2-prologue
──真夜中の庭園に、灯火の明かりがひとつ。
物音を殺して歩くのは、ブラッドベリー公爵家の紋章を身につけた騎士。正門の施錠に始まり、裏門、通用口の確認と警備のために、眠気を堪えて広い屋敷内を巡回する。
「……慣れたとはいえ、宿直はキツいな……」
くぁ、と小さく欠伸が漏れる。
ブラッドベリー公爵家ともなれば、屋敷をぐるりと覆う結界も張られている。警備とは名ばかりの、念のための巡回に騎士の気も緩む。
あとは反対側を巡回している騎士と合流して、互いに問題がなかったことを確認したら宿直室で仮眠ができる。これまで問題が起きたことなどないのだから、今日もきっとそうだ。
あとはゆっくり帰って仮眠だ、と考えている騎士の耳に、石畳を駆ける足音が近づいてくる。灯火を掲げれば、反対側を任せていた騎士が見える。いつになく慌てた様子に、少しだけ早足で合流する。
「おい、何かあったのか?」
「……ゅ、」
「……ゆ?」
「……ゆ、幽霊が出たんだ、女の生首の……!」
顔を真っ青にして訴えてくる相手に一瞬呆気に取られたが、思ってもない言葉に思わず吹き出してしまった。
「……っ、はは! 幽霊だぁ? お前、そんなもの信じてんのかよ」
「ほ、本当だって……! 俺の目の前を、ゆら〜って、目が合ったんだ……!」
「そりゃあお前、鏡に写った自分かなんかを見間違えたんじゃないのか?」
幽霊、というものは死霊と違って目に見えない。
だから存在を信じてない人間もいるし、騎士などはその傾向が強い。弱気な人間が夜に怯えた理由として『幽霊に会った』と言い張ることもあって、幽霊そのものに対する認識は脅威ではなく虚言、というのが大半。
この騎士も例に漏れず『幽霊など存在しない』に票を投じる人間だった。
「み、見てないからそんなこと言えるんだ……! 第一、この間奥様とお嬢様が幽霊に襲われて大騒ぎだっただろう……!?」
「俺はあの場にはいなかったから断言できないが……それだって本人の証言だけだろ? 幽霊のせいにして、本当にお嬢様に恨みがあっただけかもしれないぞ?」
「おま、口を慎めって……! そんなこと誰かに聞かれでもしたら……!」
「大丈夫だって、誰も起きてやしないさ。……それで? 施錠確認は終わってないんだろ?」
「……ああ、離れの屋敷を確認していたときだったから……」
「わかった、俺が見てくるからお前はここで待ってろ。そんで、幽霊なんていないってのを証明してやるさ」
ひらひらと手を振って、離れの屋敷へ足を向ける。
公爵様は過去に2人の奥方を迎えていて、それぞれに屋敷を建てている。離れの屋敷、と呼ばれているのは第二夫人の使っていた建物を指し、亡くなった今となってはお嬢様が管理している。
使用人の間では苛烈な性格で知られているお嬢様のことだ、自分たちが警備している間に不備があれば文句を言われかねない。
特に自分たちは|どこの派閥にも所属していない《・・・・・・・・・・・・・・》のだから、尚のこと気をつけておかなければ。
「……幽霊だって、見間違いに決まってるだろ」
辿りついて灯火を掲げれば、人の気配のない建物が顕になる。
あんなに怯えた同僚を見たせいか、普段よりも鬱蒼としているような気がする。ふるりと僅かに身を震わせるが、大口を叩いた手前、引き返すわけにもいかない。
いつも通り確認するだけだ。
それで平気な顔して戻り、明日には他の同僚に笑い話として『やっぱり幽霊なんていない』と。怯えた様子を揶揄ってやればいい。
そう思いながら、扉に手をかける。
「……開いてる……?」
普段使われていないため、週に一度の掃除に入る以外では施錠されているはずの扉が。
キィ、と蝶番が闇夜に響く。
開いている、となれば中を確認しないわけにはいかない。
