関東新路線①:神奈川東部方面線
2019年11月30日、相模鉄道(相鉄)の西谷~羽沢横浜国大が開業した。これにより、相鉄は長年の悲願である東京方面への直通が実現した。最初期の予定では2015年4月の開業だったが、貨物列車の合間を縫っての工事による遅れによって数回の延期の末、漸く実現した。
3年後の2022年には、残る羽沢横浜国大~新横浜が開業して相鉄新横浜線は全線開業し、同時に日吉~新綱島~新横浜の東急新横浜線が開業して、第二の東京への直通ルートが完成する。こちらも、当初予定では2019年4月の開業だったが、工事の遅れと地質調査によって数回延期している。
相鉄新横浜線の原型は、1985年の運輸政策審議会答申第7号にある「二俣川から新横浜を経て大倉山・川崎方面に至る路線」である。2000年の運輸政策審議会答申第18号にて川崎方面が削除されたり、起点が二俣川から西谷に、終点が大倉山から日吉に変更されるなどの点はあるものの、ランクについては最高のA1と評価された。
しかし、相鉄の東京方面への延伸計画は古くからあった。1966年の都市交通審議会答申第9号には、「横浜6号線」として茅ヶ崎~六会付近~二俣川~勝田~東京方面が検討されている。六会付近は現在の湘南台、勝田は港北ニュータウンとなる。つまり、半世紀も前から相鉄の都心直通計画は存在しており、港北ニュータウンの住人の東京都心への通勤・通学路線としての目的もあった。
だが、この路線はあくまで「検討」止まりであり、実際に建設するかはこの段階では決まっていなかった。同時期に計画された横浜1~5号線(※1)の建設が先だった為だろう。
また、横浜6号線とは別に、1972年の都市交通審議会答申第15号では東京6号線(都営三田線)の終点が港北ニュータウンになっていた。目黒~港北ニュータウンの新線のルートもかなり明確に予定されていた、その区間の用地の買収も一部で行われていたなど、かなり実現性の高い路線と見られていた。
この路線の内、「六会付近~二俣川」は二俣川~湘南台のいずみ野線として実現しており、「茅ヶ崎~六会付近」は湘南台~平塚の免許として現在も保有し続けている。残る「二俣川~勝田~東京方面」だが、形こそ違えど横浜市営地下鉄グリーンラインと東急目黒線として港北ニュータウン~日吉~目黒が実現しているが、どちらかと言えば東京6号線の計画に近い。2016年の交通政策審議会答申第198号には、「横浜環状鉄道」としてグリーンラインの中山~二俣川の計画が存在する。
開業しなかった目黒~港北ニュータウンの新線だが、用地の一部は痕跡が残っており、センター北~センター南のブルーラインとグリーンラインの間の空間が東京6号線の導入予定地だったらしい。
では、もし相鉄の東京方面への路線が早く開業していたら。
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前提条件は都市交通審議会答申第9号と第15号だが、『架空の財閥を歴史に落とし込んでみる』世界の場合だと少々問題がある。前者は史実通り入るだろうが、後者が入るかが分からない。何故なら、この世界の三田線は京急との直通を行っている為である(これについては本編の『番外編:戦後の日本の鉄道(関東)』参照)。相鉄と京急では軌間が異なっている上、既に京急という郊外路線が存在する事から、新たに港北ニュータウン方面へ延伸する意義は薄い。
三田線の延伸という形は恐らく無理だが、南北線(※2)の延伸という形ならば入るかもしれない。南北線も目黒が起点として計画された為、その路線の延伸という形で答申に組み込まれる可能性がある。その為、目黒~港北ニュータウンの路線は計画されたかもしれない。
一方で、この路線が本当に建設されるかは不明である。目蒲線の目黒~多摩川園(現・多摩川)と東横線の並行線である事から、東急とすれば二重投資になる。加えて、田園都市線(※3)とも並行線になる為、尚更東急としては建設する意義は薄かった。建設するにしても、目黒~多摩川園の長大編成化・高速化、多摩川園~日吉の複々線化、日吉~港北ニュータウンの建設の方が既存路線を活用出来る分、メリットが大きい。
