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幸田露伴「新浦島」現代語勝手訳  作者: 秋月しろう
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幸田露伴「新浦島」現代語勝手訳(13)

其の十三


目に触れるものを片端から買い集めたけれど、小銭で求めた本は欠本ありの全集や雑誌で、いものなどあるはずもない。特に仏書に関して造詣が深くない次郎は、調べようとしても手がかりの書物が乏しく、これまで誰かに口伝で何かを受けたこともなく、密教における実践方法が書かれた次第も持っていないので、これにはほとほと弱ってしまった。しかし、屈する気持ちは更々なく、五里ほど離れた真言宗の寺から『秘密儀軌ひみつぎき』の欠本を借り出し、但馬の境にある古い学者の家を訪ね、虫食いの多い『阿娑縛抄あさばしょう』を三十巻ほど借り出してきた。


これを基に、苦学生のように目を光らせ、風呂も入る暇も惜しみ、髪も整えず、寝食を忘れて、昼も夜も戸を閉ざしたまま、気が散らないからこの方がいいと油燈あぶらびの下、小机にしがみつくように身動きもせず、魔法について調べ続けた。何日か経って、ようやく軍荼利明王ぐんだりみょうおうの修法の秘密を会得し、次郎はこの明王の法によって聖天しょうでんを召喚しようと決心した。


そもそも聖天毗奈耶迦王しょうでんひなやかおうは神通広大、霊威無双で、大力の那羅延天ならえんてんも到底かないそうもなく、天龍八部てんりゅうはちぶも爪を立てられず、梵王ぼんのう憍尸迦きょうしかも毗奈耶迦王を押さえ込むことはできない。荒れに荒れられた時には、天地をも覆し、山岳も微塵に砕いてしまわれることくらい、鶏の卵をどうにかするくらいの自在の御身であれば、到底普通に毗奈耶迦王ひなやかおうを本尊として敬い礼拝しようとしても、通り一遍のことでは来現されず、お教えいただくことはできない。しかし、軍荼利夜叉明王ぐんだりやしゃみょうおう憤怒猛勇ふんぬもうゆうの恐ろしいまでの顔で気合いを入れて迫れば、さすがの毗奈耶迦天も力及ばず、ねじ伏せられることにおなりだろうから、軍荼利明王の威力をお借りして、毗奈耶迦天をこのあばら屋にお招きすることにしよう、その後は何とかなるだろうと考えた。


こうした名案を思い浮かんだのだのも、舎利でもって占って、魔道を成就できると良いお告げを得たお陰だと、危険を冒さなくては手に入れることのできない龍のえらにある珠を探り当てたほどに次郎は喜んだ。それからは、生絹きぎぬを買い、かつて少しは習ったことのあるのを幸いに、経典に書かれた儀式の規定である儀軌ぎきを参考にして、明王の姿を描き、護摩壇をこしらえ、水瓶水盌金剛盤鐲古すいべいすいわんこんごうばんどくこの諸々の法器を借りたり、買い求めたり、あるいは手作りしたりしてすべて揃え、よし、今から明王を祈るぞと浄衣じょうえまとい、心身を清めて祈り始めた。


水を供える次第、花を供える次第を厳かに執り行った。油皿の光はきらめき渡り、護摩の火は炎々と燃え、室内に黒煙が渦巻き舞う様子は、何に喩える言葉もない。恐ろしいとしか言いようがないけれど、必死の覚悟をした上のことであると、次郎は少しもひるまず、明王の呪文を高らかに唱えて、体中のすべての器官をキリキリと揉みたてるようにして何度も何度も祈った。終いには目も血走り、喉に砂が絡んだように声はジャリジャリと涸れ果て、脚は弱り切って、ヒョロヒョロと病み上がりの人のようになり、頬骨が高くあらわれ、鼻梁も尖り出て、眼がギロリと光るその様は夜叉と思えた。鏡に映る自分は驚き倒れるほどの悪相となったが、日を重ね、今日でいよいよ満願を迎えることとなった日、次郎はより一層、丹精込めて血を吐くばかりに呪文を叫び、九万八千遍の数をようやく数え終えると、一遍唱えるたびごとに勇気が加わり、この上のない喜悦を感じ、疲れも忘れ、苦も忘れ、全身に湯気立つ熱汗に浸りながら祈り詰めた。


呪文は長く、発音の難しい音ばかりであるが、一心に注意を凝らし唱え続けると、先が見えてきたようで、早くも後わずか九遍となった。それが八遍となり、七遍になり、六遍、五遍、四遍、三遍、二遍となり、これ一遍で、ああうれしい、修法成就とまれば、ひときわ声も張り上げて、何やら娑婆訶そわかと念じ切ったその時、たちまち大地は震動して、雷鳴は足下にまで響き渡り、戸、障子は皆つんざき破られ、家はあたかも舟の如く上下左右に揺り動かされた。墨より黒い雲が湧き出て、周りを籠もらせ、すぐ目の前のものも見えなくなり、中から紫色の電光が走り、瞳を焼くかと思うばかりの鋭いひらめきが起きた。その恐ろしさ。予想していたとは言え、浦島次郎も、水が滴るほどの鉄色かないろに澄んだ独古どくこを、右手にしたのを忘れそうになるほどしっかりと握りしめ、左手は護摩壇の界縄かいじょうを頼みの綱と手にしたまま、息さえ吸えないくらいの真剣さでっとまなこを据えて見ると、再び烈しい激雷の音。銀山が砕けるくらいの百万の巨濤おおなみが一時に寄せ来るが如く、バリバリ……と鳴ると同時に、思いもかけず自分の胸から一塊の烈火が躍り出て赤光しゃっこうを放ちつつ、何かが黒雲に乗っているのかと見る間もなく、

『内に在りては外に聞き、外に在りては内に聞き、暗きに居ては明らかなるに見、明らかなるに居てはまた暗きによく見る毘奈耶迦王ひなやかおうとは我なるぞ』と、砕け散る潮の音、松に吹き当たる風の音ともたとえがたい壮大無上の朗々たる声が頭の上から響き渡った。仰ぎ見れば、頭に宝冠を戴き、髑髏どくろを荘厳な具として飾られ、歯でもって唇を噛んでおられる忿怒ふんぬの形相恐ろしく、左の手は印を結び、右には宝剣をひっさげ、三つの眼を大きく見開き、はったと睨んで、大魔王が次郎の前に突っ立たれた。


つづく

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