3、やってきた日曜日
3話目です。
日曜日は朝から気持ちよく晴れていた。天気予報によれば、穏やかで過ごしやすい一日になるらしい。
待ち合わせの映画館は非常に混雑しており、私は人ごみを避けるように、映画館の隣のコンビニ前の端っこで、杉村君を待っていた。
約束した時間まで、あと二十分。
せっかく厚意で誘ってもらったのに、万が一にも遅刻するなんて失礼があってはいけないと思い、かなり早めに出てきた。その甲斐あって、この通り杉村君を待たせるようなことはせずに済みそうだ。
私はバックから文庫本を取り出した。持ってきたのは、今日観る『ファンタスティック』の最新シリーズの小説版。もう何度も読んでいるが、そのために集中し過ぎず杉村君を待ちながらでも安心して読めるし、今日見る映画の予習にもなる。
さて読むか、とページを捲り出したところで、トン、と肩を叩かれた。反射的に振り向くと、杉村君が笑顔で立っていた。
「中田。おはよう」
「杉村君!」
驚いて、思わず文庫本を落としてしまう。それをいち早く拾い上げようとしてくれる杉村君に慌て、ついでに挨拶をすっ飛ばしてしまったことにも気づいて慌て、私は外見も中身も大パニックだ。
杉村君はくすくす笑いながら、拾い上げた文庫本を軽く払って、私に差し出してくれた。
「慌てすぎ。ごめんね、驚かせて」
「ありがとう。ごめん、驚きすぎて。おはよう。杉村君」
深呼吸をしながらなんとかそう返すと、杉村君はあわあわと気持ち悪い私に、何事も無かったかのように「おはよう」と再度返してくれた。
本当にいい人だ。今日一日一緒にいることで、少しでも彼の社交性のいろはの「い」ぐらいは吸収して帰れたら嬉しい。
「中田、髪おろしたんだね。一瞬、わからなかった」
「肩につく髪は結ばないと、先生に怒られるから」
「ああ、校則か。結んでるのも似合ってるけど、おろしても可愛いね」
私みたいな地味子にも、杉村君はさらりとそんなことを言う。うん、早速さすがだ。私もそれ位さらりと気の利いたことが言いたい。
「杉村君も制服とは雰囲気違う。お洒落でカッコイイね」
杉村君は被っている帽子から足元のスニーカーまで、お洒落とは無縁な私にもはっきりわかるほどお洒落な格好だった。私も杉村君も、同じ「ジーンズ」「スニーカー」という種類のズボンと靴を履いているはずなのに、この着こなしの差はなんなのだろう。社交的ではない上に、お洒落じゃない私には全くわからない。
杉村君は「ありがとう。なんか照れるね」とはにかんだ。
その愛らしい様子に息を呑む。そして学んだ「気の利いたことが言える人は、気の利いた返しが出来る」ということを、頭の中に刻み込んだ。
杉村君と連れ立って、映画館の中に入る。金曜日に公開されたばかりの『ファンタスティック』は最新作も安定の人気のようで、客席はほぼ満席だった。
杉村君が「すみません、通ります」と笑顔を向けながら先導してくれ、私は難なく席に着くことができた。この「他人の前を通って席に着く」という行為が苦手で、いつも公開日からしばらく期間をおいて映画を観に来る私にとって、これは非常にありがたく、スムーズにこなす杉村君を、やっぱり尊敬した。
席に着くと、杉村君が息を吐いた。
「ジュース、ありがとう。いただきます」
言いながら、私が売店で買ったジュースのカップを、杉村君が小さく上げた。
「全然。むしろ、本当にいいの? チケットのお金」
「気にしないで。俺が付き合ってもらってるんだから。ジュース御馳走になっちゃって、逆に申し訳ないくらいだよ」
もう一度「ありがとう」と言いながら、杉村君がジュースを飲んだ。私もそれに倣って、自分のジュースを飲む。
「あ、これ結構美味しい」
杉村君が声を上げた。
杉村君と私が頼んだのは、『ファンタスティック』の映画館限定のオリジナルジュースだ。
『ファンタスティック』は、松本ショウヘイ演じるメインの男性がジャンクフードマニアで、森ミサキ演じるメインの女性は健康食マニアという設定のコンビだ。だから毎回映画館限定でジャンクなオリジナルメニューと健康や美容にいいオリジナルメニューが登場し、鑑賞者の多くはそのメニューを楽しみながら映画を鑑賞する。
今回のオリジナルメニューは「エナジーレモネードサイダー」と、「梅プルーンヨーグルト」だ。もちろん前者がジャンクフード王、後者が健康食女王をイメージしたものだ。杉村君は前者を、私は後者を頼んだ。
