5、Sの秘密
5話目です。
俺、杉村ノリトには二つの秘密がある。
ひとつ、実は俺は中学デビューをしているということだ。
今でこそ男女問わず沢山の友だちがいる俺だが、小学生の頃は、極めて根暗で地味な少年だった。
友達なんていない。休み時間はずっと本を読んで過ごしていた。勉強や運動は嫌いでも苦手でもなかったけど、勉強を教えてと請われたり、一緒にスポーツを楽しめるような友人はいなかった。「宿題を見せろ」と強要してくる人や、運動会で誰も出たくない競技メンバーを押し付けてくる人はいたけれど。
そんな俺は、父親の転職で小学校卒業と同時に引っ越すことになった。
前に住んでいたアパートが会社の持ち物だったので引っ越しが必要になったが、引っ越した場所はすぐ隣の町だった。元々住んでいた場所から車で三十分程度離れただけの引っ越しだったが、通っていた小学校や中学校の学区外の場所ではあったので、春から通い出す中学校は、ほぼ転校生のような状態で入学することになった。
これをチャンスだと思った俺は、中学デビューを試み、そして見事に成功した。
髪型を変え、眼鏡をコンタクトにして、自分から笑顔で色んな人に声をかけるように心がけた。兄や姉から雑誌をかりて読んだり、流行のものを知識として積極的に取り入れるようにした。バスケ部に入って、休み時間も休日も、誘われれば積極的に外に出て行った。
身だしなみを明るい雰囲気で整え、自然とよく笑うようになり、流行の話題が話せるようになり、部活で体が鍛えられていくと、友達はどんどん増えていった。女の子から告白されたりするようにもなった。
始めのうちは毎日ドキドキしていたし、ついていけない話題は知ったかぶりや曖昧な相槌で乗り切って家に帰って大検索、なんてことがよくあった。バスケ部の活動も、運動が不得手では無かったとはいっても、繰り返す筋肉痛が辛く、ある程度のスタミナをつけるまでは地獄だった。
それでも半年も乗り切れば、性格も体力も身体に染みついてくる。情報の得方もすっかりコツを覚えた。明るく笑顔で接することが自分にとっても普通のことになってきていた。高校生になった今では「昔は根暗だった」という話を冗談で出来る程の余裕さえ出てきた。
見事な中学デビューを果たした俺は、見事に新たな人生を歩んでいた。今通っている高校に、同じ小学校だった生徒も数人いるが、根暗で地味な所謂「ぼっち」だった小学生時代が幸いし、俺のことを覚えている様子の者はいないようだ。
そんな俺の二つ目の秘密は、好きな人のことだ。
お気づきのことだと思うからこの際はっきり言ってしまうが、俺の好きな人と言うのは、同じクラスの中田サヨだ。
実は彼女こそ、現在同じ高校に通っている、小学校時代の同級生のひとりだ。六年生の時の一年間だけだが、同じクラス、しかも同じ図書委員だった。
小学生の頃の中田は、今とほとんど変わらない。
今は肩より少し長い位の髪を二つ結びにしているが、小学生の頃は髪が今よりももう少し長く、母親がやってくれるのか、よく三つ編みにしていた。当時から、高校生になった今もそうであるように、友達は少ないものの、クラスに必要最低限馴染めるだけのコミュニケーション能力はあり、目立たず、いじめに遭うことも無く、毎日を静かに過ごしていた。
中田は当時から読書好きで、自ら図書委員をしていた。当時読書ばかりして孤独から逃げていた俺も、同じ図書委員だった。
中田も俺も、一年生の頃からずっと図書委員をしてきた。だから俺は話した事こそ無いものの、中田のことは知っていた。
「よろしくね」
初めて同じクラスになり、一緒に委員会活動に臨んだ時、中田は自分から小さく微笑んでそう声をかけてくれた。完全に「ぼっちキャラ」が定着した俺に微笑んで話しかけてくれるクラスメイトは希少で、俺はどぎまぎして頷くことしかできなかった。