では、答申に組み込まれなかった場合はどうだろうか。その場合、東京側のルートが問題になるが、この付近には計画止まりに終わった路線が存在する。1962年の都市交通審議会答申第6号に組み込まれた東京9号線である。この路線は後に千代田線となるが、起点が喜多見となっており、世田谷通りと淡島通りに沿う形で明治神宮前に至る予定だった。
しかし、建設中だった田園都市線との兼ね合い、地下化する必要があった事による工事費の懸念などから建設には至らず、代々木上原~喜多見~向ヶ丘遊園の複々線化となった。
この路線に接続する形であれば、千代田線と直通して東京都心への乗り入れが可能になる。また、相鉄は小田急と資本関係が強い事から(※4)、可能性としてはゼロとは言い切れないだろう。
しかし、やはり東急の勢力圏を通るのは東急としては気持ちの良い事では無い。小田急と相鉄はかつて東急の一因だったが、戦後に相鉄を巡って小田急と東急がやり合った経緯がある為、尚更反発する可能性が高い。
これらの事を踏まえると、やはり史実と同じ様に新横浜経由での直通が最適となるだろう。1964年の新幹線開業を理由に、新横浜経由で東横線と相鉄を結ぶ路線が答申に組み込まれれば、1980年代に開業した可能性はある。
尤も、開業当初の新横浜の周りは畑しか無く、1976年のダイヤ改正までこだましか停車しなかった事、港北ニュータウンの居住者の輸送の方が重視された事などを考えると、どちらの優先順位が高いと考えるのかが疑問である。
それでも、相鉄からすれば港北ニュータウンを経由するのは遠回りになって速達性が弱くなる事、東急からすれば新線建設の距離が短くなり建設費が少なく済む事を考えると、建設しないという選択肢は考えにくい。南北線の目黒延伸による目蒲線の直通や自治体・住人との協議も考えると、こちらの方が優先順位が高くなる可能性がある。
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歴史の転換点は1972年の都市交通審議会答申第15号だった。この答申の中で東京8号線の終点が港北ニュータウンと新横浜の2つが編入された。前者は人口増加が著しい港北ニュータウンと東京都心を結ぶ目的で、後者は新横浜へのアクセスが不便な事を解消する事と相鉄沿線の住宅地と東京都心を結ぶ目的があった。
相鉄としては、ターミナルであった横浜の利用者の減少、新たなターミナルとなる新横浜の開発が進んでいない事から消極的だったが、改めて検討した所、東京都心への乗り入れによる沿線の価値の向上、新規路線の二俣川~平塚の沿線の開発が促進するなどのメリットが見られ、「都心延伸実現の暁には沿線にキャンパスを置きたい」という某大学からの言葉もあり、積極的賛成に転換した。
その為、相鉄はいずみ野線の二俣川~いずみ野が開業した1976年に西谷~新横浜の免許を申請した。同時に、東急も大倉山~新横浜の免許を申請し、目黒~多摩川の長大編成化と多摩川~日吉~大倉山の複々線の計画を立てた。
1980年、相鉄・東急が申請した免許が認可され、土地の収容が始まった。東急はその前から長大編成化と複々線化の為の土地の収容を行っており、相鉄もいずみ野~湘南台の建設と湘南台~平塚の土地の収容を促進させた。
幸い、この頃は第二次オイルショックの影響で景気が下がり気味で、バブルが始まる前だった事から地価の高騰はそれ程でも無かった為、土地の収容は順調に進んだ。
そして1985年、相鉄のいずみ野~湘南台が開業した。1990年には大倉山~新横浜~西谷が開業し、大倉山~日吉の複々線化が実現した。これにより相鉄と東急東横線の直通運転が行われ、海老名・湘南台~渋谷のルートが完成した。
だが、両者の本命はいずみ野線の全通と南北線の目黒延伸に伴う直通運転の開始だった。それが実現するのは1997年まで待つ必要があった。
東急との直通の為、相鉄では規格変更工事が行われた。共に1067㎜・直流1500Vだが、車体の幅が異なる為、そのままでは直通出来ない。相鉄は280~2950㎜に対し、東急は2770~2800mmと相鉄は幅が広くなっている。その為、相鉄線内の規格を東急側に寄せる工事が土地の収容と同時進行で行われ、1993年に全線で工事が完了した。
