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椅子に座る青年との問答で、セナは自身に起こったことを大方理解した。受け入れてはいないが。
青年曰く、世界には表と裏がある。セナ達が日々暮らしている方が表。
この白い部屋は世界の表側と、裏側の間に存在する異空間である。
世界の裏側には時折歪みと呼ばれるものが現れる。歪みは出現すると、例外なく街や建物を破壊する。歪みが一定以上の破壊を行うと、裏側の被害が徐々に表側にも反映される。
セナの真上の天井が崩れたのも、歪みが暴れ回った結果であるという。
「……天井が崩れた原因は分かりました。それで、どうして私はここにいるんでしょうか」
青年が話す内容は全て信じがたいが、それを言っていたら何も前に進まない。
「先ほど行った通り、あなたには境を越える素質があります。世界の表と裏の境を越え、行き来するものです」
ノイズ音。男の座る椅子の横に置かれたテレビの画面が点いた。画面に映るのは一面の白とその上に広がる青。
「これが世界の裏側です」
「……へ?」
よくよく画面を見て気づく。妙な陰影が付いていると思った白の部分は、道路やビルなどの街並みだ。言われるまで分からなかった。
画面が横に移動していくと、セナは妙なものを見つけた。
それはクラゲに似た形をしていた。宙に浮き、下部から生えた触手のようなものを周囲に叩きつけている。
「これが歪みです。右の手前にある建物を見て頂けますか」
言われたとおり、画面の右下を見る。他より一際損壊のひどいビルがある。嫌な予感がした。
「これがあなたのいたビルです」
ああやっぱり、と諦めとも落胆ともつかない気持ちになった。
「これを見せて、どうしようっていうんですか……」
「あなたには境を越える素質があります。なので、天井に潰される前にこの部屋に連れてくることができました。ですが歪みは依然として破壊を続けています。破壊が続けば、いずれ表側にも被害が世界は危機に瀕しています。このまま戻れば、あなたは崩れたビルに押し潰されて死ぬでしょう」
素質があるとか、死ぬとか、世界の危機とか。訳が分からない、とんでもないことを青年は淡々と口にする。顔色も表情も変わらない。生きた人間なのかすら疑わしいと思った。
「提案します。世界の裏側に行き、あの歪みを破壊しませんか」
◆
セナは提案を受けた。男はにこりともせず「ありがとうございます」と言った。
「こちらをどうぞ」
差し出された物を受け取る。
ゴーグル付きのヘルメット、グローブ、丈の長いコート、丈夫というより頑丈そうなブーツ。
「これを着ればいいんですか?」
「はい。ウォーカー用の装備です」
「ウォーカー……?」
「今のあなたのように、境を越えて歪みを破壊する方をウォーカーと呼称します」
「……私より、そのウォーカーって人に頼んだ方がいいのでは」
グローブを嵌めながらセナは尋ねる。
餅は餅屋だ。本職がいるなら、そちらに任せた方が良いに決まっている。
「現在、対応可能な範囲にウォーカーがいません。ウォーカーの到着を待っていれば、表側に反映される被害は更に拡大します」
そういうことかとセナは納得する。現に、セナのいたビルは天井が崩れた。事は一刻を争うのだろう。
「……じゃあ、ここでのんびり会話してる余裕ってあるんですか?」
「ありません」
あまりに平然とした態度に苛立ちが募る。どうして巻き込まれた自分ばかりが振り回されなければならないのか。
「だったら早く行きましょう。あなたの言う事が本当なら、私の生き死にがかかってるんですから」
「猶予はありませんが、あなたの生死がかかっているからこそ十分な説明が必要だと判断しました」
「……そうですか」
相手の考えも聞かずに一方的に苛立ちをぶつけてしまった。決まりが悪くてヘルメットの中で目を逸らす。
「……準備、できました」
ウォーカー用の装備全てを身に付けると、見事に黒尽くめの格好になった。街中でこんな格好をしていたら警察を呼ばれるかもしれない。
「装備の着用不備は見受けられません。では出撃に入ります。よろしいですか」
「……今更ですけど、どうやって裏側に行くんですか?」
「あなたを目標となる歪みの近くへ送ります」
答えは簡潔で、関心の方法が分からない。
「どうやってーー」
