二日目
翌日
昨日の雨に打たれたせいか頭がぼんやりとしていて少し熱を帯びていた。クラクラする視界で頑張って起きて制服に着替える。
《高校の制服というのは学校のイメージに直結し、正しい着こなしをすることで学校の看板を背負っているという自負が持てる。だがしかしここ最近は制服の着こなしの乱れというのが我が校にも蔓延ってきた》
なんていう校長のありがたいお話を毎朝の朝礼で聞かされなければならない高校は全国的にも少ない方だろう。
そんな事をはっきりしない思考の中で考えていた。
ダイニングに行くと朝刊を読んでいる父がいた。
「早いな、涼香。学校か?」
朝刊から目を離さず話かけてくる事もすっかり慣れた。
「そうだよ。今日は宿題の提出もあるし早めに行きたいんだ。お母さんは?」
「母さんはもう仕事に行ったよ。朝ごはんはそれだ」
テーブルに置いてあるおにぎりを指差した。
「ああそれとこれも持っていけ」
父は朝ごはんの横に置いてある万年筆を指差した。
「何これ」
「俺のお気に入りだった万年筆だ。最近新しいのを買ってな。それはお前にやる」
「ありがとう」
父はたまに自分のお気に入りだったものをくれる。小学生の時はゲーム機をくれたりした。
「俺はもう仕事に行く。鍵頼んだぞ」
朝刊をテーブルに置き隣に置いてあったカバンを手に持って出ていった。
父を見送った後、おにぎりを鞄に詰め込んで僕も家を出る。鍵を親から渡されているので鍵をしっかり閉めた。
僕たちが住んでいる家は一戸建てで近所も一戸建てが多い住宅街である。
学校からは結構遠く、電車に乗って一本乗り換えてそこからバスで近くのバス停まで行ってそこから歩いてようやく学校に着く。
遠いけどもメリットはある。それは、クラスメイトや学校の生徒に出会わないことだ。
なので気軽に登校できるのである。もちろん電車やバスの中は勉強もできる。
そんな事を思いながらバスを降り学校へ向かう。
バス停から学校までの道のりの景色はなかなかひどいもので枯れ木やジメジメしていて乾かない道など皆が嫌がるものを集めて一つにした集合体がそこにはある。
しかし、もう一本奥の道に整備されている道があるので大抵の人はそこを通る。
だから滅多に人は来ないはずなのだが──
突然吹いた風で揺れる長い黒髪が僕の視界を塞ぐ。
「おはよう。涼香君」
霧雨さんが振り返り僕を見つめる。
「どうしてここにいるの?」
僕が尋ねると彼女は困った顔をした。
「そんな事を言われてもね。自然とそうなったとしか言えないわ。でもそうね……あなたより先にここに辿り着いてたわ」
彼女はその生気のない顔で笑っている。
「そんな悲しいことは言うものではないよ」
「言う程悲しいことでもないわ」
そういうと彼女はまた前に向き直り歩き始めた。そのせいで一緒に学校へ向かうことになった。
彼女の歩幅はとても短くトコトコ歩くという言葉がとても似合う歩き方だった。一緒に登校していても特にこれと言った会話もなくただ、先に行く彼女の後を追いかける様に後ろを僕が歩くという歪な構図だった。
学校に着くとまた彼らが校門で待っているのを見てしまった。
懲りないやつだ。
「あの人たちはあなたの友達?」
いつの間にか隣に来ていた霧雨さんが僕の顔を覗くように見ている。
「友達ではないよ。ただ、ひどい関係であることは確かだよ」
「そうなのね。あんな道に来てしまうようにしたのは彼ら?」
一瞬彼女の言っている意味がわからなかったがすぐに気づいた。
「それもあるね。ただ全ての原因が彼らではない。そう、霧雨さんが言う自然とそうなる事が必然なのかもしれない」
「そうなのね」
彼女はボソッとこぼすと不意に僕の手を引っ張る。
「一緒に堕落してみる気はある?」
この時に頷かなかったら僕はいつも通り彼らにやっかみを受けて毎日を堪える日々になっているだろう。しかしこの時に僕は頷いたのだ。堕落という言葉がこの時ほど魅力的に感じたことはないだろう。
頷いた僕を見た彼女はこれまでで一番の笑顔を僕に見せた。
僕の手を引っ張ると校門とは反対方向に向かった。幾度か角を曲がると後者の裏側であろう場所に辿り着く。
「初めて来たという顔をしてるよ」
咄嗟に右手が顔を覆う。その様子を彼女はクスクスと笑っていた。
校舎裏は鬱蒼と林ができていてまともに入れるような場所では無かったが彼女は何の躊躇いもなく道なき道を進んでいく。
「ちゃんとついておいで。でなければ一生ここから出られないよ」
「えっ」
「ホントだよ」
