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その日、セナは午後の授業を早退した。実際に顔色が悪かったのか、担任も保健教諭もセナの体調不良という建前を疑う事はなかった。
マンションにある自宅に帰り、居間のソファに腰掛ける。白い部屋のソファとはやはり座り心地が違う。当然の事を、セナは不思議だなあと考えた。
自室で寝ていたセナは、玄関の鍵が開く音で目を覚ました。今日、母親が帰ってくる予定はない。祖母が来るという連絡もなかった。空き巣、強盗といった存在が頭に浮かぶ。速くなった鼓動を感じながら、セナは音を立てないようにゆっくりベッドから降りると机の上に置いた携帯に手を伸ばした。手帳型ケースを開き、ホームボタンを押す微かな音さえ部屋の外に聞こえてはいないかと気が気でない。
家の中を歩く何者かの足音は小さく、妙に歩き慣れた様子だった。玄関で靴を脱いだ後、ドアの鍵までかけた。空き巣の常習犯だろうか。セナの頭の中には背の曲がった小狡い顔をした空き巣のイメージができていた。何者かは居間に入っていったかと思うとすぐに出てきて、セナの部屋の前で止まった。なぜ部屋にいると分かるのか。部屋のドアをノックされて、セナは口から心臓が出るかと思うほど驚いた。率直に言って、物凄く怖い。
なんなんだと叫びたかった。大怪我……は承知の上だが、ウォーカーを辞めるよう促されるわ、家に侵入者が入るわ、今日は何なのだ。厄日か。
立て続けに降りかかる紛擾に怒りに近い苛立ちを覚えたが、「セナ、寝てるの?セナ?」というドアの向こうからかけられた声に、恐怖と苛立ちは立ち所に霧散した。
「……母さん?」
緊張が解け、セナはへなへなとその場に尻餅をついてベッドにもたれかかる。携帯を持った手が床に落ちた。
「起きてるの?入るわよ?」
部屋のドアが開き、入ってきたのはセナの母親だ。オフィススーツのジャケットを腕にかけている。仕事帰りだろうか。
「どうしたの、セナ。そんな所に座って」
「鍵が開いたから泥棒かと思って、通報しようと身構えてたら母さんだったから力が抜けた」
「やあね、こんな堂々としてる泥棒がいるもんですか」
「そうだね」
本人が言う通り、母はいつも堂々としている。自身に恥じる事などないとでもいうように。肝っ玉母ちゃん都会版、という親戚だったか友人だったかの例えは言い得て妙だと感心したものだ。仕事でもその嫋やかなる辣腕をぶん回しているらしい。
「母さん、何かあった?今日は帰ってくる予定じゃなかったよね」
真っ先に浮かぶのは、高齢の祖母に何かあったかという懸念だ。しかし、母の返答は「あんたが早退したって学校から連絡がきたから」という予想外のものだった。
「それでわざわざ帰ってきたの?ごめんなさい」
母は毎日帰りが遅い。家に帰らない日もままある。そんな仕事で多忙を極めている母を自分の都合で振り回してしまった事が申し訳なかった。
「何言ってんの」
頭を叩かれた。と言っても力の入っていない、殆んど撫でるに近いものだ。
「子供が具合悪くしてたら、駆け付けるくらい当然。こんなに遅くなってごめんね」
「……遅くないじゃん」
時計の針は差すのは7時半。普段なら母が帰ってくるはずもない時間だ。
「遅いのよ。本当なら学校から連絡来たらすぐ来たかったわ」
「そう、なんだ……」
驚きや気恥ずかしさが入り混じり、頷くしかできなかった。
「それよりセナ、ご飯食べたの?」
「え、ううん。食べてない」
「おじやとか食べられそう?何かお腹に入れた方がいいから」
特に空腹でも満腹でもない。食べようと思えば胃に入るだろう。
「食べれそう」
「じゃあできたら呼ぶから、もう少し休んでなさい」
母が部屋から出ていき一人になった。セナは背を丸めて大きく息を吐く。台風というほどではないが、強い風の中に吹きっさらしでいたような感じだ。
母は心配しているのだろうか。セナは心配されているのだろうか。
のたのたとベッドに這い上がり、仰向けで横になる。誰かに会いたいと思った。今の纏まりのない心情を話せる誰かに会いたかった。
◆
母が作ったおじやを食べて、水分補給にスポーツドリンクを飲んで、土鍋とれんげをシンクに下げて。さて歯を磨いて自室にに戻ろうという所でそれは起きた。「セナ、ちょっと待ちなさい」と母の声。ピンと張りつめた声に、セナは妙な不穏さを感じた。
「なに?」
裸足の足を止めてセナは台所にいる母を振り返る。案の定、母は形のいい眉を寄せ、厳しい顔でセナを見ていた。
