ある一日
部屋には油彩に使われる絵の具の匂いと、筆がキャンパスを滑る静かな音があるのみ。窓際に座る少女は、天井まで届きそうな大きな窓から差し込む光に優しく包み込まれる。
ふぅ、と息を吐く音が聞こえた。
「休憩しようか。」
デヴィッドは絵筆を置くとマリアンナに声を掛けた。
彼は今、マリアンナをモデルにして絵を描いていた。絵を描く事はデヴィッドの趣味である。
「それで学院でノイマン公爵令嬢に絡まれたんだって?」
「絡まれたと言いますか、何だかえらくご立腹でした」
「うん、エルリーヌから聞いてるよ。どうやら令嬢はうちに喧嘩売ったみたいだね。父上も僕も売られた喧嘩は買う主義なんだ」
衣装が汚れぬようにつけていたエプロンを外し、メイドに差し出されたタオルで手を拭いたデヴィッドは、お茶のカップを手に取るとマリアンナの隣に腰を下ろした。
「アリッサ・ノイマン様は家格も御姿も、デヴィッド様と釣り合っていてお似合いの方だと思いますわ」
「本気で言ってるの?だとしたら寂しいな。僕は君がこの家に来てからずっと愛を囁いているのに伝わっていなかったのかな」
デヴィッドはマリアンナを見つめてそっと手を取った。
男性にしては綺麗な手、それでもマリアンナより大きな手が包み込む温かさは、胸の中にまで染み込むようだった。
デヴィッドは人との距離が近い。女性としてのマナーを躾られていた反動なのだろうか、好きな人への愛情表現の出し惜しみはしない。マリアンナへの好意を隠そうとしないデヴィッドだが、マリアンナには弁えるべき立場があった。
(勘違いしちゃ駄目。デヴィッド様は貧乏子爵家の娘が珍しいだけなのよ。決して本気ではないのよ)
揺れる内心を隠して、マリアンナは、用事で外出したいのですが、絵の続きは今度でもよろしいでしょうか?とお伺いを立てた。
「何の用なの?外へ出かけるなら送って行くよ」
「弟のアーサーの誕生日が近いので何か見繕いたいと思っているのです」
「それなら僕が一緒に行こう。街を案内するよ」
*
マリアンナは公爵家で生活するようになって、『デヴィの話し相手』という名目で給金を与えられていた。それは図書館で働いていた時の数倍もあったのでマリアンナは恐縮して辞退したのだが、公爵家のティカップ一個の代金より安いのだから気にするなと言われ、有難く頂いている。
(ここにいると金銭感覚がおかしくなってしまうわ)
マリアンナとしては過分な給金は辞退したいが、結局押し切られてしまい、今に至る。
しかしマリアンナは必要経費以外には手をつけないようにしており、この家を出る時に残り全てを返すつもりだ。
デヴィッドが、デヴィである事をやめてしまった。何が彼の気持ちを変えたのか、マリアンナはわからなかったが、社会との関わりを積極的に行うようになった今、話し相手として公爵家に滞在しているのは間違っている、そう考えていた。その上、給金などとてもではないが頂くわけにはいかない。
それに加えてノイマン公爵令嬢の言葉がマリアンナの心を暗くするのだった。
(ロックフィールド家を出る。借金は父と一緒に必ず返して行く。それも目処がたってきた。
だから何とか図書館の仕事に復職して、寮に戻ってあと一年やり過ごせないかしら。)
デヴィッドと一緒にいるのも心苦しかった。
ロックフィールド家の三兄弟の立場が微妙に変化しつつある今、デヴィッドの邪魔や立場が悪くなるようなことはしたくなかった。
だから図書館へ行って再び雇ってもらえないか相談するつもりでいたのに、デヴィッドが付いて行くと言い出して困ってしまった。
*
「何か目当てはあるの?」
「いえ、特には。やはり今日は止めておきます。アーサーへの贈り物なんて無くても大丈夫です」
「アーサー君はたしか、義理の弟になるんだったね。随分仲が良いのだね。誕生日の贈り物だなんて羨ましいな。僕が君か贈り物を貰えるなら、きっと一生宝物にするんだけどなあ」
デヴィッドは心底羨ましそうに言った。
結局、デヴィッドに押し切られたマリアンナは、断りきれずに一緒に街中へ出かけることになった。
デヴィッドが知っているという雑貨屋へ連れて行かれて、少ない予算の中から、何を買おうか迷っていると
「お金は気にしなくていい。アーサー君が喜びそうなものを選ぶといい」と言われて顔を赤らめた。
「マリアンナには我が家から給金として渡しているはずだけど、使っていないのではないか?
うちからお金を受け取るのはマリアンナの矜持が許さないのかな。
それとも他に何か理由があるのなら教えてほしい。僕がお願いして側に居てもらっているのに、君を苦しめることはしたくないよ」
公爵家にやってきてから三ヶ月、デヴィッドはマリアンナが贅沢な買い物をしていない事を知っていた。
ドレスはデヴィッドが用意した数着のドレスを着回しているし、装飾品は丁重にお断りして返却された。傷を付けたり紛失したら大変だ。とにかく分不相応なものは不要なのだ。
好意を伝えても必ず一歩控えたところにいて、本気で受け取ってくれないマリアンナ。
自分のせいではないのに、借金を背負わされ苦労してきたマリアンナ。
デヴィッドに近すぎると嫉妬されて嫌がらせを受けているマリアンナ。
(君が愛おしいよ)
図書館で見かけた時から、デヴィッドはマリアンナに恋をしていた。
思わぬ成り行きで距離が近づき、あと一歩で彼女を手に入れられるかもしれないところで、後継問題でロックフィールド家が揺れていた。
デヴィッドにはマリアンナにまだ伝えられない言葉がある。
まだ何者でもない自分には、マリアンナを幸せにするための資格がないとすら思ってしまう。
もっと甘えて欲しい、頼って欲しい、力が欲しい……そのためには父や兄達との話し合いをする必要があるのだ。
「離さないから覚悟して」
雑貨屋で品物を眺めているマリアンナを見守りながら、聞こえぬようにそっとデヴィッドは呟いた。
*
結局アーサーの為には硝子のペン先と羽ペン、綺麗な色のインク壺、上質な便箋を買い求めた。アーサーが手紙を書くかどうかはわからないが、持っていても困らないだろう。そしてマリアンナは刺繍糸を何種類が買った。
デヴィッド様にはお礼に刺繍の何かを差し上げようと思う。ハンカチが良いかしら。使用人の皆さんにもお礼をしたいわね。
そんな事を考えていたら、デヴィッドが顔を覗き込んでいるのに気がついて、頬に熱がこもった。
(デヴィッド様に見つからないように、放課後に図書館へこっそりと行かなくては。
まずは働き口を確保しなくてはいけないわね)
今年もよろしくお願いします。
2025/2 改稿