「申し訳ありません。その質問は帰還後に回答します。更なる被害の拡大まで10分を切りました。これ以上は反映前の修復が不可能になります。転送を開始。歪みの破壊についての説明は現地で行います」
ちょっと待て、と言おうとした。いくら何でも急過ぎる。しかし口を開く前に視界が回る。
視界が一回転して戻った時、セナは白い部屋のテレビで見た景色の中にいた。
「……ははは」
セナは白い地面に座り込んだまま周囲を見回す。半開きの口から、笑いのような乾いた声が出た。どこにでもある街並みが白だけで作られた途端、異国のような雰囲気になる。
どおん、と体を揺さぶるような音が聞こえた。すぐ近くだ。振り返った先、群れ立つビルのひとつの上部が壊れ、瓦礫が落ちて行く。ビルの向こうに空に浮く歪みの姿が見えた。
あれと戦うのか。じわりと背筋が冷えた。
『テステス。聞こえていますか』
「うっわ!?」
耳元で突然声が聞こえた。飛び上がるほど驚いて辺りを見るが誰もいない。
「え、どこ?いるの?」
『そこにいるのはあなただけです。ヘルメットに内蔵された通信機器から音声を届けています」
「あ、そういうことか……」
『時間が無いため移動しながら歪みの破壊方法について説明します。まず腰の右側に下がっているホルダー内の物を取ってください。手前2番目です』
「これ?」
立ち上がったセナは言われた通り、腰に下がっているホルダーの中身を手に取り出す。手に持ったリモコン大の黒い長方形に線が入り、硬質な音を立てて銛の形に変わった。突然の事にセナは言葉も出ない。
『携行用干渉武器銛型。ウォーカー用装備の一種です。穂先をビルの高所に向けてください。向かって右のビルです』
言われた通り、右手側に建つビルに穂先を向けた。この場は男の指示に従う他ない。
『柄の持ち手より上にある突起を押し込んでください』
言われるまま突起を押した。反動で後ろによろめく。穂が飛び、音を立ててビルの壁に突き刺さる。柄の先からはワイヤーロープのような物が伸び、柄と穂の付け根を繋いでいた。
『もう一度突起を押し込んでください。手を離して落下しないよう、両手でしっかり握ってください』
両手で持ち手部分を握り締める。突起を押す瞬間思い至った。これは、ロープを巻き取る仕組みなのでは?
セナの予想は当たった。柄の内部で唸るような音が上がり、強烈な力で上へと引っ張られる。ぐんぐん近づくビルの白い壁が目前まで迫った所で柄と穂が接続され、上昇が止まった。顔面強打は避けられたが、慣性の法則で膝を打ち付けた。
「こっ、これ、ここから、どうしろと!?」
膝の痛みを堪えながら指示を請う。
「屋上に出てください。ビルの上を伝って歪みに接近をーー」
男が言い終わらない内からセナは「無理です」と叫んだ。
「無理無理、無理ですよ!ここからどうやってビルの上に行くんですか!」
『銛を足場にして跳躍、屋上に出ます。鉄棒の懸垂と同じ要領と考えてください』
「この状況で鉄棒と同じ事をやれと!?」
今のセナは両手で銛に捕まり両足をビルの壁に突っ張って何とか落ちずにいる状態だ。落ちてもすぐ下に足場のある鉄棒と、手が滑れば10メートルはくだらない落下が待ち受ける現状を一緒にしないでほしい。
『身体能力は強化されています。できませんか」
「できません。他のウォーカーさんはやってたかもしれませんけど、私は素人ですよ。その辺加味してください」
そもそもセナはウォーカーとやらではない。
『歪みに近づくにはビルの屋上に出る事が必須です。どのようにすれば上に移動できますか』
「……せめて、屋上の柵まで手が届けば何とかいけるかいけないか」
屋上の柵までは数メートルある。この距離をセナの自力だけで登るのは不可能だ。
「登山用のピッケルとかありませんか?」
『装備内に該当する物はありません。ひとつ方法を提案します。トップロープクライミングと同じく、ビルの屋上付近からロープを下ろします。ロープを伝って壁を登る事は可能ですか」
「……分かりませんけどやってみる価値はありますね。でも、どうやってロープを用意するんですか」
このままでは二進も三進も行かずにジリ貧である。向こうに案があるならそれに乗るべきだ。
『携行用干渉武器連弩型を使用します。前から4番目のホルダーに収納されています』
「これですか」