「中田の方はどう? 美味しい?」
「うん。結構酸っぱいんだけど、さっぱりしてて飲みやすくて美味しいよ」
「へえ。じゃあ一口交換しようよ。中田、炭酸平気なら俺のも飲んでみて?」
「はい」と杉村君は私の方に自分のジュースを差し出した。
私は一瞬戸惑ったものの、拒むのも申し訳ないし、別に嫌だとは思わないので、杉村君に倣ってジュースを差し出して交換した。
「あ、本当だ。こっちも美味しいね」
遠慮がちにストローに口をつけた私とは対照的に、杉村君はなんの躊躇も無く私のジュースを少し飲み、爽やかな笑顔でジュースを返してくれた。私が返したジュースも、なんの躊躇いも無く飲む。
意識しないかと言われたら嘘になるけど、私だって回し飲みくらいは、数少ない友人や年の近い弟と日常茶飯事に行っている。私でさえ日常茶飯事なのだから、社交的な杉村君は毎日酒池肉林の宴のような勢いで行われているだろう。
そう思うと、意識した気持ちも大分落ち着いた。酒池肉林の小さな肉片になったことでドキドキするなんて馬鹿らしい。おかげで私も気にせず、返されたジュースを飲めた。
間もなく、館内がゆっくりと暗転し、映画が始まった。
『ファンタスティック』は、松本ショウヘイ演じる一見冴えない塾講師と、森ミサキ演じる一見冴えない看護師が、副業で秘密の探偵業を行っているという設定の痛快なアクション映画だ。コメディ要素が強く、先の読めない展開と、予測できないエンディング。小説版を先に読んでしまう私だが、いつも中盤までは小説と同じ流れなのに、終盤に展開が徐々に変化していき、エンディングは全く違うものになっていたりするので、いつもワクワクしながら映画を鑑賞している。
今回も終盤近くで、小説版では味方のふりで実は裏で糸をひいていたはずの人物が、実は味方だったことになっていた。これからどんなエンディングを迎えるのか、本当の黒幕は誰なのか、ワクワクが止まらない。
ドキドキが体調に表れたのか、喉が渇いた。胸の前で握り合わせていた両手を崩し、肘掛けに備え付けられたジュースホルダーへ手を伸ばすと、肘掛けに腕を乗せていた杉村君の手にぽつりと触れた。当然のことながら、映画に集中していた杉村君は驚いて小さく体を震わせた。一瞬にして、私のありったけの汗腺から冷や汗が噴き出る。
「ごめんなさい! ジュースを……」
頭を下げながら、小声の枠の中で最大の声量で謝る。杉村君は苦笑しながら、小声の枠の中で最小の声量で「大丈夫」と言って手を振った。
もっとめいっぱい謝罪したい気持ちでいっぱいだったが、それでは余計に映画鑑賞を邪魔するだけだと思い、小さく頭を下げ、せめて杉村君の視界から完全に消えるように、深く椅子の背もたれに背を預けた。
やってしまった。迷惑だけは絶対かけたくなかったのに。
自分が嫌になって大きな溜息を吐きたかったが、それはそれで映画鑑賞の妨げになってしまうと思い、ぐっと飲み込んで私も大人しく『ファンタスティック』の世界に戻っていった。
「さっき、びっくりさせてごめんなさい」
エンドロールも終わり、場内が明るくなってから、私はもう一度謝った。
杉村君は噴き出して笑った。
「中田って律儀だね。全然気にしてないのに」
「でも、集中してたのに邪魔しちゃって。びっくりしたでしょ?」
「まあ、びっくりしたのは……うん。あはは」
杉村君は少しばつが悪そうに目線を空に漂わせた。
「映画に集中っていうか、ちょっと、別のことを考えてたところだったから」
「別のこと?」と首を傾げたところで、杉村君は珍しく口ごもりながら何かを呟いた。聞き取れず、眉を寄せて少し顔を近づけると、杉村君はさっと顔を逸らし、荷物と二人分の空のジュースカップを持って立ち上がった。
「とりあえず外出ようか。もうほとんど人いないよ」
言われて周りを見回すと、確かに、満員だった人はほとんど出口に向かって流れていて、観客席に座ったままなのは私だけになっていた。私は慌てて立ち上がり「足元気を付けてね」と気遣ってくれる杉村君について、劇場を出た。
杉村君が何を言っていたのかは気になったけど、もう一度聞き直す勇気も無く、杉村君も映画を邪魔したことを本当に気にしていないようだったので、まあいいか、と思った。
お読み頂きありがとうございます!
続きます。