釣った魚に餌はやらない
「まっちゃんって、釣った魚にエサをやらないタイプ?」
妻にプレゼントをあげたことがない、という話に夫の友人がドン引きしていた。
それを見て、妻であるわたしは「もっと言って」となるどころか、まとわりつく不快感に首を傾げた。
なんだろう。
モヤモヤして気持ち悪い。
その正体を探ってみて、
(釣られた覚えはないけど)
という感覚だろうかと瞬きを繰り返した。
わたし――松田亜梨沙は地方都市に住む30代半ば、いわゆるミドサーの「女子」だ。
「まっちゃん」と呼ばれていた松田雄二とは婚活で知り合い結婚。
すぐ子供ができたため、十年以上務めた会社を辞め専業主婦になった。
専業主婦…。なんてマイナスな響き。
言い訳させてもらうなら、退職の理由は保育園に落ちたから。
激務な夫の通勤に都合の良い場所に居を構えたら、そこは保育園激戦区。
自分の職場からは遠く、通勤時間を考えると近所の保育園を希望するしかなかった。
当然のように落選。
厳しいとは聞いていたけど、認識が甘かった…。
1歳の双子だから、なんらかの配慮とかポイント加算とかあるだろうと高をくくっていたのだ。
時短勤務で復帰予定では足りない。
本気の本気で保育園に入りたいなら、先にフルタイムで復帰しておいて、子供は認可外の託児所に預けるのだ。
そうすれば、ポイントが最高まで加算されて優先的に希望の保育園に入れる。
保育園に落ちても職場復帰を強行できなくはなかった。
例えば、子供を連れて実家(職場から徒歩圏内)に帰り、週末婚にするとか。
その他、託児を利用するとか、ナニーを雇うとか。
どれもこれも極端な案だ。
それをしたところで誰が喜ぶ?
復帰のために夫婦関係や家族関係が破綻したり、自分の健康を害したり、その危険を冒してまですること?
仕事を始めれば、職場の付き合いも休日出勤も避けられない。
復帰したら夫と家事育児を分担できるだろうか?
聞くまでもなく無理だった。
雄二が稼ぐ額は亜梨沙の3倍。
土日出勤当たり前、週の半分以上付き合いの外食や会合。
家事育児を分担する余裕がどこにある。
労働単価も違いすぎる。
だったら夫には仕事をしてもらって、自分が家のことをやったほうがいいという結論になった。
家事育児を妻任せにする雄二だが、亜梨沙は別に構わなかった。
そもそも結婚する前に、結婚観のすり合わせはしている。
その中で「生活にかかるお金は夫が負担する」という亜梨沙の要望に対し、雄二は「家事は妻に一任する」と返した。
お互いにそれを了承したからこそ結婚したのだ。
今更否やはない。
それに、雄二は家庭を「運営」するうえで最高の相手だ。
甘えがまったくない。
仕事を休んだこともないし、愚痴も聞いたことがない。
何時に帰ってくると予告すればその通りに帰ってくるし、やると決めたことはどんなトラブルがあろうと必ず実行する。
そのストイックさに触発され、亜梨沙も家事や育児に邁進できている。
一般的に「家庭は休むところ」という考えがある。
亜梨沙も結婚前はそう思っていた。
しかし結婚してから、その意識は変わった。
家庭は自然発生的にそこに存在するのではなく、努力によって「運営」していくものだ。
清潔な環境と健康的な食事、そしてその土台となる経済的な豊かさ。
それを維持するためにしなければならないことはたくさんある。
動き続けなければ、十分に仕事――外の仕事だけでなく家庭内の仕事が果たせない。
快適に暮らしていくために、引いては幸せな生活を送るために、家の外で電源をОNにして家に帰ればОFFにするという意識は捨てなければならなかった。
水回りや食材を放っておけばカビが生えるし、料理をしなければ食事は出てこない。
食器を洗わなければ菌が繁殖するし、不潔な環境では病気になる。
他人と関わって仕事をしなければ収入はなく、雨風をしのげる屋根もなくなる。
生きている限り、動き続けなければならない。
――それを辛く感じたこともあった。
けれど動き始めてみれば、むしろ身体的にも精神的にも楽なことに気が付いた。
心臓も筋肉も脳もいつだって…24時間身体の機能は働いている。
だから、動き続けることは自然の流れに沿った、理にかなった方法なのかもしれない。
数年前にヨガインストラクターの資格をとってからは、その考えを受け入れることができるようになり、生きるのが格段に楽になった。
休むことも動くことも、緊張も弛緩も、すべて一連のFLOWの中にある。
休むことは「身体に良い」とされがちだけど、そうとも限らない。
動くことも同じくらい「身体に良い」。
どちらも過ぎれば毒になる。
外と家ではモードが変わるだけで、常にОNであることは変わらない。
もちろん、亜梨沙が完璧にワンオペ家事育児をできているわけではない。
自他ともに認めるムラッ気の持ち主だし、家の中はいつもどこかが散らかっている。
残念なことに、1か所片付ける間にもう1か所が散らかるという繰り返しだ。
それでも、キレイにしようという気持ちはいつも持ち続けているし、分からないことは勉強していた。
亜梨沙は怖いのだ。
慣れやダレから家庭の崩壊は始まる。
だらけることを認めて諦めてしまえばそれが常態化し、少しずつ少しずつ、どこまでも際限なくだらしなくなってしまうのではないかと。
それに慣れてしまったら、そこから引き締めるのは簡単ではない。
健康を害するところまでいってしまったら、特に。
だから、厳しい夫は亜梨沙にとってありがたかった。
いつでも緊張感をもって生活できる。
夫はしっかり稼ぎ十分な生活費を渡してくれるし、子供をお風呂に入れたり公園に連れて行ったり、やることはやっているので、ワンオペだろうと反感はない。
だからこそ、夫の友人の言葉には違和感があった。
自らの考えに従って結婚生活を送っているだけで、釣られた覚えはない。
亜梨沙は自ら選んで、この場所にいるのだ。
言ってみれば、ここは夫という名のため池。
川からこのため池に流れ込んできた魚が、この住み心地の良いため池で暮らしていることに過ぎない。
(ってゆうか、他人の妻を「釣った魚」扱いするなんて失礼な話じゃない?)
一個の人格として認めていないから、そういう発言になるのではないか。
妻という存在を――結婚を――なんだと思っているか。
夫の友人、42歳(婚活中)。
婚活を始めて早5年。
あと少しというところまで行ったことはあるが、いつも最後はお断りをされてしまうという。
本人は「どうしてだろう」と首をひねっているが、
(そうゆうとこだぞ)
亜梨沙は半眼で男の襟足を見つめた。