天よりの雷
日を陰らせて浮かぶそれは、遠い海鳴りのような風切り音とともにオリンポス山をかすめ、西北西から東南東へと移動しているようだった。ちょうど低空を飛ぶ大型旅客機を見上げるような感覚。だが、そこには既知の動力機関が発するたぐいの駆動音は一切伴っていない。
まるで風に乗って進む帆船のように、それは静かに飛行していた。
「巣船……」
クルベはその単語を知っていた――意味も。
アルミの救命Gカプセルに同梱されていた、マディソン・ラティマ―の手記にその記述があったのだ。木星3003ステーション壊滅の一部始終を一個人の視点から伝えるその短いレポートは、ヴィクトリクス号乗員のほとんどにとって、手元の端末に保存して帰路の間読みふけるに値する注目の一篇だった。
「隕石アリの社会単位が丸ごと一つ、あれに乗ってるってのか。それが、火星の地表に……?」
クルベは自分の語尾が震えるのを止められなかった。巣船は次第に高度を下げているようで、どうやら彼らの現在地よりだいぶ南に降りることになりそうだ。
「そんなこと……絶対させなイ」
きつい調子を帯びた声に振り向くと、アルミも空を見上げていた。彼女の唇は引きゆがめられてわずかに開き、人工の白い歯がきつくかみしめられているのが分かった。
「よおし、パーカー伍長。今日は好きなだけお空を眺めていいぞ」
ホフマン軍曹が部下たちにいくらかこわばった笑顔を向けた。太い腕を伸ばして、装軌トラックの方を指さす。
「車載機銃用のレーザー測距儀があったろ。あれであいつまでの距離と、視半径を割出せ。あとは簡単な三角法で大きさが割り出せる」
「ろ、了解!!」
パーカー伍長と数名が、トラックに駆け寄る。その様子を見ていたマユミがクルベのそばで呟いた。
(急ぎの仕事を与えて部下をショックから引き戻す……なかなかの指揮ぶりだわ。ほんとは、概算でよければ測距儀も必要ないはずよ)
(そうなのか? どうやるんだ)
(……あの『船』が滞空しているあたりにはぼんやりした雲があるでしょ? 見た限り高層雲の底部――地球での大気モデルをそのまま適用するならば四千メートルくらいかしら、まあ気圧が違うからもっと低いかも。で、私たちが今いるタルシス台地は、平均の標高がおよそ三千メートル……つまりあそこまではおよそ一千メートルはあると見ていい)
「距離出ました! 目標までの距離、現在およそ千二百メートル。長軸での視半径、二十六度です」
パーカー伍長の報告が聞こえた。なるほど、マユミの推測とよく符合する。
「よし、なかなか早いぞ。推定全長は!?」
クルベは背嚢のポケットから端末を取りだして計算アプリを立ち上げ、必要なデータを自分でも打ち込んでみた。遠方の天体と違って目標の円に対する接線の位置は、見かけ上の直径とは大きくずれる。対象への距離は三角形の斜辺ではなく底辺として考えるべきだろう――
「千と五十二メートルほどです……なんてこった、統合軍の戦艦の二倍近いサイズだ」
伍長たちも同様の計算を行ったようだ。全長千メートル強の物体を千二百メートルの距離から見ていることになる。視直径にすれば五十二度。両眼視野のほぼ半分を覆う、圧倒的な眺めだ。
「船」の高度はさらに下がっていく。その進路には何もないと思われた――だが、クルベたちの見守る中、それは急に船首を巡らせ、西へ向かって低空を妙にゆっくりと進み始めた。
* * * * * * *
「……目標の幾何反射能0.0945。機動殻のデータとほぼ一致します」
「おそらく間違いないな。しかし、なぜ察知できなかった……?」
口には出したものの、それは修辞的な問いだった。レイコック大佐はスクリーンに映し出された侵入物体の推定軌道を見て、低いうめきをあげた。
シルチス基地は地表のタルシス常設キャンプからさほど遠くない地点に軌道エレベーターの基部を置き、対地同期軌道をとっている。現在、地表は昼真っ盛りだ。
巨大な侵入物体は火星の自転に合わせる形で、基地のほぼ反対、夜の側から接近して低軌道へと遷移してきていた。これではシルチス基地からの観測は非常に困難になる。
「これが機動殻と同じ原理のものなら、当然推進剤を噴射することもない。つまり赤外領域での観測も困難だ。おまけにこの葉巻型の形状は、長軸の両端どちらかをこちらに向け続けていれば、せいぜい直径百メートルの小惑星に見える……そういうことになるか」
おまけに、火星の周回軌道上には航行中の艦艇がほとんど存在しなかった。先の派遣艦隊はドックにて整備点検中、高速パトロール艦アラクネは再装備のため月軌道へ。タイバーソン提督の主力艦隊は旗艦「ローテル・レーヴェ」一隻を残して、地球のラグランジュ・ポイントL4に位置する基地へ移動中だ。
「火星-木星間に設置された監視衛星群は、木星からの砲弾が途絶えた後も太陽系の外周方向を向いていました。ですが、これまでにこの物体らしきものの観測記録はありません」
「ふむ……だとすると」
レイコック大佐はスクリーン上にもう一つ、別の画像をウィンドウを表示させた。太陽系の惑星と主要な小惑星の位置変化を時間軸に沿って表示するシミュレーターの画像だ。
「あれは、監視衛星群の軌道より内側から、火星へやってきたわけだ。してみるとおおよその見当はつく……アルミ・ロビンソンの救出に派遣艦隊を振り向けた、ツケが回ってきたか……?」
