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幸田露伴「新浦島」現代語勝手訳  作者: 秋月しろう
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幸田露伴「新浦島」現代語勝手訳(8)

其の八


成程、飄六の話していたとおり、遊郭という所の面白味は特別なものがあって、すべてにおいて気の腐るようなことはなく、表面うわべは陽気に、裏はしめやかに、義理の駆け引き、なさけの捌き方も見事で、こちらが思っていることを三分さんぶも言わないうちに理解してくれ、何事によらず、こちらの思うことをすっかり分かってくれるのは本当に気分のいいものだった。


何よりも、相手をいとしがれば向こうからも愛しがられ、惚れられて、一層惚れられずにはいられない交情なかとなる。勇菊との間は他の人にも羨まれ、少しばかりは嫉妬心から憎まれ口を叩かれるようにもなった。こうなってくると、これまでいた普通の世界は水っぽく、面白くもなく感じられ、脇目も振らず遊郭に通い詰めるようになったが、酔って手洗いに立っても部屋を間違えずに帰って来られるくらい馴れてしまうと、徐々にその内情も目に映るようになった。女の魂胆も朧気ながら見え透いて、次第次第に興味も薄れてくることも多くなり、笑窪えくぼの底には『お勤め』という文字が見て取れ、涙の裏には『金のため』というあやが波立っているのが見えて、お世辞で丸めたその場限りのおべっかや軽口もよくよく聞けば愛想も尽きるやり取りに思えてきた。勇菊とはそのうち、フトしたことから仲違いして、お互いに気まずくなり、おのずと隔たりがちになった矢先、金にものを言わせるある男が彼女にのぼせ上がり、次郎を会わせないようにしてきた。逆にそうされると手を引き難くなるが、たかが流れの浮き草の花、そんなものを懐かしがって肩肘張るまでもないと見切って身を引いた。自分でも『よくやった、これでよかったのだ』と思っていたが、女の方が未練を持ち、自分の利益ためになるその男に無理難題を持ちかけ、酷くも別れ、思いの数々、仔細わけの色々を事細かく打ち明けて、一生を次郎に任せたいと、百日程経ってから自らの本当の気持ちを示した。


勇菊は色々考えた挙げ句、自分と一緒になりたいと思ったのだろう。もともと憎からず思っていたので、次郎は一も二もなく受け容れ、同じ濁りきった世の中に住み、同じように来世ではいいことがあるようにと願う二人は何十年も共にすべくちぎりを交わすべきである。そうは思ったが、少し引いて冷静に考えると、いかに嘘も方便とは言え、本当に愛してくれた男を騙して、自分が自由になった後、その男と一緒にならないとは、何と浅ましい心の持ち主なのか。そう考えると、首筋がゾクッとして、つくづくしんから厭になった。そして、こんなことをこのさとでは稀なありがたいこころざしのように言うのかと嫌気がさし、次郎は生まれて初めてこんなさもしい女と仮初かりそめにも悪縁を結んでしまったのだと気づいた。そう考えると、いてもたってもいられず、その昔、臨済宗の高僧、無窓国師むそうこくしが美女に執念深く付きまとわれた苦しみというのもこういうものだったのだろうと弱り切り、愛想づかしのはげしい置き手紙を残したまま、まだ行ったことのない東京へ行こうと思い立ち、上京した。だが、どこに行っても大人の目で見れば汚らしいことばかり。つくづく世間一般の人間が餓鬼か畜生より他には見えなかった。学者が世間の鼻息をうかがい紳士が落語家はなしか幇間たいこもちの真似をしてよろこび、寺を建立した人は奇特な人だと思っていたら、何千人も人を泣かせた悪名を帳消しにしようとした高利貸しがやったことだったり、皇国おくにのためにと偉そうに集まった人が、この公債の利子が四分と決まっても六分と定まっても結構濡れ手で粟の仕事があったものを、惜しいことに五分と平らに定まった。もっと揺れの幅が欲しかったなと、腹では呟き、経済がもっと乱れないと大もうけができなくて面白くないとブツブツ言い、去年の日照りがもうちょっと強かったらよかったものをとこぼしたりしている。坊主は訴訟事そしょうごとばかり起こして、王法を擁護すべき筈の仏法を利用して王法の孫廂まごひさしを借りるようにして余命を繋ぎながら、一昔前の坊主みたいに高慢な顔をし、嫉妬、意固地なところは俗人より烈しく、仏法を語るのは口先だけで私腹を肥やし、保険だの相互扶助だのと俗の世界にはよく手が回る。華士平民かしへいみん吏農工商りのうこうしょうはどれからどれまで陰険で、悪賢く、贅沢で弱っちいという傾向の者ばかりで、花札を知らない者は馬鹿と相場が決まっていて、芸者を買わない者は野暮天とそしられ、地道にやるのは鈍間のろまさげすまれ、すべて人の悪い噂は信じ、はなしは上っ面のことだと真に受けず、神、仏、聖人、賢人の尊いことはないものとして退けて置き、おのれの小賢しい智恵を名刀正宗や村正のように振り回し、蝿の羽ばたきや蚤の高飛びみたいにいい気になって誇る醜態ぶざまな姿。そんなものはもう、見る目も痒くなるようで、厭で厭で叶わず、再び京都へ戻ったものの、そこもうるさく、味醂みりんの入った煮物を食べて、滑りのよい畳の上に居ようと思えば骨も折れ、肩も凝る。それならいっそうちに帰って、働いただけを喰っていくだけなら、物もいらず気も焦らずに済むというもの。清貧に甘んずるのも一つだと思い、せめてこれからは歳をとった両親に孝行しようと帰ってみれば、思いも掛けぬこのご往生。これはどういった天の采配か、分からぬ分からぬ、不思議不思議、魔王のせいか、神のこころか。この私をどういう風にしようと思ってこんな酷い目に遭わせるのだと、そらを仰げば雲はゆったりと流れ、海を眺めても水はただなだらかに流れるばかりで、問いかけても答えるものはなかった。


つづく

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