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6.日常系エッセイ(過去作は検索除外しているのでこちらから)

ワクチンよりも注射が怖い。ええ、私は注射が怖いです。これはもう、理屈じゃないと思います。

「新型コロナワクチンの注射針が上腕部に刺さるには、上腕部と注射針の中間地点Aを通る必要がある。だが、その中間地点Aに到達した注射針が上腕部に刺さるためには、Aと上腕部の中間地点Bを通る必要がある。さらにその次には……と、このように考えていくと、新型コロナワクチンの注射針が上腕部に刺さるには、注射針と上腕部の間にある無限の点を通らなければならない。だが、無限の点を通るのに必要な時間を考えると、注射針は決して上腕部に届くことがないことに気付く。つまり、注射の恐怖は終わることのない、無限の恐怖なのだ。この恐怖は、いつかは終わるワクチンの副反応よりも大きいことは明らかだろう。だから私は声を大にして言いたい。――注射こわい!!」


 これは、私が2021年6月29日に新型コロナワクチンの一回目を接種するにあたり、その日の朝に思いついた理屈を書き記したものです。この文章を見れば、私の言いたいことは何となくわかってもらえるのではないかと思います。


 そう、注射の恐怖というのは理屈ではないのです。こんな無茶苦茶な文章でも「ああ、この人は注射が本当に嫌いなんだな」と、そんなことが伝わってしまう位には普遍的な、本能に根ざした恐怖です。


 思うに、注射に対する恐怖というのは、全人類が等しく持つ恐怖なのです。


……と、そう思っていた時期が、私にもありました。ですが現実は、そんな私を嘲笑うかのように、予想だにしない展開を見せたのです。


 そう。新型コロナワクチンの注射は、これっぽっちも痛くなかったのです。


  ◇


「はい、終わりましたよ」


 2021年6月29日午後3時35分、そう言われなければ接種が終わったことにも気付けないほどのささやかな感触を残して、私のワクチン接種は終わりました。この時に私が抱いた、まるで狐につままれたような気分を理解してくれる人は、一体どれくらいいるでしょうか。


 新型コロナワクチンの注射は、私が今まで経験したことのない、筋肉注射と言われるものです。それがどんな注射なのか、ちゃんと事前に情報も集めました。

 たまたま同じ日に『吉村知事がワクチン接種 「人生で一番痛くない注射」』という記事を見て少し安心したのも事実ですし、その記事を見て一瞬吉村大阪府知事を見直しそうになってから「いや、注射が痛くないのと吉村知事にはあまり関連性が無い」ということに気が付いて「これだから維新は」と不信感を露わにしたのも事実です。

 接種するときは力を抜いてリラックスすると良いという情報を見て、「うん、絶対に緊張なんてするもんか!」と意気込んだのもまた事実です。


……まあ、接種の直前に割り込みの仕事が入って色々と追われて、時間が来て医務室の列に並ぶときにはそれどころじゃなかったのも事実なのですが。


 ですが、年に一度の健康診断の採血の時みたいに、頑なに注射器の方を見ないようにしながら力を抜いて、チクリと痛みが走っても力を入れないようにと強く意識しながら接種に望んだのも事実です。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫です。苦手なだけです」

「苦手ですか?」

「はい。苦手です」


 採血のときのように、看護師さんとそんな会話をしながらただひたすらに注射器から目を背け、言われた通りに手を握ったり開いたりしながら終わるのを待つ。そんな、「頑張って今年も注射の恐怖を乗り越えた」みたいな感じのことが、たとえ短い時間とはいえ、今回の新型コロナワクチンの接種でも、あると思っていたのです。


……なのに、「チクリ」という表現すら似合わないほどに微弱な、「終わりましたよ」と言われなければ本当に気付かない程度の感触だけで、接種が終わってしまったのです。


 本当に、本当にあっけなく終わってしまったのです。あれでは、「狐につままれた」ような気分にすらなれません。ええ、だから正確には、「狐につままれたと言われたような気分」と表現するのが、より正しいのだと思います。


 その位にね、痛くなかったのです。


  ◇


 ですが、本当にそんなことがあり得るのでしょうか。新型コロナワクチンの接種は、注射針を深々と、(見てないけど)一センチ以上も刺したはずなのです。なのに痛くないなんて、非科学的、非論理的にも程があると思います。

