幸田露伴「新浦島」現代語勝手訳(22)
其の二十二
同須がまたもや酷っぽい処置をしてきて、またそれを何とも思わず、澄まし返っているのに次郎は堪えられず、カッと怒って睨み付け、
「ええ、またしても人の命を蚤や蚊のように扱いおって、その誇らしげな面構えはどういうことだ。汝、同須。殺せと頼んだ覚えはないぞ。さっきこの女が身投げをした時、俺が助けなければそれまでだったのを、わざわざ生かして汝に処置を頼んだのも、何とか女を死なすことのないようにと考えたからこそだ。それを知りつつ、こともあろうに化石にして俺の前に持ち帰り、ことさら俺に白昼、黒夜、絶え間なく見せつけて心安まらない思いをさせようとは奇怪千万。言い訳があるなら言ってみろ、聞いてやる」と、決して許さんぞとの眼の色をして叱るけれども、同須は騒がず、落ち着き払って、
「またしてもお叱りを蒙りますとは思いも寄らぬ情けないこと。お任せいただいた故、考えに考えた末のこの処置は我ながら上出来だと思っております。もちろんお命じになったお心は承知いたしておりますので、女の命はまだ完全には奪っておりません。仰せつかると共に引っ担いで北方にあります紅蓮澗というところに参り、この女性を谷川の水に浸しましたので、慣例によりまして三年の間は生死の外の境に勇菊殿はおられるはず。完全に殺したとか何のとかと言うものではいささかもございません。このまま三年お置きになれば、三年後には甦ったように再び動き出されることは露ほども間違いございません。言わば眠っているような状態でありますので、女性の命を奪ったということではないので、取り立てて酷い処置とは自分は考えておりません。ただし、三年を過ぎない間に閻魔大王の使いが勇菊殿を召されるとなれば、その時はそれまでのこととなり、そのまま黄泉へ行かれることになります。これは我等にも見通しのつかぬ事でございますので、致し方ございません。また、その三年の内に水、火、刀、戦争、獣畜などにより害を受け、身体を損なうことがあれば、甦った時、それだけの不幸を纏われて目覚めるというのはどうしようもございません。ただこのまま少しも傷つかずに動かないでおられれば、三年後は今宵と同じく、寸分変わらない状態で動き出すというのは決して偽りではございません。その時になって、またお困りになった折は、再び私が紅蓮澗に引っ担いで参りますだけ。三年、三年、また三年と月日を過ごす内には、失礼ながらご主人の鬢を霜が侵して、色恋のない冷たい世界に入って行かれるのは予想が付くというもの。勇菊殿の執念も弓状になった腰のご主人には関わりようもないでしょう。ご承知の通り、男女の情はたかが血の気と水の気との多い少ないに従って、高まったり、消えたりするもので、白骨と白骨が同衾したとしても、カチカチを音がするようでは、アハハハハ随分洒落すぎております。『燃ゆるが如き唇が額に触るる』と詩人どもが言いたがる情熱の光景も『冷たく硬い顎骨が前部脳蓋骨にコツンを撞突る』と変わっては何の面白味がございましょう。ご安心下さい。歯を食いしばって六十年済ましてしまえば情の鎖と欲の枷は自然と解けてしまいます。ただし、これでも私の忠義が過っているとしましたらどんな風にもいたしましょう」と、段々心易くなるにつけて、思う存分を遠慮なく話せば、次郎はなるほどと感心したが、それにしても他の意思を奪い、知覚を奪うなど、三年はさておき、三日でも自分の良心が許さない。そう思うと、矢も楯も堪らず、
「同須、汝がしたことは確かに上手いとは思うが、他の意思や知覚を奪うのは気持ちのいいものではない。と言って外に手段もないが、とにかくこの女を旧のように戻せ」と命じた。
さらば仰せの通りにいたしましょうと、煙のように同須は消え去ったが、しばらくしてすぐ帰ってきた。見れば左の掌に一塊の火を載せている。そして、
「南方にある紫雲山の火を取ってきましたので、これで勇菊殿を旧のようにいたしましょう」と、石となっている女の足元に火を投げると、勇菊はたちまち動き出して、今までこのままでは苔も付くのではと思えていた石の身体の眼から、はらはらと涙を流し、次郎に必死と抱きついた。生死の外の化石境から呼び返してみたものの、また今さら女の処置には困り切った次郎であったが、『……そうだ!』と突然思いついた。
「よし、私は自分の自業自得の悪果を自ら受けて苦しむだけのこと。同須よ、私を紅蓮澗とやらに連れて行き、澗水に浸してここに連れて持ち帰り、汝は三年の間、怠ることなくずっと私を守るようにせよ」と叫べば、
「何事によらず仰せには背かない同須でございます。では、仰せに従いましょう」と言うかと早いか、主従二人は見えなくなってしまった。「あれあれ……」と驚く勇菊は半狂乱となって家の外に出たり入ったりする間に、化石となった次郎を担いで帰った同須は、部屋の中の真ん中に安置して、自分は慎んでこれを守っていれば、勇菊は一応は悦んだものの、触ってみて石となったことが判ると吃驚し、呆れて、同須に「これはどういうこと」と、訊ねるが、少しも答えず、再三再四問いかければ、
「我等はあなたに答えるべき義務というものは持ち合わせておりません」と言ったきり、口をつぐんで開くことはなかった。仕方なくなく三日ばかりは泣いていたが、勇菊は終にどこかへ立ち去っていった。
勇菊が九世戸を去ってから次郎の家は同須の魔力で二度と人の眼には映らぬようにされた。同須は謹んでそれを守り続け、次郎は今も化石となったまま静かに生死の外にいるのだという。
(了)
今回で、「新浦島」の現代語勝手訳は完了しました。
拙い日本語を最後まで忍耐強く読んでいただき、ありがとうございました。
全体的に、私の言葉の選び方、記述の仕方、文脈等々、不満足な点がいくつも目につきますが、機会があれば訂正しながら、もう少しましなものに書き直したいと考えています。
私が初めて幸田露伴を読んだのは「五重塔」ではなく、この「新浦島」でした。
それは、澁澤龍彦編「幻妖のメルヘン」(現代思潮社)~アンソロジー日本文学における美と情念の流れ~という本の冒頭に納められた作品でした。
(随分前の話ですが、一時期「澁澤」にはまっていた時期がありました)
脚注など一切なく、何だか難しそうだけれど、読んでいると何となく物語の展開が理解出来て、もちろん細かい部分は判らないままに読み飛ばさざるを得ませんでしたが、硬質ながらもふくよかな表現が私の心を捉えたものです。
今回、この「新浦島」の現代語勝手訳を手がけて、ますます幸田露伴の文章の巧みさに驚かされました。この訳を行うにあたっては、底本とした「新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集」の脚注をずいぶん参考にさせていただきましたが、それを参照するたびに、露伴の博学さを実感しました。とても、浅学の私ごときに理解ができるわけがない。
このような文豪の現代語訳をきちんと自分のものにしてできる現代作家は果たしているのだろうか、と考えた場合、真っ先に浮かんだのが三島由紀夫です。
彼なら、幸田露伴や泉鏡花の作品を、現代風の重厚かつ華麗な日本語に移し替えられるのではないか。そう思いました。
もちろん、その願いはすでに叶いませんが……。
でも、一度その文章を読んでみたかった。そして、許されるなら、私もそれにほんの僅かでも近づきたいなと妄想しているところです。




