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山歩きにドレスほど向かないものはない。
ドレスルームに戻ったシェイラは、しまい込んでいた乗馬服に着替える。女性が馬に乗る文化がないわけではないが、乗馬を身につけるほとんどは騎士を目指す女性だ。シェイラも教養のために、と何度か乗ったことがあるけれど、あまり向いてはいなかった。
公爵令嬢なのだから、馬車に乗ればいいんだわ、と早々に諦めて教師は解雇。
そもそもがシェイラの我儘で始まって、我儘で打ち切ったのだが過去の話なので置いておくことにして。
令嬢が着られるようなパンツスタイルの服は乗馬服くらいのものなので、久しぶりに袖を通すことになった。
「あら、こうしてみると案外似合うじゃない。学院に入ったら乗馬を習い直そうかしら」
『……下手の横好きは勘弁してくれ、馬に乗って暴れられたら困る』
「貴方、わたくしが馬に乗ったら馬が暴れ出すと仰るの?」
『……咄嗟に付いていけるとは限らないだろう』
少しだけ考え込んだシェイラはなるほど、と得心する。
初心者のシェイラが馬に乗った状態で馬が走り出したら、取り憑いているこの幽霊と一気に距離が空く。そうなれば速度が上がった状態で落馬する危険性がある、ということか。
本当にこういうところは紳士的だ。
……言い方に難はあるが。
兎にも角にも、この幽霊をなんとかしないと乗馬どころではないわね、と思い直したところへノックの音。
「……おねえさま、おでかけ……?」
「あらカミル、何か用事だったかしら」
普段より動きやすい格好なので、膝を折ってカミルと同じ目線にする。
そういえば首を絞められて目覚めてから、カミルにはまだ会っていなかった、と思い出してふわふわの金の髪を撫でる。
「カミルが『こわい』と言っていた先生はわたくしがなんとかしますからね、もう怖がらなくていいですわ」
「……でも、おねえさま……」
カミルの目はシェイラの首元を見ている。
責任を感じているのか、大きな瞳が潤んでくる。
あわわ、と令嬢らしからぬ声を出してしまって口を覆う。それから周囲を見回し、シェイラの信頼のおけるメイドしかいないことを確認してカミルを抱きしめる。
何って、シェイラは泣いているカミルに弱いのだ。
どうしたらいいかわからなくなって、いつも抱きしめて背中をさすることくらいしかできない。
……シェイラは慰められたことがないからだ。
お父様は溺愛してくれているけれど忙しくて、子どもの頃はあまり屋敷にいなかった。お母様は産まれたときからいなかったし、兄とも第三夫人とも折り合いは悪い。
シェイラが泣くときは一人でひっそりと、誰にも知られない場所で。弱いところを他人に見せてはならない。
そうでないと、公爵令嬢には相応しくない。そう教えられていた。
カミルもそうあるべきだが、まだ10歳だ。
これから覚えていくことだろう。
ゆっくりと背中をさすっていると、涙声のカミルがシェイラの腕の中で顔を上げる。
「……おねえさま、ぼくのせいで痛かった……?」
「いいえ、カミルのせいではありませんわ! ……原因にはあらかた目処がついていますの。すぐに解決してみせますわ」
「……ほんとう?」
「ええ、ですから心配いりませんわよ」
安心させようと微笑んで見せると、少しだけカミルの涙も収まったようで。外までお見送りする、というので手を繋いでドレスルームを出ることにする。
玄関ホールへ降りる階段が見えたところで、きゅっと握られた手に力が入るのがわかって、シェイラは首を傾げる。
「カミル?」
「……おねえさま、あそこ、こわい……」
すっと、カミルの指が示す先は中央の階段。
そのまま指先を辿ったシェイラの瞳が驚きに染まる。
踊り場の大きな花瓶には庭園から詰んだ花々が。
その美しさを遮るように、首のないメイドが佇んでいた。
「……ねえ、あれは」
『……ああ、立派な怨霊だ』
うっすらと向こう側が透けて見えるのは、あの首なしが幽霊だから。カミルにも感じ取れるほどの強い感情となれば、既にそれなりの力を持っていると思っていいだろう。
そして、このタイミングで現れたということは、ガスパー侯爵に取り憑いてシェイラを呪い殺そうとした怨霊だと思って間違いない。
「……カミル、あそこには何が見えますの?」
「……ううん、見えるわけじゃなくて……なんかいやなかんじがするの」
「……わかりましたわ」
玄関ホールへ繋がる階段は3つ。
右の階段は反対側で、中央には首なしメイド。
侯爵に取り憑いたときのように、カミルを憑代にしないよう外へ逃す必要がある。
幸いにも、首なしメイドはこちらに気がついていない──首がないのだからどこで知覚するのかはわからないけれど──ようで、シェイラたちの方へ向かってくる様子はない。
「……念のため聞いておきますけれど。貴方、あの方とお話ししてお帰りいただくことはできそうかしら?」
『冗談言わないでくれ。話どころか近寄っただけで攻撃されそうだ』
「そうですわよね。……でしたら、気づかれていないうちに立ち去るのが良さそうですわね」
『……驚いたな、ご令嬢なら自分を囮にして弟君を逃がすのかと』
「一瞬考えましたけれど、まだ対策が明確でないうちに飛び込むのは得策ではありませんわ」
『違いないな』
方針が固まったところで、シェイラの服を掴んでいるカミルの頭を撫でる。
「カミル、『こわいの』がない階段から行きましょう」
「……うん」
「追いかけられると困るから、静かにするのですよ?」
はっと気づいたように口元を手で覆ったカミルが、こくこくと頭を上下に振る。
幸い、左の階段はシェイラたちのいる位置から近い。物音を立てないようにすれば階下へ降りられるだろう。
カミルを先に階段へ。
音を立てないように一番下まで降りたのを確認して、シェイラもそっと歩き始める。絨毯を踏み締め、ゆっくりと階段に差しかかった途端、背筋を駆け上がる悪寒にびくりと体が震える。
「……貴方、後ろの状況はどうなっています?」
『……どうやら気づかれたらしい、走れ!』
その声を聞いて、弾かれたように階段を駆け降りる。
背後を見ていないのに、だんだんと距離を詰められているのがわかる。本当に動きやすい格好に着替えていてよかった、と思いながら扉の前で待っていたカミルの手を引いて外へと飛び出す。
扉を越えると、先程から背中に感じていた不快感がふっとなくなる。
少し離れたところで振り返ると、首なしメイドは扉の淵ぴったりに張りついている。その先には行けないようで、どうにかしてシェイラに触れようと手や足を人間とは思えない角度に曲げて境界を越えようとしている。
「……どうやら、家の外には出られないようですわね」
しかしこれで、あの怨霊の目的がシェイラであることが確定した。侯爵に取り憑いていたのも、おそらく目の前の怨霊だ。
カミルには、第三夫人の住まう別邸に行くように促す。
子どもは元々霊的なものに影響されやすい上、カミルは霊の存在を感じ取れるようだから、取り憑かれやすいと言えるだろう。他の人の出入りも制限したいところだが、シェイラには何の権限もない。
「……急いで侯爵家から情報を仕入れる必要がありそうですわね」