中田がずっと同じ委員会だった俺のことを知っているのかどうかはわからなかったが、その時は既に自分が地味だという自覚があったので、別に気にしなかった。「ずっと同じ図書委員だったんだけど、俺のこと知ってる?」なんて、聞く勇気も無かった。
中田は、俺がぼっちキャラだということも、男子ということも関係なく接してくれた。それまでの五年間は、なんとなく気まずい空気で同じクラスの図書委員の女子と過ごしてきた。俺と関わることで、自分に嫌な風聞が立つのを怖がっていたのかもしれない。
でも、中田とはそういう空気になることは無かった。お互い本好きだったので、委員会の仕事中に空き時間があれば、静かにお互い今読んでいる話をした。普段、中田はクラスに一人仲の良い女子がいて、その女子と過ごしていたが、中田は俺を見つけると挨拶をしてくれた。俺がすれば返してくれた。中田のおかげで、六年生は俺の根暗な小学生時代の中で、ダントツで穏やかに過ごせた一年間だった。
そうして時は流れ、修学旅行の時期になった。二泊三日も同級生と過ごすというのは、一般的にはわくわくする行事かもしれないが、ぼっちには長く、ただ胃が痛む行事だ。
さらに事前の学級会の時間に、修学旅行時の自由時間に行動するグループを組むことになった。ぼっちにはさらに地獄でしかない時間だ。
「五人グループを作れ。誰と組んでもいいが、必ず五人グループを作ること。グループが出来たとこから、まとまって座っていくように」
担任の先生はそう言うと、腕組みをして教壇の上で皆を見守る姿勢に入った。
どうせ俺は余る。いつものことだ。大体は人数が足りない仲良し四人グループに配属される。四人には申し訳ないが、決して邪魔はしないし、四人で和気藹々過ごして構わないから、どうか受け入れて欲しい。
「杉村君」
もはや諦観して席から動かずにいた俺の前に、中田がやってきて声をかけてきた。
「よかったら、一緒のグループにならない? あと一人で五人になるから、入ってくれると嬉しいんだけど……」
中田はそう言って、無意識なのか、申し訳なさそうに小さく手を合わせた。
その姿がなんともいじらしくて、とても可愛らしいと感じた。
戸惑いつつ、俺はなんとか「うん、入りたい」と伝えると、中田は心底ほっとした表情で息をつき
「ありがとう」
そう微笑んだ。
時折、漫画とか外国のタトゥーで、心臓を模したハートを矢で撃ち抜かれている図を見るが、まさにあのようなイメージの感覚が、俺の頭の天辺から足の先までを駆け抜けた。
それまでも友好的に接してくれる中田には好感を抱いていたが、その微笑みで、俺は完全に中田にノックアウトされてしまった。
中田が誘ってくれた班は、中田の仲の良い女子一名と、同じように大人しめの女子二名のグループで、男子は俺一人だった。恥ずかしい気持ちはもちろんあったし、メンバーの他の女子たちも若干気まずそうにはしていたが、中田がうまく仲立ちをしてくれ、それなりに穏やかに修学旅行の自由時間を過ごせた。
修学旅行後は、当たり前のようにグループは解散になり、メンバーだった女子とはそれなりにフランクに接することができるようになったものの、基本的には元通り、中田は仲の良い女子一名と、他の女子二名は女子二名と、俺は一人で過ごす生活に戻った。
ただ、修学旅行後に少しだけ、俺と中田は「付き合ってるんだろ」と揶揄われた。俺を中田がグループに誘っている様子を、クラスメイトが見ていたらしい。
しかし、俺は戸惑うと固まってうんともすんとも言えなくなってしまうし、中田は「違うよ」と冷静に返すだけで慌ても怒りもしないので、揶揄いは早々に落ち着いた。修学旅行で沢山のカップルが誕生し、揶揄い甲斐も無い、俺たちのような地味な奴らに構ってる場合じゃなかったんだろう。
でも、正直、俺は少しの期間でも、誤解でも中田とそのような噂になれて嬉しくもあった。
中田は揶揄われても、俺への態度を変えることは無かった。それもまた嬉しかったし、そんな中田を心から尊敬した。こんな風に、どんなことがあっても、誰にでも平等に接することが出来るようになりたいと思った。
