放つ光に虫のように誘われ、スポーツドリンクを購入した。一気に飲み干し、許容量を遥かに超え、入り口が詰まったゴミ箱に強引にねじ込んだ。ペットボトルの悲鳴が聞こえた。嫌な音だった。



 深夜に淡々と便利グッズを紹介する通販番組を肴に二本目の缶ビールを開けた。黄金の液体が喉を駆けていく。鏡を見なくても頬が赤くなっているのが分かる。酔うとそうなる、あなたのその顔が可愛らしいと言った女の顔を思い出し、またアルコールを求めた。


 未練を断ち切るにはどうすればいいか。男はインターネットに救いを求めた。埃を被ったパソコンの画面をティッシュで拭いた。暗い部屋に青白い光が広がる。男はパスワードを求められた。男は側頭部を拳で刺激したが思い出せなかった。腹が立ち、キーボードを投げようとして裏にメモが貼ってあることに気がついた。記されたパスワードを見て笑ってしまう。彼女のあだ名と誕生日を組み合わせた単純で、かつての自分には重要な文字列だった。指先で一つひとつ慎重に入力した。


 待ち受けは初めてデートした遊園地で取った写真だった。満面の笑みでピースする自分と、照れ臭そうな元彼女。パソコンを強制終了した。

 冷蔵庫に酒はなかった。



 コンビニまでの道は退屈だった。男はラジオを聴いていた。彼にラジオを聴く趣味はない。ただ、深夜の街は静か過ぎて、誰かの声が無性に恋しくなった。


 午前一時のコンビニの明かりは男を歓迎しているように見えた。



 レジ袋に瓶が二本、缶ビールが五本入っていた。とことん飲んでやるという決意をこれでもかと主張していた。来た道を戻り、家賃月三万円台のアパートを目指した。すっかり酔いは醒めていた。


 手摺りを握りながら二階へ上がり、ポケットからキーケースを取り出した。ぴた、と男の足が止まった。視線の先に蠢く影があった。影は男の部屋の前でしゃがみ込み、膝を抱えていた。目を逸らし、再びコンビニでも行こうかと思ったが先手を打たれた。


 影は立ち上がり、月明かりに照らされ、輪郭がはっきりと見えた。泣きはらした目をした女がいた。女は男の名前を呼んだ。男は悪い夢を覚醒している状態で見ている気分になった。


 徐々に距離を詰める彼女をどうすればいいのか、男には正解が分からなかった。だが、逃げることはしなかった。彼女の脇を通り抜け、玄関を開錠した。ドアノブに手をかけ、逡巡し、女の方を見た。


 女は男の言葉を待っていた。男はこの状況に相応しい台詞を考えたが、思いつくことはなった。彼女は俯きながら何度も謝罪の言葉を呟いていたが声量が小さく、やがて洟をすする音も混じり、うまく聞き取れなかった。彼は部屋に彼女を招こうとしたが、私にそんな資格はないと首を横に振られた。あの人に捨てられたの、と彼女は言った。どうやら、彼女も代替品でしかなかった。お互い、一番にはなれない運命だった。似た者同士じゃないか。男は芝居がかった口調で笑いを誘ったが無意味だった。


 無性に酒が飲みたくなった。男は女に場所を変えようと提案した。女はようやく首を縦に振り、男の後ろを付いて歩いた。



 団地の近くにある公園にはブランコがある。久し振りのブランコに男は気分が高揚していたが、酒が入っていて、すぐに気分が悪くなった。彼女はゆっくりと前へ、後ろへと揺られていた。彼女は口を開いた。


 彼氏と別れたと浮気相手に伝えたらお前は遊びだったと告げられた。口論の末、浮気相手の家を飛び出し、ようやく自分がとんでもないことをしたと理解し、謝罪したくなった。あなたの家に行って部屋の明かりが点いていたのでチャイムを何度も鳴らしたが応答はなかった。拒絶されたと思い、どうしていいか分からなくなり、膝を抱えていた、らしい。


 男は反応に困った。ここから、彼女はどうなることを望むのだろうか。復縁なのか、あるいは、友人関係に戻りたいのか。


 自分自身はどうなのか。男は自分に問うた。以前のように仲良く会話をする間柄にはすぐには無理だろうが、戻ることは可能だろう。しかし、再び恋仲になる想像はできなかった。男は別に彼女を嫌いになっているわけではないと気付いた。じゃあ、この感情はなんだ。


 あっ、と声が漏れた。哀れみだ、と思った。


 彼は彼女に対して同情していた。可哀想な人として見ていた。


 男は手にしていた袋の中から温くなった缶ビールを取り出し、彼女に渡した。男も同様に缶を手にした。二人の缶がぶつかり、静寂に包まれた街に気持ちのいい音が響いた。泡が吹きこぼれ、慌てて口をつける男を見て、ようやく彼女は笑顔になった。彼女のその顔が好きだったと思い出し、男は歯を見せた。



 どうやって帰宅したのか記憶は定かではないが、寝間着に着替え、きちんとベッドに眠っていたようだ。カーテンの隙間から光が刺している。洗濯日和だ。あの溢れかえった洗濯物をどうにかしなければいけない。体を起こそうとしたが、男は動けない。脳が横になることを求めていた。頭痛がした。二日酔いだ。吐き気はないが、気分が悪い。水を飲みたいが近くにそれらしきものはない。あるのは飲みかけのウイスキーの瓶だけだ。迎え酒も悪くないのかもしれない。男は力を振り絞り、瓶に手を伸ばした。


 はい、と枕元に水が入ったペットボトルが置かれた。どうもと受け取り、一気に飲み干した。一息吐く。だいぶ気分がよくなってきた。台所から何やらいい匂いもする。恐らく、味噌汁だ。男は飲み会の翌朝は必ず味噌汁を飲んだ。


 冷静に考えることが可能なまでに回復した。部屋に誰かがいる。座椅子に座り、朝の情報番組を楽しそうに視聴している。時折、体が揺れる。大声で笑わないように配慮しているのだろう。ぼやけていた輪郭がはっきりとしてきた。


 彼女は元々優しいのだ。他人の痛みに敏感で、他人の傷を癒すために己を犠牲にしてしまうのだ。愚かだとか、自己満足だ、偽善だと指を刺されようが関係ない。彼女は己の道を突き進むだけだ。


 何故、彼女に惚れたのか男は少しずつ思い出してきた。


 男はベッドから起き上がり、ゆっくりと彼女に近付いた。


 彼女と目が合う。慌てて視線を逸らしたが、彼女は強引に彼の視界に入り込んだ。


 目の前に用意された朝食は完璧の品物だった。思わず拍手を送りたくなった。男の満足そうな顔を見て、女も笑った。


 会話もないまま、二人はただ見つめ合った。テレビは天気予報を伝えていた。今日は雨が降るようだ。


 男は彼女に手を差し伸べる。女は少し間を置き、小さく笑った。女は返事代わりに両手でそっと彼の手を包み込んだ。


 酒が残っているからだ。出過ぎた行動を今更恥じ、男は頬を掻いた。


                               〈了〉



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