身体能力が強化されているというのは本当らしい。銛から右腕を離しても、左腕や足に負担が増えた感覚はない。指示されたホルダーの中身を取り出す。黒い長方形は、片手で持てる弓のような物に変化した。
『矢は装填済みです。ロープの接続も済んでいます。目標となる屋上の柵付近目掛けて射出してください』
「……これ片手じゃ撃てませんよ」
落ちながら撃てというのだろうか。いやまさか。
『照準を付けた後、銛から手を離し即座に撃ってください。ロープの長さは10メートルに設定してあります。落下は途中で止まります』
「まじかよ」
まさかだった。しかしこれしか方法はない。セナに代替案が出せない以上、これが今できる最善手だ。
「これ、レバー引いたら撃てるの?」
「はい。レバーを手前に引くと矢を射出します」
失敗して落ちたら恨んでやると心の中で叫び、セナは右手を伸ばして連弩の狙いをつける。柵の真下、屋上に手が届くくらい近く。
一度深呼吸して声に出さずに唱える。女は度胸、女は度胸、女は度胸。
手を離す。一瞬以下の束の間、静止したような感覚。後、落下ーーする前に、セナは連弩のレバーを引く。撃ち出された矢は真っ直ぐ飛び、狙いより僅かに下の位置に刺さった。
「やっ……たあ゛っ」
思わず叫びそうになった快哉は、落下が止まった衝撃で潰れたような声に変わる。セナは連弩を握る手を離さなかった自分を褒めてやりたいと思った。
「急いでください。被害拡大まで残り5分」
「ああもう、くそ!」
セナはロープを掴み、ビルの壁を登り始めた。
◆
どうにかビルの屋上に出たセナは、上空に浮かぶ歪みを見上げた。クラゲのような形の歪みは、相変わらず重さなどないかのようだ。テレビで見た時は好き放題街を壊していた触手も動きを止めてだらりと垂らされている。先ほどまで離れた位置にいた歪みだが、ほど近い距離まで来ている。ありがたいと思った。近づく手間が省けた。
『歪みの底部中心を見てください。半分ほど埋まっていますが、青い球状の物質があります。歪みの体を構成する核です』
男が言う通り、クラゲの口にあたる部分にはドームのような半球状の青く透明な物がある。大人でも抱えきれない大きさだ。
「あれをどうにかするの?」
『はい。核を破壊すると歪みは活動を停止します』
「どうやって?」
『距離が離れているため、固定用干渉武器を使用します。腰の左側に下がっているホルダー内の内蔵盤を足元に置いてください。左から5番目です』
ホルダー内の黒い長方形を取り出し、真っ白いビルの屋上に置く。銛や連弩に変わったリモコン大の長方形とは違い、これは文庫本くらいの大きさがある。
長方形の表面に線が走る。硬い音を立てて形が変わっていく。
『念のため2歩後ろへ下がってください』
後ろに下がりながら歪みの様子を見る。まだ動く気配はない。ビルを登り始めてから何分経っただろうか。
黒い長方形は、台座に設えられた巨大な弓らしき物に姿を変えた。
『固定用干渉武器大型弩砲型です』
「分かりやすく言って」
『バリスタです。攻城兵器の一種です。左右についた取手で照準を調節、足元のペダルを踏み込む事で矢を撃ち出します。歪みの核に向けて発射、破壊してください』
「……簡単に言うなあ」
『急いでください。被害拡大まで1分30秒』
「うわー!もう!」
セナは飛びつくようにバリスタの取っ手を掴んで歪みに向けた。時間がない。この一発で決めなければならない。かといって焦って外しては意味がない。核の周りには口腕のような一際太い触手が何本も生えており、狙いが付け辛い。焦りが手を震わせ、余計に狙いがぶれる。
セナの剣呑な気配に気づいたのか、歪みは口腕に似た太い触手の一本を持ち上げると横薙ぎに振り下ろした。
『退避を推奨しまーー』
「……っ!!」
男の指示をろくに聞かず、セナは足元のペダルを力一杯踏み抜いた。
見えたのだ。歪みが触手を持ち上げた時、青く透き通る核が無防備にも剥き出しになった。
放たれた矢は一直線に飛び、破壊音を立てて歪みに突き刺さる。核のど真ん中に命中とはいかなかったが、鋭い矢尻と人間の胴体ほどもある太さの柄は核を4分の1ほど砕き、半分以上にヒビを入れた。
ゴーグルの中からそれを見た直後、迫っていた触手が叩き付けられる。
『回収を実行します』
全身が潰れそうな衝撃に意識が飛ぶ寸前、声が聞こえた気がした。