それから月日流れ、俺も中田も、委員会以外の接点は特に無いまま小学校を卒業し、別々の中学に通うことになった。
俺は、自分が中田のことが好きだという自覚はあったが、告白しよう等とは思わなかった。
挨拶を交わす程度の関係で成就するわけが無いとわかっていたし、玉砕覚悟で告白する勇気が無かったというのもあったが、一番は、例え今後二度と会わないとしても、中田と過ごした一年間の優しい関係性がひどく心地よく、それを壊して終わりたくない気持ちが強かった。
俺は中田に対して、もちろん恋心や感謝という感情を抱いていたけれど、それ以上に、俺は中田のことを人として心から尊敬し、憧れていた。
誰に対してもフランクに、誰に対しても優しく、寄り添ってくれる人。俺も、そんな中田みたいな人になりたいと思った。
そうして生まれた新しい自分や、新しい中学校生活にも馴染んできた頃のことだ。
俺は同じクラスだった、木崎アイという女の子に告白された。木崎は可愛いくて愛嬌もあって、男子に人気がある女の子だった。
俺は中田みたいに、女子も男子も、同じように誰にでも同じように接するようにしていた。求められれば受け入れる静かなスタンスの中田よりはだいぶ賑やかな接し方ではあったけど、俺は木崎に対しても周りに対しても、同じように接していたつもりだった。だから木崎に対して特別な感情は何も抱いていなかった。
そのことを正直に木崎に伝えた。こんな俺を好きになってくれて有り難かったし、それなのに断ってしまって申し訳ないと思ったが、だからといって好きでも無いのにカノジョにするわけにもいかない。「断る」なんて行為は小学生の頃からし慣れなくて、告白された側なのに、気を抜けば一気に根暗な素が出てしまいそうなほど非常に緊張した。
しかし、彼女は泣くでも怒るでもなく、「じゃあ、今別に好きな人がいるわけじゃないんでしょ?」と聞いてきた。肯定すると、木崎は「じゃあ、とりあえず付き合ってみよう」と提案してきた。
「お試しだよ、お試し。試しにちょっと付き合ってみて、もしリトが私のこと好きになったら教えて? これから女の子として好きになってもらえるように、私、頑張るから」
俺の気持ちを受け入れた上でそう言ってくれたのが嬉しかったので、俺は木崎の提案を受け入れ、俺には初めてカノジョが出来た。
木崎は所謂イマドキの女の子だった。流行に詳しく、流行のオシャレを楽しみ、流行の曲を好み、お洒落なカフェめぐりやお洒落な街のウィンドウショッピングが好きだった。
「リトは、どんな女の子が好きなの?」
付き合って一か月が経った頃、カフェでお茶をしている時に木崎が聞いてきた。聞かれて、俺は言葉に迷った。
「う~ん、どんなって言われても」
「何かあるでしょ? 可愛い系とかキレイ系とか。女優で言うと誰が好きとか」
「う~~ん……そういうのも別に無いかな」
「じゃあ、眼鏡が似合う子がいい、とか、こういう仕草に弱い、みたいなのは?」
俺が苦笑いで再び首を捻ると、木崎は不満げに頬を膨らませた。
「もう! 何かあるでしょ。何か一つでいいから、考えて」
そう言って木崎は若干不機嫌そうにココアを飲んだ。たぶん木崎は、一か月も付き合い、周知のカレシ・カノジョの関係にもなり、放課後や休日などに何度かデートも重ねたというのに、俺が一向に好きと言わないことに焦れているんだろう。
俺は、一応まだ(仮)がつくとはいえ、「カノジョ」である木崎を優先して、他の友達と遊びに行かずに木崎とデートをしたし、登下校も一緒にして、なるべく木崎の時間を多く作るようにしていた。木崎の好きなもの、色や歌手、服の雰囲気、話題等がわかるようになったし、逆に嫌いなものも わかるようになった。