「……ジュノー、ですか」
副官はそう言いさしてごくりと唾をのんだ。ヴィクトリクス号が当初の目的を変更して火星-木星間の軌道力学凌越航法を行ったため、ジュノー近傍の偵察には最小限の成果しか挙げることができなかったのだ。
「そうだな。あそこに隕石アリの拠点があることはほぼ確実だ……だが、ヴィクトリクスが居ても、やはり殲滅までは困難だっただろう。結局、我々は目下のところ、すでに起きた状況に対処する以上のことはできん――そういうことだな」
「はい。最善の対処法を考えるしかありません。この侵入物体――おそらくは記録にあった『巣船』は現在、大気圏内を自力飛行中とみられるコース変更を行い、アマゾニス人工湖の東部へ向かった模様です」
火星地表の拡大マップが表示され、そこに巣船の移動経路が図示される。その進路上には、火星にようやく出現した、ささやかな海の一つがあった。その周辺には緑色の円形で示されたエリアが点在していた。
「緑化プラントか! よりにもよって……数こそ少ないが非武装の民間人がいるというのに――いや、それどころではないな。揚水ポンプとマーズ・リングに電力を供給する、大型核融合炉があるじゃないか」
大佐は握りこぶしでデスクの天板を二回殴りつけた。あれがストップしたら火星の開発は今以上に遅れる。進捗を取り戻すためにはおそらく二十年、つぎ込む資源は想像もつかない。
「地上部隊もすでに状況を把握してくれているといいが、とにかく連絡を取れ。あと、民間人は速やかに避難させろ。放射能汚染はないにしても、相手が相手だ」
その言葉を合図にしたように、基地管制室のスタッフは一斉に動き出した。いくつもの通信回線が開かれ、室内に早口のやり取りが飽和する。やがてレイコック大佐の手元に、タルシス常設キャンプからの映像回線が接続されてきた。
〈司令官! 失礼します、キャンプ・タルシスのケイスネスです〉
「君か、大尉。そちらは今どうなってる?」
〈……目下の状況は把握していますが、タルシスは小さな基地です。人員も不足ですし、器材も限られたものしか。展開可能な装甲兵器も、航空機もほとんどありません〉
「ああ。わかっとるよ。そこにごたごたと物を置いても、軌道上まで持ってくるのに一苦労だし、最小限の人員しか置けんからな。だが、状況は急を要する」
「それですが……この侵入物体の着陸予測地点から二百キロメートル以内の場所で、第17機甲師団の歩兵特殊部隊と軌道砲兵士官……クルベ中尉、それに宇宙艦隊のタカムラ大尉が、有重力下での訓練を行っています」
「ああ。そういえば」
そんな報告が上がっていた、とレイコック大佐はうなずいた。それに、確かそこにはアルミ・ロビンソンを連れてマンスレックとタチバナも赴いていたはずだ。
「連絡はとれるか?」
〈現在呼び出し中ですが通信不良です。何か障害物の陰になっているようで――〉
「呼び続けろ。彼らは我々にとって貴重な目と耳だ。手にもなってくれるかもしれん。それと……」
後半の言葉は、実のところケイスネスにあてたものではなかった。大佐は別の回線で、シルチスに繋留中のヴィクトリクス号を呼び出したのだ。
* * * * * * *
クルベとの通信が確立されたのはぎりぎりのタイミングだった。ダルキーストが「箒」装備のセンチュリオンで軌道上に出る直前のことだ。バックアップにもう一機、リー少尉のセンチュリオンがヴィクトリクス号の反対舷で発進のタイミングを待っていた。
ダルキーストは最終チェックに余念がなかった。「箒」には搭載量の半分ほどの推進剤を詰め込んでいるが、アステロイド・ディフレクターを装着したせいで、航続距離はさほど延びていないはずだ。
「やあ、クルベ中尉。まだ無事らしいな」
〈どうにか。休暇が台無しですよ。こっちは今、タルシス台地を降りるとこで……さっきまで大昔の洪水が作った浸食地形の中にいたもんで、こっちの電波が基地まで届かなかったみたいです〉
「通信が不自由なのは困ったな。軌道上からの砲撃でアリどもをたたく方針だが、なにせこっちも秒速一.五キロメートル近くで周ってる。どこぞの活劇みたいに真上からは撃てないんだ。軌道速度と、落下速度にレールガンの初速を合成したベクトルで、目標に斜めにあてることになる」
〈……「砲弾」の迎撃と、同じ理屈ですね?〉
「だな。だから、地表からの観測でいいから、敵の座標データが欲しい。砲撃距離は格段に伸びるし、半球曲射に近くなる。おまけにテラフォーミングのおかげで濃くなった大気の影響が出るから、軌道上からの観測だけじゃどうにもならん」
〈参ったな……それに、奴らがプラントや発電施設に突っ込まないための阻止と誘導もしなきゃならんとなると……〉
「そこでだ、クルベ。無茶を承知で頼みがある」
〈何です?〉
「そのあたりの施設のなかから、軌道上へ直接届く送信アンテナを探して、確保してくれ。こっちからの送信はシルチスの中継で届くだろうが、車載無線機での送信は距離的にそろそろ限界のはずだ」
ダルキーストは自分の立場を呪った。ろくな火器もなく、輸送用の貧弱な装軌トラックで行動している彼らに命じるには、これはあまりにも過酷な任務だ。リスクも、スケールも。
だが、クルベたちの他には何とかできそうな人間はいないのだ。