彼女の発言はどこか寂しさを帯びていながら現実味があった。
少し進むと一つの小屋が現れた。外壁は少しボロボロで塗装はだいぶ剥がれていた。しかし中に入ると言う程壊れていなく生活の跡が見られた。
「よくここで授業をサボっているの。成績は言い方だから安心して」
彼女は床に置いてあった座布団に正座し隣の椅子に座るように僕を促した。
「遠慮なくどうぞ。今日からここがあなたのもう一つの家よ」
「じゃあ失礼して」
僕は椅子に腰掛け彼女の方を向いた。すると彼女は目を閉じて何かに耳を澄ましているようだった。
「今から雨降る」
「えっどうしてわかるの?」
「長年の勘ってやつ」
僕も耳を澄ましているとポツポツと雨が屋根に当たる音が聞こえてきた。
「雨降ってきた」
僕が何の意味もない報告をすると彼女はそうだねと返してきてくれた。
「雨はもっと強い方がいいよね」
唐突に彼女がそうやって言う。何でと聞き返すと
「雨というのは恵みでもあり安らぎでもあり天災でもある。でも今私たちにとっては恵みではないよね。だとすると‥‥」
「だとすると?」
「天災によって私たちに存在を強く主張してくる方が私好きなの」
一気に強くなった雨はボロボロの屋根を今にも貫通して来る勢いとなり大きな音を小屋の中に響かせる。
「でも、どんな雨でも私は好きよ」
彼女はそう言って立ち上がると僕に聞いてきた。
「お茶飲む?」
遠慮するよと言いかけたが思いとどまった。
「お言葉に甘えて、頂きます」
「わかった」
彼女は壊れかけの扉を開けてキッチンらしきところへ向かった。
「紅茶?緑茶?何がいい?ここには何でもあるわよ」
少し悩むと僕は紅茶にすることにした。奥の方から少し待っててと聞こえたのでわかったと返事する。
段々と雨の勢いは収まってきて心地よい音が小屋の中で流れる。彼女は天災を選んだが安らぎを今の僕なら選んだろう。
しばらく待っていると紅茶のいい香りがしてきてキッチンから彼女がお盆を持って帰ってきた。
「どうぞ」
丸机に紅茶の入ったティーカップと受け皿を出してくれた。
「本格的だね」
「ただのアールグレイよ」
「カップの話だよ」
ああと彼女は頷いた。
「私の趣味なの。気に入らなかったかしら」
「そんな事ないよ。僕の家もそんな感じだったから慣れてる」
そう言うと持ち手を持ち紅茶を飲む。彼女は可愛い絵柄が描いてあるマグカップを持っていた。
「それは?」
「コーヒーよ。確か、キリマンジャロだったかしら」
湿気のせいでジメジメしているが飲んだ紅茶のせいか気持ちが落ち着いていて湿気が気にならなくなっていた。
ふと気になり彼女に話しかけた。
「どうやって火を起こしたの? 電気もガスも無いでしょ?」
彼女は飲んでいたコーヒーを机に置くとヒントを言った。
「耳を澄ましてごらん」
相変わらず降る雨が屋根を打ち付ける音の中に何かが弾け飛ぶ音が聞こえる。
「焚き火? いやでも部屋の中ではやらないか」
「気になるなら確かめに行ったら?」
椅子から立ち上がりキッチンらしきところへ行く。
するとあったのはキッチンではなく囲炉裏だった。上を見ると煙が立ち込めていた。隣を向くと大量の薪木と二箱のマッチ箱があった。
「なるほどね」
彼女の元に帰ると床で眠っていた。ある程度掃除されているとはいえ湿気のせいで少し感触が良くない。
「風邪ひくよ」
声をかけても起きないので仕方ないから自分がたまたま着ていた上着をかけてあげた。僕は椅子に座り雨が奏でるハーモニーに耳を傾けながら目を閉じた。
再び目を開けると既に雨は止んでいた。
「おはよう。良く寝れた?」
彼女はもう起きていて逆に上着が僕にかかっていた。
「ええとても気持ちよく眠れました」
「それは良かった」
そう言うと彼女は立ち上がり手を差し出した。
「もう学校は放課後の時間だよ。遅くなる前に君は帰った方がいい」
僕は何も考えずにただその差し伸べられた手を握った。
鬱蒼とした林を抜け幾度か角を曲がりいつもの道に出る。
「一つ言い忘れてた事があったのだけど」
「何ですか?」
「一人であのところには行ってはいけないからね」
「どうして?」
「あなた一人で行くと一生辿り着けないから」
「それは……確かにそうですね」
「明日は私学校行かないから絶対に行って行けないよ」
「わかりました」
それじゃあねと彼女は言って学校の方へ行ってしまった。僕も家に帰ろうとしたがふと気になって後ろを振り返る。
しかしもうそこに彼女の姿はなかった。