それでも、木崎に他の友達以上の感情は芽生えなかった。だからいつも手を繋いでくるのは彼女だったし、数回経験したキスも、彼女が「お試しでもカレカノなんだからキスくらいするよ」と、彼女から提案されたものだった。もちろんドキドキはしたけれど、それはあくまで「キス」という行為に対してで、大変失礼だけど、木崎じゃない女子にされたとしても、同じようなドキドキを感じたと思う。
木崎は「考えて」と言ったきり、ぶすっとした表情で買ったばかりの雑誌を広げだしてしまったので、俺は自分の好みについて考えてみた。
すぐに浮かぶのは、やはり、初恋の中田のことだ。
中田は決して不美人ではないけれど、正直、特別可愛いとか、特別キレイいうタイプでもない。身だしなみはきちんとしていたけど、流行のものとかお洒落とかには頓着していないようだった。兄がいるらしく、そのお古らしい男物のTシャツやパーカーを着ている時も当たり前にあった。
でも、そんな中田と手を繋いだら、キスしたら、と思うと、途端に顔が熱くなった。
一瞬浮かんだ中田との手を繋いだりキスをしたりの構図が、なんだか神聖な相手にとてもスケベな妄想をしたような気がして、罪悪感すら浮かんだ。
「なに? 何かあった?」
俺の動揺をいち早く察知した木崎が、身を乗り出して聞いてきた。上目遣いの大きな瞳に、久しぶりに固まった俺が映っていた。
でもまさか「俺の好きなタイプは小学校の同級生の中田だ」なんて言うわけにもいかず、俺は中田のどういうところが好きだったのかを考える。
中田は、いつも本を読んでいた。背を伸ばし、大切そうに本を広げ、読んでいる本が感情を揺すぶると、軽く目を伏せた顔に少しだけ表情が生まれた。
淡く甘い感情が、あの時のまま蘇る。
「………読書してる姿」
「えっ? なあに?」
思わずどもってしまったようで、眉をよじった木崎が耳を俺の方に向けた。
「読書してる姿とか、弱いかも」
なんとか笑みを浮かべて、普通を装ってそう言うと、木崎はぱっと顔を明るくした。
「じゃあ、今まさに、ドキドキしてた感じ?」
そう言ってテーブルに肘をつき、右手の人差し指でくるくると長い髪を弄びながら、広げていた雑誌に再度目線を落として見せた。
違う。そういうことじゃない。
端的に言うとそう感じたが、やっと機嫌がよくなった木崎を再び怒らせる勇気は無く、どう違うのか説明も出来ず、俺は「まあ、そんな感じ」と小さな嘘をついて曖昧に頷いた。
でも、そんな曖昧な感情での付き合いは長く続かず、それから半月後に、俺は木崎にフラれた。
「どんなに頑張っても友達としてしか見てもらえなくて寂しかった。辛かった」
そう言った木崎はまた少し怒っていた。俺は本当に申し訳なかった。でも謝ったら、木崎はもっと怒っていた。
それから木崎は俺を避け始めた。その上「杉村は木崎を弄んで捨てた」という若干歪曲したような噂が流れ、木崎のことが好きらしい恐い先輩から呼び出されたり、木崎と仲の良い女子に睨まれたりした。
幸い、木崎と付き合った理由を最初から説明していた友達が多かったので、木崎の仲の良い友人以外から避けられたりすることはなく、特別日常生活に困ることはなかった。しかもその更に一か月後には、高校生の新しい彼氏ができたという木崎本人が、ご機嫌に俺に以前のように話しかけてくるようになったので、俺の悪評はあっという間に消えた。
だがその一件以来、俺は気持ちが無い相手と付き合うことはやめようと誓った。どんなに魅力的な女の子に告白されても、木崎の時と同じように「とりあえず付き合ってから考えて」と言われても、全て断った。
また必要性がある場合を除き、自分から女子に触れることはしないようにもした。ジュースなどの飲みまわしもやんわりと断り、「純情過ぎ」「童貞かよ」と馬鹿にされても、しなかった。もう変な噂を招きそうなことはすべて避けたかった。
蔑まれたのはごく一部の人間からだったし、短い間だったし、生活にも困らなかったが、それでも俺はショックだった。
当時、俺はとにかく一生懸命だった。