 針を刺したら痛い、それこそが科学的な思考という奴で、常識だと思います。なのに、一センチ以上の深さで針を刺して痛くないとか、ありえなくないと思いませんか。


――私は本当に、新型コロナワクチンを接種したのだろうか。そんな疑問が沸き上がってくるのも仕方がないと思います。


  ◇


 私が注射器から目を思いっきりそらしていて、さらに見合った痛みを感じなかった以上、私がワクチンを接種したかどうか、自分では確信が持てません。「実は接種していなかった」と言われても否定しきれないのです。なので、本当に私がワクチンを接種をしたか知っているのは、実際に私の上腕部に注射器を刺したであろう看護師さんしかいないはずです。


――ですが、ここに重大な問題点が隠れていたのです。そう、看護師さんにとって、私が接種したかどうかというのはささやかな、意識しなくても良い程度のことでは無いだろうかという疑惑です。


 あの看護師さんは、その日1日(2〜3時間)だけで、50人位の人にワクチンを接種しているはずです。1日の内にそんなにも接種すれば、きっと目を瞑っても接種できるようになっててもおかしくないと思います。


 つまり、私が接種してかどうかを看護師さんはわざわざ記憶にとどめているとは思えないし、それどころか、看護師さんですら私が接種するところを見ていない、そんな可能性だってゼロとは言い切れないのです。


 箱の中に入れた猫だって、泣き声ひとつあげなければ、本当にその箱の中に猫が入っているのかはわかりません。それと同じように、私のワクチン接種だって、誰も見ていなければ、ワクチンを接種したという事実も確定できないのではないかと、そんな風に思うのです。


――この世の中というのは、観測することで初めて結果が確定します。その観測が、私のワクチン接種という行為ではなされていなかったのではないか、そんな疑惑が頭をよぎったのです。


 といってもまあ、接種した場所に触れるとほんのわずかな痛みはありましたし、帰宅後はなんというか、ちょっとした違和感が出てきました。次の日には接種した部位の周辺にしっかりと、ささやかな筋肉痛のような痛みや張りも出てきましたし、うん、そういった副反応のおかげで、ちゃんとワクチンを接種した気分にはなれました。


  ◇


 重い副反応がなんて言いますけど、何が起こるのかなんて大体はわかっているし、それをやせ我慢しないといけない訳じゃない。私は過去に右手首と左手首を骨折(共に橈骨遠位端骨折)して、共に二回ずつ手術をしているのですが、そうですね、最初の一回目はちょっと怖かったですが、二回目以降はさほど怖いとは感じませんでした。

 そりゃあ、手術直後は伝達麻酔が切れるまではもう片方の手で支えておかないと肘から先がどこかに転がっていくとか、手術した日の夜は麻酔が切れて鎮痛剤無しでは眠れないとか、色々ときつかったのも確かです。でも、わかってしまえば心の準備もできるし、どうということも無いわけですよ。新型コロナワクチンの副作用もそれと一緒で、何が起こるのかがわかっているのであれば備えればいいだけです。どうと言うことはありません。


 私は注射の痛さがこわいのではありません。ましてやワクチンの副反応が怖いのでもありません。


――私は、注射がこわいのです。いや、痛いのも嫌ですが、とにかく注射が怖い、ただそれだけなのです。


  ◇


 そんなこわい注射も、とりあえず一度目は終わりました。二度目はきっと、この前よりももっと強い副反応が出ると思います。……でもそれは、注射を打たれた実感がなくても、副反応があればワクチンが体内に入ったという結果は観測できると、そう言い換えてもいいはずです。


 そして、接種をするときにリラックスして力を抜いて、注射器を決して見ないようにすれば、注射針が刺されたことにだって気付けないほどに痛みは無いのは、一回目も二回目も一緒のはずです。……そう、あの注射は、言われなければ注射に気付けないほど軽い痛みなのです。


――そう、私は気付いたのです。いつ打ったか気付けないような注射は、注射を打っていないのと同じだという事実に。


 ワクチンを接種したいのに注射がこわい。この状況を打開するのに必要なのは、理屈ではありません。ただリラックスして座っているだけでワクチン接種が終わったことになるという事実と、座っているだけでワクチンの効果を得られ、副反応も現れるだろうという推測。そんな、理屈では説明しきれない現実を受け入れることこそが、注射こわいという絶対の真理に対抗するために必要だと、私は思います。


――そう、これはもう、理屈ではないのです。理屈よりも大切なものが、世の中にはあるのです。


 そんな思いを胸に、私は数週間後に待ち構えているであろう、二回目のワクチン接種に望もうと、そんな風に思います。

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