1-epilogue
「……というわけで、何か欲しいものはないかしら?」
用意したのは魔法契約書。
目の前にいるのは今回の恩人であり、功労者であり、今後も友好な関係を築く必要がある幽霊。
事情は既に全て話しているし、今回の事件ではその上でシェイラに協力してもらうようお願いしている。とはいえ、途中で裏切られてはたまったものではない。念には念を、と手配させた。
「お金でも貴重な魔法石でも……いえ、幽霊である貴方へ物をお渡ししても意味がないのかしら……?」
『……本当に、なんでもいいのか』
「もちろんですわ、ブラッドベリー公爵家の者として、約束を違えることはいたしません」
契約は信頼関係を構築するための足掛かりだ。
目的が何であろうと、お互いが納得する形で条件を取り交わすことでこそ最大のメリット──信頼が得られる。身分格差や知識格差から不利な契約を持ち掛ける大人がいるのは重々承知だが、シェイラはそんなことはしない。
既にこちらの事情は全て開示しているし、公爵家に支払えない代価などほとんど存在しない。条件ひとつ呑むくらいで勝ち取れるのなら『なんでも』は安いものだ。
『……これは、こちらの都合になるが』
「ええ、なにかしら?」
『……俺が、元いた場所へ帰れるよう手伝ってほしい』
「……元いた場所?」
シェイラは小さく首をかしげる。
その言い方を聞くに、シェイラに取り憑く前には別の場所にいた、という風に受け取れるが。
「貴方、記憶がないのではなかったかしら? その場所とやらは覚えてらっしゃるの?」
『……記憶にはない』
「ですわよね……?」
『しかし、『早急にそこへ帰らなければならない』という意識だけはあるんだ。……信じられないかもしれないが』
「……いえ、そんなことはありませんわ。それが貴方の心残り……未練、というべきものなのかもしれませんわね」
記憶にない、けれどいかなければならない場所がある。
確かにシェイラの近くから離れられない現状では探しようもないだろう。
『……ご令嬢が寝ている間に……その、体を借りて屋敷内は見て回ったのだが……』
「あら、あのとき随分と手慣れた様子でわたくしの体を乗っ取ったのはそのおかげでしたのね」
『……すまない、勝手に借りるのはよくないとは思っていたのだが……』
「いいえ、あの怨霊を浄化できたのも貴方のおかげですもの。すこーしばかり驚きはしましたが、怒ってはおりませんわよ」
申し訳なさそうに目線を下げる幽霊に、シェイラは笑みを返す。
驚きはしたものの、そのおかげで怨霊退治と今後の方針が固まったのだから言うことはない。むしろ、本来ならこっちからいて欲しいと頼み込む立場だと思うけれど、これについては口を噤む。
「では、要件をまとめますわよ」
さらさらと羽ペンで契約書に条項を書き込んでいく。
一つ、機密保持について。
お互いの事情を他者へ漏洩しないという取り決めだ。シェイラの事情が漏れれば社交界での地位は真っ逆ささま、計画も水の泡。必須事項だ。
二つ、業務委託について。
シェイラが浄化の力を発揮するには幽霊の助力が必須である。ということで、幽霊案件の対応を幽霊へ委託することで行う、といったことを決めた条項だ。基本的には他に緊急の事情がなければ受託、解決のためにお互い尽力することを記載。余程の事態があるなら応相談、といった具合だ。
三つ、プライバシー権の遵守について。
シェイラも慣れたとはいえ、24時間付き纏われては心も休まらない。特にお風呂や着替えなどの時にはできる限り遠くまで離れてもらうよう、取り決めしている。
四つ、契約の終了期間について。
乙女ゲーム内の時間は、学院を卒業する3年間。
というわけで、今回の契約書における期限を3年とし、契約期間終了時点で継続か完了かを再協議するものとする。シェイラの事情に片がついていても、幽霊の方もそうだとは限らないし、逆もまた然り。
ある程度融通が利くようにしておけば後々困らないだろう。
その他、変更・追加があったときには別途覚書を作成することにして、シェイラは契約書の最後に署名を。幽霊の分を代筆しようとして、ふむ、と小首を傾げる。
「……名前がないと困りますわね」
『覚えていないものは書けないからな……』
「では、取り急ぎ呼び名を決めましょうか。幽霊ですし、『ユゥ』でいかがです?」
『……流石に安直すぎないか?』
「あら、覚えやすくていいと思いますけれど。それとも、他に良い案がありまして?」
『…………特には』
「では、決まりということで」
シェイラの署名の下に続けて『ユゥ』と書き入れ、幽霊──もといユゥに魔力を込めてもらう。
「……さて、契約は完了ですわ」
署名の横に真紅の蜜蝋を垂らし、印璽を落とす。
ブラッドベリー公爵家の家紋にシェイラの魔法印を混ぜ合わせた刻印が現れ、それと同時に契約書は光の粒になって消えていく。
「これでわたくしは貴方が『あるべき場所へ戻れる』よう、そして貴方はわたくしの『死刑を回避することに協力する』という魔法契約が成立しましたわ」
『──これを破ればどうなる?』
「……先程も確認しましたわよね? この契約書に書かれたことは基本的には破ることはできませんわ」
何のための契約書だと思っているのだろうか。
わざわざ魔法契約書を使うのは、その効力は逃れられないくらい強いから。互いに魂をかけて誓う契約なのだから、そんな簡単に破られるようでは困る。
『……どのくらいの制限がかかるんだ?』
「ち、近いですわ……!! お約束しましたわよね、『必要以上にまとわり憑かない』と!」
『無理だと言っているだろう? 離れたくとも霊体が言うことを聞かないのだから』
急に距離を詰めてきた彼に、びっくりしてクッションを投げてしまう。
この幽霊──ユゥと1ヶ月も一緒にいたのだから、シェイラもこの距離感に慣れた。……そう思っていたのだが、先日の取り憑かれたときの感覚が思い出されて、思わず顔が熱を持つ。
初めて見たときから顔がいいとは思っていたし、落ち着いた声色も色気がある。けれど、向こうも分別があるようでそれをひけらかすようなことはなかったし、シェイラ自身もそれどころではなくて意識することはなかった。
だというのに、あのときは、ほとんど密着しているような距離にユゥの存在を感じ、耳をくすぐる吐息に身震いしたのをはっきりと覚えている。
相手は幽霊だというのに……!
「わたくしは公爵令嬢なのですよ!? そんなに気安く近寄らないでいただきたいですわ……!」
『それはそちらの勝手だろう? 君の都合を押しつけられるこちらの気持ちにもなって欲しいものだが』
それに近寄らないと契約書が確認できないだろう、と寄ってくる半透明の霊体を意識してしまう自分が憎い。
相手にそのつもりがないのはわかっているのに、心臓が早くなる。かといって霊体に触れることはできないのだから、押しのけることもできず、シェイラはわなわなと身を震わせる。
「〜〜っ! いいから、少しでいいから離れててくださいましーーーー!!!!」
──これから先、乗り越えていかなければならないことが増えましたわ、とシェイラは重い重い溜息を吐いた。