放課後は部活動、家に帰れば学校の勉強と、新しい自分のための情報収集。合間に友達から連絡があればそれの返信。休日は部活動か、友達と遊びに出かけるのか、木崎と付き合っていた頃はデートに消えた。苦痛では無かったものの、睡眠時間が削れることも多く、毎日ヘトヘトだった。
新しい自分に馴染んだ、とはいっても、十二年間もそう過ごしてきた古い自分が消えるわけではない。流行のものも、新しい自分に必要だから情報として仕入れてお洒落や会話に活かしていただけで、本当は、そこまで興味はなかった。
本当は雑誌より、小学生の頃のようにのんびりと自分の好きな本を読みたかったけど、新しい自分のために我慢した。木崎と付き合って、自分の時間はさらに削られたけど、それでもそんな風に、一生懸命生まれ変わろうとしていた俺を特別に好きだと言ってくれた女の子がいてくれたことはとても嬉しくて、面倒だとかは思っていなかった。まだ友達と同等としてしか見れなくても、付き合っていくうちに、俺も木崎のことを特別に好きになれたらいい。本当にそう思っていた。それなのに。
新しい自分も、一生懸命な自分も、全部踏みにじられたような気持ちだった。
彼氏ができた途端、ニコニコしながら「また友達としてよろしくね」なんて話しかけてきた木崎に、新しい俺は新しい俺らしく「わかった」と自然に笑って返していた。
一生懸命馴染ませた新しい自分は、自分に対して酷い嘘つきだった。それがとても悲しかった。
その日は家に帰っても勉強をする気にならず、雑誌も読む気にもならず、友達の連絡にも応える気にならず、俺は何もかも投げ出して、自分のベッドの上に寝転び、久しぶりに大好きな本を読んでいた。
読んでいたのは、俺が初めて夢中になって読み、読書好きになるきっかけにもなった本だ。三人組の少年が様々な冒険をする『三色のクレヨン少年団』という低学年向けの児童書。もう何十回も読み返している本だが、こうして中学生になってから読んでも、やっぱり面白かった。
「杉村君は、どんな本が好き?」
ふと、そう問いかけてきた中田を思い出した。
同じ図書委員になって、初めて委員会に参加した日のことだ。委員会が始まるまで少し時間があり、俺は空き時間の気まずさにそわそわしていた。
そんな時、それまで静かに委員会が始まるのを待っていた中田が、俺に話しかけてきた。
静かな口調だったにも拘らず、人との会話に慣れていなかった俺は、急に話しかけられて思わず固まってしまった。頭が真っ白になって、最近読んだ本のこともすっかり忘れた。好きな本のことなのに、何もわからなくなった。
中田は小さく首を傾げたものの、聞こえなかったと思ったのか、もう一度「杉村君はどんな本が好き?」と繰り返してくれた。
浮かんだのは、俺が本を好きになるきっかけになった一冊のみ。
「………『三色のクレヨン少年団』」
なんとかそれだけ吐き出した。それは声になったのか、自分でも自信が無かった。顔も熱く、耳まで赤くなっていたと思うし、もしかしたら汗をかき、息も荒かったかもしれない。今思い返しても、のたうち回りたくなるほど気持ちの悪い状態の自分だったと思う。気のせいでなければ、他のクラスの女子の委員から、小さく「気持ち悪い」という声も聞こえた。
でも、中田は俺の状態などことなどどうでもいいのか、俺のささやかな答えを聞いて、嬉しそうに目を輝かせた。
「その本、面白いよね。私もその本、好き」
その声の静かな響きばかりが俺の中に残り、そう言った時の中田の表情は全く思い出せない。でも、微笑んでくれていた気がする。
それから、中田も本当に『三色のクレヨン少年団』が好きらしく、楽し気に本の好きなシーンなどの話をしてくれた。自然と俺も話したい欲求に駆られて、自分の好きなシーンの話もした。中田は静かに聞いてくれて、最後に「わかる」と短く同意してくれた。
それから間もなく委員会が始まり、俺と中田の会話は終了した。
委員会の間中、俺はドキドキしていた。