それが仕事だし、中途半端に放棄して後で文句をつけられでもしたらたまったものではない。意を決して、屋敷内を灯火で照らしていく。
「……なんだ、何もないじゃないか」
2階を一周したが特に問題もなく、1階も半分まで見て回ったが異常は見当たらない。きっと単なる鍵のかけ忘れだろう。そう結論付けて、残る部屋を確認していく。
ドアノブを捻り、施錠を確認。
次の扉も。その次の扉も。
そして最後の扉も──
「……南京錠、が壊されている……?」
確か、少し前にお嬢様が何かを運び入れた、とは聞いていた。魔法付与された錠をかけた、と聞いていたから相当大事なものをしまい込んだらしいと噂にはなっていたが。よりにもよって、その部屋が。
騎士団の不注意でお嬢様の不興を買ってはまずい。何が入っているかは知らないが、確認しておくべきだろう。
取ってに手をかけると、引っかかりもなく回る。
つまり、鍵はかかっていない。
考えられるのは鍵のかけ忘れか……侵入者か。
前者ならいいが、後者なら拙い。腰に帯びた剣に触れる。
公爵家に潜り込むような輩なら相応の実力者だ。指折りの魔法師に張らせた結界をすり抜けて、気付かれないままここにいるのだから。
すぐに剣先を向けられるよう構え、勢いよく扉を開け放つ。
「動くな! ……なんだ、誰もいないじゃないか」
鋭く発した声は夜闇に虚しく響く。
室内には人どころか動物の姿もなく、荒らされた様子もない。窓も閉まっているし、これは単なる鍵のかけ忘れだろう。
「ったく、人騒がせな……」
南京錠は後で報告して新しいものに付け替えてもらう。
これで今日の見回りは終わりだ。
一息ついて背を向けた騎士の耳に、ゴトリ、と何かの音が聞こえる。振り返った先にあるのは、不気味な真っ黒な壺。木蓋には見たことのない文字が書かれた布らしきものが巻かれ、よく見れば表面は薄くひび割れている。
他の調度品とは一線を画す、この場に相応しくない代物だというのは、骨董品に詳しくない騎士にもわかった。
だとすれば、お嬢様が持ち込んだというのはこの壺だろう、ということも。
──ゴトリ、
また、ひとつ。
騎士以外、動くもののないこの部屋の中で。
はっきりと物音が耳に届く。
それは、目の前の壺が身じろぎしたようにも見えた。
「……一体、何が入ってるんだ?」
それまで一切気に止めなかったのに、急に中身が気になった。外へ向けた足を止めて、室内へと歩を進める。ゴトリ、ゴトリ、歩みに合わせて揺れる壺が、何故だか喜んでいるように思えて、騎士は不恰好な笑みを浮かべる。
「……そうだ、不審なものは確認しないと……俺は騎士だ、中身を開ける義務がある……」
ぶつぶつと口から溢れる言葉を実現すべく、騎士は木蓋を覆う布に手をかける。触ってみれば、何重にも見えた布は容易く床へと落ちていく。あっという間に、残すは木蓋のみ。
隙間から漏れ出る黒い靄に目もくれず、思いきり蓋を引き剥がす。
「……っ、ぅわ、わぁあああああ!!」
壺の奥から見上げる眼球と、目が合った。
ぎょろりと一周したかと思えば、にたりと嬉しそうに細められる。
思わず尻餅をついた騎士を嘲笑うように、ずるりと壺から漆黒の髪が溢れ出す。騎士の足に絡みつくように這いずる姿は虫の大群を思わせ、生理的な嫌悪感に吐き気が上ってくる。
「……や、やめ……!」
むしり取ろうとするも、髪が這い上がってくる方が早い。
膝下が、太腿が、下半身が漆黒の髪にまとわりつかれていく。
「な、なん……なんで……ひっ……!?」
──気がついた時には遅かった。
ぼんやりと夜闇に浮かんだ生首が、まさに文字通り騎士の眼前で。
にたりと、微笑んで。
──その光景を境に、騎士の記憶は途切れた。
『ありがとう、開けてくれて』という女の声を、鼓膜に焼き付けられて。




