幸田露伴「新浦島」現代語勝手訳(11)
其の十一
願いは強くても行動が伴わなければ、寝ながら棚にある餅を喰おうとするのと同じこと。いくら願っても思いは叶わない。仙人修行をしたいと思うけれど、道士の鍾離権や呂洞賓はあまりに遠く、仙人の東王公、仙女の西王母も蒸気船や蒸気機関車で行ける国には住んでおられない。道家の経典である道経もかつては少しは読んだことはあるけれど、精神を集中させるべき身体の器官である玄関牢蔵をしっかりと学ばなくてはいけないなどと、生ぬるい話ばかりである。道教における抽坎填離の秘法である順人逆仙の密理も本当のことを伝えているとは思えず、閨中における秘技めいて、淫書『肉蒲団』に載っているような愚の極、たわけの極、醜事に過ぎない、とすれば、これは本当にどうしてよいやら。生薬に関する書物、本草を見れば、薬はたいてい長期服用すれば、仙人になるというようなものばかりであるが、草木金石はあくまでもその効果は小さいとその道の達人も戒めており、玉皇真経には『以人補人』と言って、薬に頼らず人間の生命力に頼るべきであると強く書かれていて、単に精力剤の地黄丸や婦人病に効果のある金精丸を服用するような考え方とは異なっているように見える。
丹とは何なのか。どんなものなのか。道家で言われる『鉛汞昇降の理』というものも何だかよく分からず、道教の『龍虎調和の談』も謎がかっていてはっきりしない。『尾閭より上って泥丸に朝す』という言葉も何だか分からぬ。不老長生の養生法と言われる『聖嬰長養』の術とは。『黄婆奼女』の説とは。鼎とはそもそもどのようなのものなのか。火の強さは摂氏何度であればいいのか。外丹なるものは磠砂…塩化アンモニウム…や水銀などを使って化学反応を起こさせて作るのか。内丹と言われるものはものすごく綿密な工夫をすることによって作り出すことができるのか。抱朴子の金丹編にある二転丹、三転丹とは何のことか。『ほうちん丹』か『あんぽん丹』か。まずは上手くやり損ねて『すか丹』の丹になりそうな。
閨中の技は何百もあるとのことだが、孫真人が伝える技の一つ以外できたためしがないという話しか聞かず、呼吸法にしても埒が明かない。道家の養生法である『道引』の術よりも体操する方がましらしいし、九字を切る呪いも今となっては古くなった。道教で説く三尸九虫もことごとく訳もわからない煙のようなものである。霊符も蚊一匹除けられず、水を渡る術、何の術、彼の術と中国明の時代の方以智が著した『物理小識』は嘘八百を載せ、白石を煮る法とか何の法、彼の法と、仙人にはできてもつまらないことばかり書いている。つまり、不老長寿の薬と言われる金丹は、そこら辺の薬屋で売っている値段の安い『宝丹』よりも効き目がない。道家において薬を煮る器、丹鼎は雑炊を炊く手鍋にも劣るようになっては詰まらない話である。
これからどこをどういう風に進んで行くのが正しい道筋なのか、さらに分からなくなり、さてさて本当に困ったと、次郎は頭を掻いたが、考えてみると、神仙の世界があるというのも舎利を取って初めて知り、驚いたことだった。だから、自分は神仙道において悟りを開いて成し遂げる時が来るのかどうか、これもまた手箱の中の舎利に問うて明らかにしてみようと、先例の通り、祈りを込めて一心に念じ、『仙道と結ばれる機縁や神仙となるべき風采骨相が私に備わっており、必ず仙人になる運命になっているのなら、一生いかなる辛苦も厭わず修行すべき間は白い舎利を掴ませ給え』と心に誓って手箱の中の舎利を一つ取り出し、目を開ければ、何と言うこと! 悲しいかな、赤い方であった。二度、三度、四度、五度、六度、七度と七度ともすべて今度は赤の方ばかり掴んでいて、青息ほっと吐きながら、これは叶わぬ、負けてしまった、としばらく頭を下げたまま力なく脱力感を覚えていたが、いや、しかし、これは不本意だ。神仙世界がないのなら仙道がないというのも分かるが、神仙はあると決まっているのに、自分は神仙になれないと定まるとは無念と言うよりも、腹立たしさを覚える。しかし、一旦心に誓いを立てて、掴み取った玉が七度まで同じものを得たのなら、争うのも無意味なこと。
よおし、自分もきっぱりと覚悟を決めた。神仙が既に本当にいるなら、悪魔も必ずいるはず。
人生、悪魔に出逢うのもまた趣があるというもの。自分では魔道に堕ちようと思う気持ちはないけれど、魔にも通力あると聞いたことがある。それならば、まず魔道をものにして魔王と友だちづきあいができる身となり、その上で次に仙人となり仏となってやろう。仏と悪魔は紙一重。極悪人だった提婆達多は最後には天王如来という仏になったではないか。魔から仙に入るのは手間暇いらずだ。第一、魔の力を得られれば、また違った意味でこの世を面白く眺めることもできるだろう。魔がよい。魔がよいわ。洒落っ気があって、一つ目小僧や三ツ目入道、いずれも風流な輩でないこともない。まず一番に魔道を修得することとしよう。昔からとかく仙道を修得し、仏道を学びたい者は非常に多いが、実際に極められる者は稀である。釈迦以降、好んで魔道を修得したという例がないから、定めし魔王も買い手のつかない女のような気になって、寂しがっておられよう。魔道に強く惹かれている者がここにいると聞けば、愛しい貴方様、早く早くと、早速ご招待いただけるだろう。よし、試しに舎利を取って、魔道が成就するかしないか問うてみよう。成就なら白、成就しなければ赤、と心を籠めて舎利を掴むと……、まず白を得た。次々と目を閉じては舎利を取り、目を開けて見ると、七度共に白ばかりを取っていた。念のためと三十三度繰り返してみたが、すべて白い舎利であった。
次郎はこれには狂わんばかりに喜び、手箱と一緒に舎利を仕舞って、では、まず何魔王から手につけようか、摩醯首羅の法を修得しようか、孔雀明王を祈ろうか、金翅鳥王をか、三宝荒神か、摩訶伽羅天か、烏枢娑魔王か、ちょっと洒落て、あまり人が知らない冰掲羅天を祈ろうか、穣虞梨童女か、韋駄天殿にしようか、弁財天殿にしようか、毘沙門将軍を頼もうか、密迹金剛丈を仰ごうかと、その本地、すなわち真実身が菩薩であろうと仏であろうと構わない。こっちは素人である。皆、悪魔と思って誰に頼もうかと考えるのであった。
この章についても、底本とした「新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集」の脚注を参考にさせていただいた部分が多い。