楽しくてドキドキするなんて、読書をしている時以外で初めてだった。好きな本の話が出来て、本当に嬉しかった。以来、俺と中田は、委員会の仕事がある日の空き時間には、本の話をするようになった。
今、中学生になった中田はどうしているんだろう。
久しぶりに読んだ『三色のクレヨン少年団』を閉じ、そんなことを考えた。
俺はどうしても中田の顔が見たくなり、小学校の卒業アルバムを開いた。一人でいることが多かった小学校時代のアルバムなど捨ててしまいたかったが、アルバムには中田と並んで一緒に映っている修学旅行のグループの写真も載っていて、捨てるという気持ちを飲み込ませていた。
アルバムの中、グループ写真の乗るページを、久しぶりに開いた。長い三つ編みの中田は、写真の中で静かに微笑んでいた。隣の俺は緊張のあまり固まっていて、見るに耐えない。それでも卒業アルバムを開いた時の俺は、中田と同じ写真に写っていることが照れ臭くも嬉しく、のたうち回ったものだ。
「…………ん?」
今改めて、落ち着いて写真をよく見てみると、自分のリュックサックのショルダーストラップを握っている中田の右手の人差し指と中指が、小さくピースのような形になっていることに気づいた。ピースといっても、それは「ピース……?」という出来のもので、指は伸ばしきれておらず、指先が完全に曲がってしまっている。だが、恐らくこれはピースなんだろう。
なぜそんな確信を持てるかというと、あの時写真を撮ってくれた修学旅行の同行カメラマンが
「ほらほら、ピースとか、何かポーズして笑って!」
と言っていたからだ。大人しい人間の集まりだったグループのメンバーは、素直に従ってピースをした。俺も、緊張しつつもそれ位はできた。
てっきり中田もしているものだと思い込んでいたが、中田は両手でしっかりリュックを握ったまま、ピースのようなもの? をしただけだった。
ピースするタイミングを失ったのか、ピースをするのが恥ずかしかったのか。
その胸の内は全くわからないが、中田はピースをし損ねて写真に写っていたのだ。
「……………ふふっ」
なんだかとても可笑しくて、俺は肩を震わせて笑った。
いつでも、誰に対しても冷静に接していた中田に、こんな不器用なところがあったなんて。
一度笑い出すと止まらなくて、中田に申し訳ないくらい笑った。途中で涙が零れてきたけど、こんなことで泣くほど笑っている自分がおかしくて、ますます笑った。
ひとしきり笑い終わると、心地いい脱力感が頭と体に広がっていた。しばらく抱えていた重たい何もかもが、すべて溶けだしてしまったような心地がした。
中田は俺と同じような内向的な人間に見えるが、実は社交的な人間なんだと思っていた。
根が社交的な人間だから、誰にでも同じように、静かに友好的に接することができると。
でも、もしかしたら、違ったのかもしれない。
もしかしたら中田も、俺よりも淡く静かなものではあるが、周りに馴染むように努めていたのかもしれない。いつでも落ち着いて見えた彼女の中には、俺と同じように、色んな感情が渦巻いていたのかもしれない。
一緒に図書委員をしていた頃より、中田をずっと近くに感じた。それがとても嬉しかった。
大きく深呼吸をする。目を瞑れば、不器用なピースをする長い三つ編みの同級生。
俺はまた小さく笑いながら、明るい電子音で友人からの着信を知らせたスマートフォンを手に取った。LINEを返信したら、学校の勉強と、流行の情報収集だ。
もしもいつか中田にまた会えた時に、堂々と彼女を見つめられる自分になろう。
新たな決意を胸にした俺は、非常に清々しい気持ちだった。それからは迷うことなく、新しい自分として生きることができた。
そんな俺が、高校の入学式で中田の姿を見つけた時の衝撃を、どうか想像してほしい。
張り出されたクラス発表の用紙で自分の名前を探していた俺は、1組に書かれていた「中田サヨ」という名前を見て、息が止まるほど驚いた。同姓同名の可能性もあると言い聞かせていたけど、それでもどうしても沸き上がる期待で、心臓は爆発しそうなほどドキドキしていた。
