幸田露伴「新浦島」現代語勝手訳(14)
其の十四
尊天の姿、形の恐ろしさに次郎は一度は驚きもしたが、絶対に魔道を修得してやるぞと思い立ったほどのしたたか者、勇気を振り絞って、毘奈耶迦王に一礼をしながら少しも怯まず、
「よくお出まし戴きました。私は浦島次郎と申しまして、魔道に心強く惹かれている者。お尋ね申し上げたいこと、お教えいただきたいことが沢山ございまして、お招きさせていただいた次第。まずまず、お楽になさってくださいませ」と馴れ馴れしく言えば、尊天は瞬き一つせず、目を見開いたまま威厳を崩さずして、
「無礼であろう、愚か者が。魔道に心惹かれてなどと虚言を申すな。魔力を盗み仙人になろうとする小賢しい智恵を巡らし、我を騙そうとする魂胆など底の底まで見破り果たしておるわ。卑しき者め、弱き者め。愚かにも軍荼利明王を頼んで我を招いたか。恥よ、小さき者、退がれ、卑くき者、魔道呼ばわりなどと、片腹痛いわ。恥よ。甘露軍荼利夜叉明王とは即ち異現同実の我のことであると知らぬのであろう。魔とはなんぞや、仏とはなんぞや。お前が求める仙とはなんぞや。言ってみよ、言えぬであろう。哀れなるかな、人の子、鬼の餌。宇宙生成時の毘藍の風が吹く日から須弥山の外周、鉄囲の山が灰となるまで、仏の背、人の胸に住める我をどうして魔と言うのだ。沙羅双樹の花の凋まぬ前に、あるいは鶴林の露が落ちぬ間のわずかの間に現ぜし者が仏か。思いを致せ、愚か者。何が善か、何が悪か。十善を修めぬ魔王などなく、天地を我が物とせぬ神仏などないわ。仏と言い、魔と言うなどは無意味なこと。聞け、一切の法はただ言葉の遊び、美辞麗句のみ、真実はない。忘れよ、世間の名句など。捨てよ、お前の思慮分別を。智恵ありと思うか、哀れ人の子よ、お前の言う智恵の国の涯に立って前面を見よ、そして悔やめ。明ありと思うか、哀れ鬼の餌。我は三ツ目、お前は一眼足らずして、色と形と見るのみぞ。お前達は始と終だけを知って、始の始と終の終とが相連なることを知らず。仏と魔を知って、仏の魔と魔の仏とが互いに遊ぶが如く繋がっていることを知らず。仙法を修めずして魔道を修めようとは、この愚か者め。我を何と思えるか。摩訶毘盧遮那は即ち我なり。自在天王も即ち我なり。摩訶怯羅天も即ち我なり。六臂天もまた我なるぞ。四面八臂として現れ、四臂三目として現れ、十二臂四足として現じ、八臂三目四足として現じ、あるいは必隷多…餓鬼…に乗り移り、大悪相を現じ、あるいは宝蓮華に座して金色身を現ず。お前の目には鶏だと見える時もあり、烏と見える時もある。淵に躍る鯉魚となり、天に舞い上る鷲となり、また猫の子となって花の下に眠り、雀となって軒下に巣うのをお前達は未だ知らないであろう。聞かせてみよ、我は仏か魔か、天か畜生か。鬼か仙か。どうだ、一つも判らぬだろう。魔道もあらず、正道もなし。言葉遊びの満足を求め、それで事足りるとする愚か者よ、お前には我が示す道もないわ。非魔非仏なる我に対って魔法を求める愚昧な奴。金銀財宝美女官位などを求めるならば、魔王に命じて直ちにお前に取らせもしようが、魔法については我は教えぬ」と、まったく取り合ってくださらない様子に、次郎は望みを失い茫然として、答えるべき言葉も即座に出なかったが、『うむ、ここだぞ』といよいよ勇気を振り絞り、
「おっしゃられることは一々至高の妙理で、なかなか理解出来ないところもありますが、魔法をお教えいただけないとなれば、もうどうしようもなく、思いを棄てざるを得ません。しかし、それはしょうがないとしても、縁があって、幸いにこのようにしてお目にかかる機会を得たのでありますから、願わくば貴方様のご一族の中にお加えいただき、お召し使いいただくわけにはいかないでしょうか」と、日頃は高慢至極の男の我を折って切に願えば、
「小さき者よ。煩わしいことを言うことかな。お前はもうすでに我にとっては魔となっておる。我が一族は四天王並びに諸仙、左には倶摩羅将軍、右辺には阿吒簿元卒大将、四大夜叉、九千八百の大鬼王、十万七千の諸毘奈耶迦あれば、お前を用いる必要もない。しかし、そうまで言うのであれば、お前を我が一族のように扱い、同須と言う仮の名を与えた者を、しばらくの間、お前、浦島次郎の使役に供させるものとしよう。前に出よ、愚か者」と宝剣を揚げてお招きになれば、おっしゃる言葉の意味がよく判らないが、勇んで前に進み出ると、魔王は牙を噛み鳴らして、一層忿怒の形相恐ろしく、宝剣を一ト振り振って、仰ぎ見る次郎を脳天真上から斬り下ろし、真っ二つに二片とされた。次郎は逃れる間もなく斬られて、ハッと肝を散らす余裕も与えられず、驚くばかりであった。が、痛みもなく自分の身が二つになったとは何とも不思議。こ、これはどうしたこと。自分と寸分違わぬ同じものが右にあり、自分は左にあって、五体に少しも疵もつかず、こっちの身が自分か、それともあちらの身が自分なのか、しかも夢に出てきそうな奇異な感じもなく、完全に一人が二人となっているのであった。
尊天は右の次郎を剣で指しながら厳かな声で、
「そこに名あれ。名に力あれ。力に質あれ。質に性あれ。毘奈耶迦天王随侍同須」とお呼びになれば、右の次郎は
『はい』と答えた。
「同須、汝は少時浦島次郎の侍者となれ」と、また宣われて、
「さあ、鶏羅の山宮に帰るぞ」と、次郎にはただ一言を残されて、先ほどまであったお姿はかき消されたように、ただ千条の光明となってここになく、見れば、護摩の火はまったくの灰となっていた。
酔ったようにフラフラとなった次郎、傍らを見れば、同須が早家来のように、慎んで頭も上げずひれ伏しており、これは不思議とは言うにしても、余りある前代未聞のことであった。
つづく