幸田露伴「新浦島」現代語勝手訳(7)
其の七
叶わぬ恋の相手は他の人に操を捧げ、以後その美しい姿も見せず、もうその香りも届かないほど遠く離れてしまった。一方、八分まで実っていた恋のその人は愛し合っていたにもかかわらず、暗黒の闇の中で、星が美しく瞬いた後、ふっと消えてしまったようにいなくなってしまった。取り残された次郎は、夕べ夕べに鳴る寺の鐘を何の感慨もなく耳にする毎日であった。まだ苔も付かない新しい墓に、枯れもしていない樒が供えられていると、それがやけに目につき、淋しさが込み上げてくる。たまりかねて、いっそこの世を捨ててしまおうと何度か思ったものの、こんな身体でも両親からもらったもの。それを思うと死ぬこともできず、一日、二日と日を送るうちに、いつの間にか大酒を飲むようになっていた。
そんな頃、酒を通じて、飄六という狂歌師と出会うこととなった。飄六はこの世なんぞは深刻に考える必要もないとの哲学を持ち、偉人の内輪話とか君子の間の抜けたところを笑いにし、何はともあれ、面白く一生を送るのが徳というものと、悪悟りしている男であった。
「私などは今年六十になるので飄六と名乗っておりますが、未だに止められないのは揚屋での気まま酒。金を使うようにできた所とは言え、まさに楽しい場所だと思われるのに、なに、若い身空でまだ一度もそこへ足を踏み入れたことがない? それは何ともけなげなお方。見たところ、恋の経験もおありだろうに、素人の女ばかりに目が止まって、あの廓の何とも言えんなまめかしいのををご存じないからか。物事の道理が解っておられて、迷う憂いもないのなら、昔、性空上人が生身の普賢菩薩を拝みたいと祈念したところ、それは室津の遊女であるとのお告げがあり、それに従って遊郭に足を運んだとの話がありますが、そんな形でさらりと足を踏み入れてお遊びなさいませ。陽春三月は春の盛り、閉じこもっていたら、身体がうずうずするだけ。色事は生娘では詰まりません。惚れた女を女房にしたところで、素人女は嫌な所がたくさんあって、まず第一に床の中で味噌、塩の話をし出しすと、昔、その道の達人が指摘したように、いやはや気分も削がれるやり取り。朝など、顔も洗っていないみっともない姿を見せ、髪結いに結わせるまで、ちょっとの間さえあれば整えられるものなのに、頭に埃をつけて鬢は乱れ放題。とにかく普段はたしなみ悪く、そのくせ外に出る時は他所の男に見せようとしてか、化粧にも衣裳にも玄人の三倍も騒ぎ散らすという間違いきった醜態を晒し、家の中にいるときには、襟足に産毛をボウボウにして、眉の飛び毛を剃ろうともせず、頤の辺りを薄黒ませ、指の爪が汚いのにも気がつかず、裾の広がった袴をはいた女の土人形のような形をして、たかが家の中だけの切り盛りを天下を治めるみたいに忙しがり、亭主が酒を飲めば止めておけばいいのにと腹で呟く代わりには、燗の加減も見ることもなく、天狗も舌を焼きそうな熱燗、日向水のような微温燗、ある時には、杉の木の匂いが鼻につくような酒を飲ませ、酌をさせれば物もらいが震える歯の音をがちがちさせるように徳利をお猪口に触れ、叱ればそんな給仕のような真似はいたしませんなどと僻み、自分が嫌いというのなら盃だけでも受け取ろうという愛嬌もなく、人の煙草の煙を睨み、芝居の噂なら知ったかぶりにのさばり出て、高尚な話の時は居眠りで頭だけ頷かせ、嫉妬だけは直焼きにして魚を真っ黒に焦がしてしまうくせに、外の女の褄先が揃っていないだの、履き物の鼻緒の好みが田舎っぽいだのと悪口を言い、自分のどこが男に嫌われているのかも気がつかず、それを直そうとも隠そうともしない。
一夜だけの遊び相手とは言え、三味線を弾いて生きている女だとは言え、玄人にはそういった気まずいことはなし。もしもあったとすれば嫌で止めればよいだけのこと。男は肩肘張らず遊べるので、恋ならそっちの方が優るというもの。昔、ある女は酒を飲むと額に古傷の痕が現れて、男の気分を醒ませてしまうのが悲しいと、飲める身でありながら、どんなに勧められても長い間、一滴も飲まなかったという話がありますが、今時の女房にこんな情愛の心入れがある者がいるとも思えず、たいてい自分の不行き届きからきっと男に愛想を尽かされるが、古女房はくっついて取れにくい足の裏の飯粒のようなもの、思いがけない金でも入れば、女房に鼈甲もどきの櫛を一枚買ってやるよりは、芸子に丸帯の一本をプレゼントしてやろうと思うのが男の心の流れ方。それは結局、色町の綺麗どころの艶っぽいのがいいからで、女房は足枷、子は首枷。そんな枷がないうちが男の花。悪いことは申しません。その道の女の手玉に取られて、救い取られてごらんなさい。鬱陶しいことなど聞かずにすみ、気まずい目に遭うこともありません。色とりどりの花に囲まれ、緑を楽しむような安楽の国で、女天や女菩薩の綺麗どころがずらり揃って好いことずくめ。嘘と真実と女の意気地、底の底には綾ある仕掛け、絡繰り仕掛け。諸葛孔明も裸足で逃げて、後で菓子折持って来そうな世界。深入りしなくても、まずは行ってみて、成程、粋とはこういうものかと納得されるのがようござる。何の、素人の女など洒落臭い、そんなものは捨てた捨てた。あちらの世界を一度拝んでみられたらよろしかろう」と、面白おかしく囃し立てられ、遊び半分に飄六の誘いに乗ったが、たちまち待ち受けた蜘蛛の糸に引っかかってしまい、初めて会った勇菊という可愛らしい女に、最初から命をかけた次郎であった。
つづく