4組の欄に自分の名前を見つけた俺は、同じ中学の友達とそれぞれのクラスに向かった。廊下は1組から順に並んでいた。
友達と話しながら1組の教室の前を通り過ぎる時、俺は教室と廊下を隔てる窓から、さりげなく教室の中を見回した。
俺は中田をあっという間に見つけた。
窓側の席に座っていた中田は、俺の記憶の中の中田より、少し大人っぽくなっていた。でも相変わらず背を伸ばし、本を読んでいた。
なんとなくソワソワしている教室の中、窓から差し込む春の陽光に包まれながら静かに読書をする中田は、凛としてとても綺麗だった。
俺は、彼女の姿に見惚れた。漫画みたいに、中田の周りがキラキラして見えた。
根暗でひとりぼっちだった昔の俺も、明るく友達の増えた新しい俺も、結局中田に恋をするんだな。
中田との再会に舞い上がっていた自覚はあるけど、そう思った俺の胸の内は、驚くほど穏やかだった。たぶん、わかりきっていたことのように、綺麗に飲み込めたからだと思う。
今の俺なら、中田の前でも胸を張れる。今度こそ、きちんと中田に恋をしたい。
その想いを神様がすくってくれたのか、次の年には俺と中田は同じクラスになった。
出来る自信はあったものの、初めに中田に声をかけるのは勇気が要った。
再会した中田に初めて話しかけたのは、朝の下足箱前だった。
俺が「おはよう、中田」と声をかけると、中田は穏やかに「おはよう」と返してくれた。
緊張が少しばかり勝って、その顔を見ることはできなかったが、久しぶりに聞いた中田の静かな声がいつまでも耳に残って、俺は飛び上がりたいほど嬉しかった。
その時の俺は友人と一緒にいたので、中田とそれ以上の会話はできなかったが、それからも俺はきっかけを見つけては中田にどんどん話しかけた。中田は小学校の頃と変わらず、静かに優しく受け入れてくれた。
俺は嬉しかった。もっと中田と仲良くなりたかった。
本当は、中田が希望するだろう図書委員(事実中田は希望し、実際に図書委委員になった)を希望したかったが、バスケ部の部活動が忙しく、委員会は希望できなかった。
普段は俺も中田も大体同じような友達と過ごすことが多く、その友達同士には接点が無いので、「クラスメイト」というだけではほとんど話せない。朝の挨拶を交わしてそれきり、それすら無く放課後、ということも珍しくなかった。
どうしても中田との接点が欲しかった俺は、中田が図書委員の仕事で遅くなる日で、俺の部活の方が先に終わる日には、昇降口で中田を待つようになってしまった。
一歩間違えばストーカー。
毎回中田を待ちながら、自覚のある事実を何度も噛み締めた。中田が嫌がっていたり、少しでも不審がる様子があればすぐにやめようと思っていたが、「一緒に帰ろう」と誘えば、中田は嫌がる様子も不審がる様子も無く、承諾してくれた。中田の素直さが少し心配ではあるが、それでも俺は中田と二人の時間ができたことが嬉しくて堪らなかった。
しばらくして、俺に中学デビュー以来の大チャンスが訪れた。
中田が好きだと話していた『ファンタスティック』という映画の新作が公開されることになった。
これは……! と感じるが早いか否か、俺は映画の前売りチケットを二枚購入していた。
俺はもの凄い緊張しながら、勇気を振り絞って中田に「一緒に見に行こう」と誘った。
流石の中田も驚いて戸惑った様子だったが、予定が無いと聞いて、俺はなんとか映画に行く約束を取り付けた。若干強引にチケットを押し付けた自覚はあったが、デートに誘うチャンスなんて簡単には巡ってこない。この機会を逃したらダメだと思った。
中田はかなり戸惑っていたし、もしかしたらドタキャンされるかも、という覚悟を持って当日に臨んだが、中田はちゃんと来てくれた。
中田は恐らくすっぴんで、格好もラフな物だったが、再会してからは制服か学校指定のジャージ姿しか知らない俺は、私服の中田の姿に非常にテンションを上げた。