規格変更により、車輛も変更となった。この頃、相鉄が導入していた車両は新7000系だが、この車輛を基に東急・営団に直通可能な新型車輛の設計が1987年から始まった。
尤も、運転台をツーハンドルからワンハンドルに、走行機器・保安装置を東急寄りにする、側面の表示に行き先を追加するぐらいの為、原設計から大きな変更はされなかった事から、1年で設計が完了した。1989年には「8000系」の名称で試作編成が配備され、この車輛が相鉄の新たな主力車輛となる事が決定した事で、いずみ野線の開業や既存車輛の置き換え用に大量配備される事となった。
この影響で、史実の8000系以降の製造・配備は行われなくなり、既存の5000系・2100系・6000系・7000系・新7000系は相鉄線内のみの運用になった。また、8000系以降の車輛の増備は8両で固定する事が決定した。
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そして1997年、遂に両者の目標が実現した。相鉄側はいずみ野線の平塚延伸と西谷~二俣川の複々線化、東急側は目蒲線の目黒~多摩川と多摩川~蒲田の分離(前者は多摩川~大倉山~新横浜と合わせて目黒線、後者は東急多摩川線と改称)と目黒線の8両対応である。加えて、営団側も南北線の全通と目黒線との直通が行われた事で、相鉄・東急・営団の3者直通運転が実施された。
同時に、横浜市営地下鉄2号線の横浜延伸と東横線の直通運転が実施された。これにより、ダイヤが大幅に改正された。
〈相鉄・東急〉
・相鉄と東急を直通する電車の本数を、毎時8本から毎時12本に変更する。内訳は、東横線―相鉄本線と東横線―いずみ野線を2本ずつ、目黒線―相鉄本線・目黒線―いずみ野線を4本ずつとする。
〈東急〉
・渋谷―新横浜と目黒―横浜のルートを新設する。運行本数はそれぞれ4本とする。
・急行の上位種別として「特急」を追加する。停車駅は、東横線内は渋谷・自由が丘・武蔵小杉・菊名・横浜、目黒線内は目黒・大岡山・武蔵小杉・新横浜。
〈相鉄〉
・快速を急行に統合する。急行の停車駅に星川と鶴ヶ峰を追加。
・急行の上位種別として「特急」を設定する。停車駅は、本線内は横浜・二俣川・大和・海老名、いずみ野線と新横浜線内は新横浜・二俣川・いずみ野・湘南台・香川・平塚。
〈東急・横浜市営〉
・全列車直通運転を実施する。但し、東武からの直通運転及び東武への直通運転の場合に限り、吉野町発着とする。
これにより、相鉄は長らくの悲願であった都心延伸が実現した。これにより、停滞気味だった本線・いずみ野線の開発も息を吹き返し、慶応義塾大学など複数の大学のキャンパス移転も合わさり、通勤・通学需要が上昇した。一時は懸念されていた横浜の空洞化も一時的なものに過ぎず、寧ろいずみ野線沿線から最も近い大商業圏という事から直ぐに以前の数値に戻った。
その後、東横線の副都心線との直通によって新宿・池袋へのアクセス、東武・西武沿線と湘南を結ぶ新ルートの開拓などが行われる事となった。
※1:横浜1号線と3号線はブルーライン、2号線は未成に終わった京急との直通線、4号線はグリーンライン、5号線は未成に終わった川崎市営地下鉄の原型。
※2:史実の東京7号線だが、この世界では本編の『番外編:戦後の日本の鉄道(関東)』にあるが白金線が東京7号線となった為、それ以降の番号が1つずつズレる。その為、この世界の東京8号線が南北線となる(史実では有楽町線)。以降、「〇号線」の名称はこの世界における名称とする。
※3:1972年当時の田園都市線は、大井町~二子玉川園(現・二子玉川)~すずかけ台だった。新玉川線(渋谷~二子玉川園)が開業するのは1977年4月7日、新玉川線と田園都市線の直通運転開始は同年11月、大井町線(大井町~二子玉川園)の分離は1979年8月12日。
※4:相鉄の筆頭株主が小田急。かつては小田急が相鉄を合併する構想もあった。