マリアンナの憂鬱
朝から嫌な予感がしていた。この数日、絡みつくような視線を感じていた。だからひとりきりにならない様に周囲に気を配っていたのだが、今日はうっかりと学院に忘れ物を取りに戻って、急ぎ足で門を出て馬車の待機場所へ向かう途中で、マリアンナはいきなり肩を掴まれた。
「マリアンナ・オディール!お前、何故逃げた?婚約者の俺に何も告げずに。一体どこへいるのだ?」
太い腕でマリアンナの華奢な肩を鷲掴みにしているのは、金融業ゴードン男爵の息子ロバートだ。
「ゴードン男爵令息、わたしと貴方が婚約した事実はございません。誤解を受けます。肩が痛いです、手をお離しくださいませ」
マリアンナは痛みで顔を顰めながらも気丈にも言い返した。
周りの人々はふたりのやり取りを遠巻きに見ている。
ロバートは学院の同級生とはいえ、騎士団入団を目指す剣術コースに在籍しているので校舎が離れており、今まで顔を合わせることなどほとんど無かった。
腕に自信があって、その上大きな身体に太々しい顔をしており、マリアンナと同じ17歳とは到底思えない。
ロバートは借金に苦しむオディール家を見下していたので、まさかマリアンナが婚約を拒否するわけがないと思っていた。だから失礼な言葉はあっても、これまではマリアンナにしつこく絡んでくることはなかった。
しかし、マリアンナが退寮してしまい、学院外での居場所がわからなくなった。
父からは借金が返済された事と、力のある後援者がついているからマリアンナとオディール家には今後一切構うなと聞かされたが、ロバートは納得出来なかった。
実のところマリアンナの事が案外気に入っていたので、マリアンナも同じ気持ちだろうと勝手に勘違いしていた。
父からは近づくなと言われていたが、無理やり既成事実を作ってしまえば後はなんとでもなる、と考えていた。
学院は退学させて男爵家の金融業を手伝わせればよい、あいつは頭が良いからな、そう考えたロバートは待ち伏せをしてマリアンナを拉致する機会を狙っていた。
「お前達貧乏一家は、借金を返済さえすれば俺との関係をなかったことにすると言うのだな?全くいい度胸をしてるよな。お前は俺の嫁になるって決まってるんだよ。借金まみれのお前達を助けてやった恩を忘れたのか?
それにな、お前みたいな無価値で何の取り柄もない女は、俺が見捨てたらどこにも嫁の貰い先なんてないんだよ!」
「何を寝ぼけたことをおっしゃってるのですか?借金は返済いたしましたし、もうゴードン男爵家とは何の関わりもございません。離してください。人を呼びますよ!」
掴まれた肩が痛い。
マリアンナは涙目になりながらも言い返した。
思わぬ反撃に怒りを覚えたロバートが、さらに力を込めようとした時に、2人の間に割って入った人物がいた。
「その手を離せ。ゴードン男爵令息にはご令嬢への接近禁止命令が出ていたはずだ」
「クリフ様!」
間に入ったのはデヴィの護衛騎士のクリフだ。
「お前は誰だ?さてはマリアンナの新しい男なのか?なんて尻軽な女だ、俺との婚約を勝手に無かった事にして、もう違う男に乗り換えたのかよ!」
口から泡を飛ばしそうな勢いで罵るロバートに、マリアンナは怖くて足元が震えた。掴まれていた肩が痛いし立っていることも辛い。周りの人々、学院の生徒たちは遠巻きにロバートとクリフ、そしてマリアンナを見ている。その現状に気付いたら張り詰めた気持ちが一気に弾けた。
もう、無理、立ってられない…肩の痛みを意識したら急に血の気がひいて意識が遠くなる。膝をつきそうになったマリアンナを支えてくれる手があった。
「安心して休んでいいよ」
耳元で聞こえる声が遠くなった。
帽子を目深に被りマントを羽織った謎の人物はマリアンナを抱きかかえると、クリフに頷いてその場を立ち去った。
「おい!そいつをどこに連れていくんだよ!お前は誰だ?俺の女を誘拐する気か?事によっちゃあお前を」
ロバートは最後まで言う事が出来なかった。
クリフが首に手刀をあてた途端、気を失ってその場に倒れ込んだのだ。
クリフはロバートを学院の敷地内に引っ張っていって、そのままどこかへ報告に向かった。
一方マリアンナを抱えた謎の人物は、家紋の入っていない馬車にマリアンナを乗せると公爵邸へ向かわせた。
*
マリアンナが目を覚ますとそこはロックフィールド公爵家の自分の部屋だった。
起きあがろうとすると肩に痛みが走った。左の肩には湿布が貼ってある。ロバートに相当きつく掴まれていたようだ。
「マリアンナ様、気分はいかがですか?肩の他にも痛むところはございますか?」
心配そうに侍女のシャーリーが声を掛けた。
「ありがとう。大丈夫です。あの、わたし学院の前で気分が悪くなってしまったようで」
「デヴィ様がご心配なさってますので、お呼びいたしましょうね」
すぐに慌てた様子でデヴィがやってきた。何も言わずにマリアンナをぎゅうと抱きしめた。その際に肩に力が入り、思わず顔を顰めてしまった。
「あ、ごめんなさいっ!痛かったわよね?わたくしったらなんて事を」
おろおろするデヴィにシャーリーが呆れ顔で説教した。
「デヴィお嬢様、マリアンナ様はさっきお目覚めになったところでございます。肩だけではなくお心も痛めてらっしゃるのですよ。
それにレディは無闇矢鱈と他人に抱きついたり、抱きしめたりいたしません」
そう言うとシャーリーはデヴィを引き剥がした。スラリと背の高いデヴィが、されるがままである。
「目が覚めて良かった…。マリアンナの肩は青あざになってしまうけど、じきに色がひいてくるとお医者様は仰ってたわ。でもしばらくは学院はお休みなさいね。お父様から学院長へお話が行くから安心して」
「デヴィ様わたし大丈夫です。驚いて気を失ってしまったようですが、クリフ様が助けてくださいました。後でお礼を申し上げたいです」
ロバートから守ってくれたのはクリフで、二人は睨みあってて、それから気が遠くなって、わたし倒れそうになって……
あれ?倒れたのよね?その割には痛むのは掴まれた肩だけ。倒れる前に誰かが抱き止めてくれた気がする。
図書館の時と同じだ。
「クリフには道中の貴女の護衛を任せているの。仕事だから気にすることはないわ。むしろもっと早くに、あの男がマリアンナに掴みかかる前に止めなくてはいけなかったわ。クリフには厳しく言わないといけないわね。
さあ、もう心配はいらないわ、あの男は排除したから二度とマリアンナの目の前に現れることはない」
デヴィはそっとマリアンナのベッドのそばにしゃがんで、マリアンナの手を取った。
「マリアンナに害をなす者は全て排除するから。わたくしに貴女を守らせてちょうだい」
女神のような笑みでデヴィはそう告げた。
*
掴まれた肩には青あざが出来たが、大きな怪我はなかった。
しかしロックフィールド公爵家の意向でマリアンナはしばらく学院を休む事になった。
「ゴードン男爵家には厳重に注意、子息には女性に対する暴力とその後の拉致計画を糾弾して、学院は退学させた。何を勘違いしているのか、マリアンナ嬢と婚約関係にあると思い込んでいたようだから、今後このような事があれば正気ではないと判断して、然るべき療養所へ入ってもらう形になるだろう」
ロックフィールド公爵はマリアンナにそう告げた。
お読みいただきありがとうございます。
2025/1 改稿しました。