「あんた、その足どうしたの」
「足?」
なんのことだろう、とセナは自分の足を見る。寝間着の楽ステから出る膝から下。何もないじゃないか、と裏を見てーーふくらはぎに広がる、薄っすらと、だが妙に赤く、所々の皮膚が引き攣った火傷のような痕に気づいた。一晩経てば消える痕。一晩経っていないから、まだ消えていない。
「その怪我、そんな怪我、いつしたの」
「え、これは……え?」
世界の裏側で歪みっていう大きな怪獣みたいなやつと戦って、その時の怪我が治りきらずに残ってしまったものです。なんて言える筈がない。私も訳が分からない、と戸惑っている振りをするしかなかった。
「やだ、これ……火傷?セナ、あんたどうしたの」
近寄ってくるなりしゃがみ、傷を検分した母が下からセナの顔を覗き込む。
「誰かにやられたの?だから今日、早退したの?」
違う、違うと首を振る。そんなんじゃない。そんな事じゃないと言いたかった。
「知らない。私知らないよ。こんなのさっきまで無かった」
知らない知らないと言い募る。自分で選んだ筈の行動を無かった事にするのは、知らないと否定するのは涙が出るほど辛かった。
「本当に?本当に何もないの?分からないの?」
母の目から疑いの色は消えない。当然だ。
「ねえ、本当にーー」
「……知らないってば!」
母がギョッとした顔になる。声を荒げたセナの目からとうとう涙が溢れた。
「本当に知らないよ……」
泣き落としが功を奏し、程なくしてセナは釈放された。だがそれは疑いが晴れたという事ではなく、しっかり者の娘が泣いたという母の動揺によるところが大きい。
お願いだから、と自分まで泣きそうな顔で最後に母は言った。
「お願いだから、危ないことはしないで。必要なことだったとしても、セナがそれをしないで」
げんなりと肩を落としながら自室に戻る。膝をつき、ベッドに突っ伏した。最低な気分だ。
どうしてだろう。上手くいかない。認められたいわけじゃない。褒めてほしいわけじゃない。
母の言うことはもっともだ。自分の子供が危険に巻き込まれることを許す母親がどこにいるのか。それが必要な事でも、あえてわが子がそれに身を投じる必要はないだろう。そう考えるのは当たり前だ。
きっと、セナは酷い親不孝者なんだろう。
上手くいかない。ままならない。セナはただ、
◆
翌朝、セナが朝食を摂るために居間に行くと、すでに母がキッチンに立っていた。
「おはよう、セナ」
「おはよう」
実の所は分からないが、一応母はいつも通りだった。セナもいつも通り。足や胸元の痕もきれいさっぱり消えている。
「朝ごはんで来てるわよ。食器とお茶だけ持って行って」
「うん。ありがとう」
ちらっとコンロに置かれたフライパンと鍋の中を見ると、今日は洋食のようだ。スプーンとフォーク、作り置きの麦茶を入れたコップを持って居間のテーブルに置く。
「はいお待たせ。いただきます」
「いただきます」
キャベツ、玉ねぎ、ズッキーニ、ベーコンの入ったコンソメスープ。トーストの上にはトマトソースと目玉焼き。味だって申し分ない。文句なしに美味しい朝ごはん。
「母さん何時に起きたの?」
「5時半よ」
今は6時15分。起きてすぐ作り始めたとしても45分。一時間足らずでこの朝食を作ったことになる。
「ありがとね。忙しいのに、ご飯作ってくれて」
「どういたしまして。これくらい、毎日やってあげたいんだけどね」
普段はセナが起きて朝食を食べ始める頃には母は家を出る。やはり昨日の事を気にしているのだろう。
「セナ、言っておきたい事があるの」
「なに?」
食事の手を止めないまま、母は何でもない事のように切り出した。今日、帰りに卵を買ってきて、と同じトーンで。
「私は、何があってもセナの味方だから。セナが間違った事をしてると思ったら叱るし、何なら張り飛ばすけど、拒絶することは絶対にしない。だから、何かあったら話してちょうだい」
「……うん」
「ごめんね。母親らしい事、全然してあげられなくて」
「そういう事言わないでよ」
不満や寂しさがなかった訳ではないが、この母が自分の母親であった事を恨めしく思った事はない。母以外の誰が母親でも、今のセナはいなかった。
言いたい事は言ったようで、母はぺろりと朝食を平らげるともう行かなくちゃと身支度を整え出勤していった。
「食器と戸締り、よろしくね」
「うん。行ってらっしゃい」
母を見送り、1人で残りの朝食を食べながら父を思い出す。馬鹿な人だなあ、と思った。