中田はいつも二つに結んでいる髪を下ろし、細い足のラインが出るスキニージーンズを履いていた。 彼女にはやや大きいサイズのパーカーはまた兄のお古なのかもしれないが、それでもそのぶかぶかした感じがとびきり可愛く見えた。
ドキドキしながら声をかけると、中田はびくっと体を跳ねて、持っていた本を落とした。手は本を広げていた形のまま固まり、見開いた目をぱちぱちと瞬きした。
こんな風に驚く中田を見たのは、初めてだった。
中田は決して無表情ではないが、あまり感情が表に出ないタイプだ。ここまで動揺する中田なんてまたレアで、俺のテンションはどんどん上がっていった。
「カッコイイね」
恥ずかしそうにそう言ってくれた中田が止めだった。
ハイテンションに身を任せた俺は、あんなに避けていた間接キスまでできてしまった。
一応言い訳しておくが、「間接キスをしたい」という欲求から意図的に行ったわけではない。自分が飲んだジュースが美味しかったから、是非中田にもその美味しさを知ってもらいたいと思ったし、中田が「美味しい」と言ったジュースの味を自分も知りたいと思ったら、間接キスということを意識するより先に「一口ちょうだい」「俺のも飲んでみて」という言葉が自然と零れていた。言った後であっと思ったが、中田は特に拒むことなく、俺とジュースを交換してくれた。
ドキドキした。
木崎には本当に申し訳ないが、木崎と交わしたキスよりも、中田とジュースを交換し合ったことの方が、ずっと深いドキドキを感じた。
そんな不純な感情を逡巡していた俺は、上映中にジュースに手を伸ばされた中田の指先がちょこっと触れただけで、過剰に驚いてしまった。
中田は慌てて謝り、更には映画が終わった後にも謝ってきた。その律義さが胸に刺さったが、どう説明していいのかわからず、俺は言葉を濁してごまかした。
その後は、中田と楽しくランチをして解散になった。映画の話題で盛り上がり、少し恥ずかしそうにしつつ、それでも美味しそうにパンケーキを食べる中田は、やっぱりどこまでも可愛かった。別れ際の中田の晴れやかな微笑みがやや気になったが、中田は「これからもよろしくね」と手を振って帰って行った。
中田にとっても、楽しいデートになっただろうか。そうだったなら嬉しい。もう一度、今度は好きな映画を観るというちょうどいい理由が無く誘っても、また俺とデートしてくれるだろうか。
帰りの電車の中でようやく少し冷静になった俺は、本当は中田に確認しようと思っていたことがあったと思い出した。
中田は、果たして俺のことを覚えているのだろうか。
話すようになっても、中田から「覚えてる?」のようなことを言われることはない。
忘れられていてもおかしくない程度の接点だったし、例えば覚えていたとして、自分でいうのもなんだが、俺は小学生の頃とは見た目も雰囲気もすっかり変わってしまったから、もしかしたら気付いていないのかもしれない。
きっかけがあれば、自分からでも「覚えてる?」と聞いてみたいが、なかなかその勇気が出せずにいる。今回のデートでそのチャンスがあれば聞いてみようと思っていたが、そんなことはすっかり忘れてしまっていた。
次のデートには、思い切ってブックカフェに誘ってみようと思う。そこは偶然見つけた俺の秘密の場所みたいなお店で、ずっと中田と一緒に行ってみたいと思っていたカフェだ。
ずっと「同じ教室の離れた席で」ではなく、中田と「並んで」読書をしてみたかった。小学生の頃からずっと、そう思っていた。
カフェには児童書も充実していて『三色のクレヨン少年団』も置いてある。
もし次のデートをOKしてくれたら、もしかしたら、その本についてまた中田と話すことができるだろうか。
不安と期待の入り混じる、複雑で、でもドキドキと楽しい心地で、俺はスマートフォンを手に取った。
お読み頂きありがとうございます!
続きます。次が最終話です。