表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幸田露伴「新浦島」現代語勝手訳  作者: 秋月しろう
6/22

幸田露伴「新浦島」現代語勝手訳(6)

其の六


言えば愚痴になる、おもえば涙となる。岩間から湧き出る清水を漏らさぬよう、全て飲んでしまうくらい、人知れず独り、むせ返るほどの悲しみを飲み込んでいるけれど、世の中を恨めしく思うのは、あるいは天を恨むのは無理というものか、恨んでいる自分が愚かなのか非常識なのか。

こちらは荒磯の漁師の子に生まれ、片やあちらは高貴な官吏の姫として、かしずかれるほどの人。身分の違いがあるのはわかるが、あちらからは、私には詩を作る才能さえないのだと思われているのだと悩み、こちらは、あの花のように美しい顔だちと立ち姿に心は悶々としていたのだった。

恋の国には宮中と在野ざいやの隔てなく、情けの道には上下区別もないと思い、思われたのに……。


七条三位ともいわれる家柄の娘を、いかに四民平等の世の中といえ、取り柄といえば、詩を作り歌を詠むだけなのに、上流階級の人たちの中に交じっている浦島次郎如きに与えてよいものか。特に、我が姫は浮橋四位殿の若君の妻となることを幼い頃から約束しており、仮に姫が次郎風情に心を寄せて、四位殿の若君をそでにするとしたら、それは年端もいかない者のわがまま勝手というもの。恋など三年でめる。無理に嫁入りさせても、一ト月も一つ寝をすれば、厭な男でも自然おのずと愛しくなるのが女の弱いところと昔から決まっている。何で姫のわがままを親が許さなくてはならないのかと、人生経験豊富な親の意見は強く、最初から将来を見越して、四位殿の若君との縁談を押しつける。気に入らないけれども姫は一応聞いてみるが、二度考えて見れば、つまりは親が子を思う気持ちゆえのことと、敢えて逆らおうともせず、自然の成り行きに任せ、結局、姫は四位殿のもととつぎ、波風も立たずに治まった。今はその若君は代を引き継ぎ、姫も四位殿夫人と仰がれて、子どもまでできたと、次郎は風の噂に聞いた。


世の中を疎ましいと恨んでしまうのは自分の心ができていないからだと、半分死んだようにもなっていたが、じっと堪えて一年が過ぎ、二年が過ぎた。そのうち、思いも寄らず、町家の娘で、あの姫とそっくりな面影を持った者に出会った。在りし日の面影を見て取って、思わず知らぬ間に涙がこぼれたが、それを不審がられて問われると、もはや隠すことができず、名前こそ言わなかったが、これまでのあらましを話せば、自分を哀れと見てか、しんみりと慰めてくれ、

「不幸せというのは、あなた様だけにあるものではありません。恋を経験した者で涙を流さない人などいないでしょう。心をそんなに滅入らせないようになさいませ。会えない辛さに一人泣く人もいるでしょう、別れの悲しさに自分の涙を相手の袖に、相手の涙を自分の袖にと、手を取り交わして泣くこともあるでしょう。でも、こんなことはまだまだ思いの浅い恋の山路の麓の話。こちらが思っていても、相手が思ってくれない悲しさの一人泣き、仲違いして、お互いに心をそむけて、解きあえない難しい恨みの涙、他の人に振り向かれる口惜しい涙、義理のために断つ縁の深い仲での退き際の泣くに泣かれぬ場の涙、添えば添える仲でありながら、男は自分がどうしてもやりたい仕事があって、女もそんな男の夢を叶えさせてやりたいと、片時も離れられないほどの深い情愛を持ちながら、千里も二千里も、十年も二十年も離れて暮らす切なさの涙。昔から忠臣と言われ、義士と言われ、秀でた学者と言われ、恐ろしいほどの豪傑と言われた人たちでさえ、いずれも恋では血の涙を流すような峠を越されたことでしょう。さあ、その恋で泣いてからがようやく人情というものがわかって、考えも思いやりも、またひがみも悪意もそれから湧いてくるもの。世の中には一緒に寝ることばかり知って、恋も恨みも知らずに終わる女も男も珍しいことではなく、思いの浅い一通りの人は子ばかりこしらえて、小言ばかり言って、銭金ぜにかねよりも尊いものを知らず、山葵わさびを喰うときと章門しょうもんのつぼに灸を据える時以外は涙をこぼさず済ませている小憎らしい人がいますのに、おいたわしい、一年経っても、二年経っても思い出し涙に暮れられるとは……、なんとまあありがたく、お情け深いお生まれつきのお優しさ、涙がこぼれます。と、ほろり一滴の涙をこぼされれば、悪く思えるはずもなく、このひとも淡い初恋で、好きな人にものも言わずに別れた経験を持つ女ではないかと思われた。


それからは、お互いに打ち解けて、憂さを語り、辛さを分かち合い、いつの間にか、意中のひとを持たない女と、心に決めたひとを持たない自分は知らず知らずの恋に落ちた。しかし、過去に覚えのある者同士、深く思い合っているけれど、初めての恋のように目がくらむほどに燃え上がることはなく、こちらも二の足、あちらも控えた分別、何事も無理をしないように、一線を越えぬようにと慎み深い付き合いを重ね、いずれは晴れて……と思っていた。


しかし、天がにくんだのか、そのむすめは秋風が沁みる頃、病を得、自分に一筆、思いを込めたふみを名残として、柳が散るように亡くなってしまった。時折、面影だけが夢に現れるだけの人になってしまったこの世の恨めしさ。人には見せないが一篇の詩を作り弔ったが、美しい人の魂はもうこの世にはない。もし自分が死んだら、彼女に対する自分の真情まことを後の世の浮いた者たちに見せたいと思うばかりだった。


もう世の中に何の生き甲斐も見つけられない男となってしまった次郎。しかし、これだけならまだしも生きることもできるだろうが、悲しいことはこれだけではなかった。さらにもう一つあったのである。


つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