8・ところで通訳って簡単じゃないよね。
「……『甘い海』? それがアンタの名前か?」
「ねぇ、ボクも名乗っていい? キミに呼んで欲しいんだ。陸奥、だよ」
「紅玉と呼んでいただきたい」
「北斗だ」
そんなことを考えていると、かずおにとっては実に久しぶりに年下組から声がかかった。
……が。
…………うん?
「陸奥? 紅玉? ……北斗?」
「? どうしました、甘い海。不思議そうな顔だ」
「何といった? 甘い海」
聞いてきたCの言葉を遮るようにするりと横にAの顔が下りてきたせいで、一瞬だけ頭が白くなる。
近い。
距離が近すぎますよ、奥さん。
反射でのけぞりつつ、しかし『甘い海』と呼ばれたことに違和感がありすぎた。くそっ、Aから逃げようとすればCにぶつかるとか、なんだこのパーソナルスペースを無視した座り位置。っつかボクの両隣は無人だったはずでしょう? おかしくないか? こんなに広い会議室なのに椅子の間隔が狭すぎるとか。
「私の名前は、甘い海、では、ありません」
ゆっくりと発音してやると、『なんだそれ』みたいな顔がAとBから返される。
いやいやいや、とかずおは首をかしげた。
彼らが言ったんだろうに。なんとか海とか、よりにもよって相撲取りみたいでイヤだ。
「アンタの名前は、『甘い海』だ。聞きとれる限り、甘い海なんて変な名前じゃなかった」
「もちろん、それが貴女の名前なら、私もそう呼ばせてほしいが」
「っつか、さっき呼んだのは俺たちの名前なのか? そう聞こえた?」
…………ああ、なんとなくわかってきた。そうか、そういうこととかも、あり得るのか。
かずおは軽く眉を上げた。自覚しないままに一気に踊り始める、愉快そうな目の輝き。好奇心のスイッチが入ってしまったことで、固まってしまった三人の心中になんぞ気が付かないままに疑問を追いかける。
「陸奥、紅玉、北斗。私にはあなた達の名前がそう聞こえました。では追加実験です。『佐藤 佳津子』は、どう聞こえましたか?」
「……どう、とは。サトーカジュク、だろうか」
「っ、あぁっ、まさかっ!」
「……こちらからも追加で出そう。『コーリーン』は、どう聞こえた?」
「コーリーン」
なるべくそのままの響きで返しつつ、かずおは推測を確信に変える。
少し驚いたものの、確かにあれだけの手間で完全な翻訳機能が異世界間で使えたら逆にビックリレベルだろう。固有名詞は特に翻訳が難しいだろうし。
むしろこれだけの短い質問でこちらの言いたいことをわかってくれるなんて頭のいい人たちだと、かずおはつい感心してしまった。
そうして、どうでもいいがここらで一度、彼らの外観と呼び方を整理しておいたほうがいいだろうと、思考をそちらに振り分ける。
一番丁寧なしゃべり方なのがC、剣を下げてる男だ。推定軍人関係だからだろうか? 物腰はゆったりめ、ものすごくいい声をして目を合わせてきたがる。
Bは心持ち軽薄。チャラ系というやつだろう。だが言葉が軽いだけで、してきたことはかなり強引に近い。どんぐり飴の大きさの翻訳玉を、推測だが嫌がらせの目的だけで人の口中に突っ込むあたり性格の悪さも垣間見える。かずおの実に端的な疑問だけで問題点を洗い出したことといい、頭の回転は速いようだ。
そして、会話の最後に喋るのがA、かずおをこの場所に連れてきた男だ。Bと同時に問題点を拾い上げたことから頭の回転速度もBと同様だと思われる。こちらの二人はよく似ている喋り方だけれども、若干Aの方が男臭い。というか、女の扱いが手荒い。給仕は丁寧だったくせに。
泣いてる佳津子を放置したり涙に舌打ちしたりと、かずおの中ではそこらの記憶から判断してかなり心証が低い。
三人が三人ともいい声をしてるので、佳津子さん的にはウハウハなんだろうな、と、かずおはBを見やる。やっべぇ、と声に出して顔を歪めた後、彼は勢いよくかずおに向かって頭を下げた。
「ごめんっっ! ぶっちゃけた話、言語通訳の魔法が微妙みたいだ!」
「ええ、いえ、やっぱり、そうでしたか」
っつーかプライドの高そうなお前が先に謝るのかよ、と意外に思ったかずおは、Bのイメージを修正する。運動神経がないかと思いきやアグレッシブにAを相手に足をかけていたし、意外な人だと。
気にするな、と笑って見せれば、返ってきたのはそれぞれの唖然とした顔だった。
生意気すぎただろうか。
「固有名詞ですし、無理もないと思います。意識すればお互い、自分の言語そのままの発音で伝わるみたいですね」
うーん、まだ固まってる。これでもまだ上から目線だっただろうか。彼らが年下であることを疑ってないせいでフレンドリーすぎたかもしれない。かずおはもう少し丁寧に喋ることにした。
「では、改めまして。『佐藤 佳津子』です。名乗るときには家名が先になります。『佐藤』は、さとう、と発音しますのできっと、甘い、と翻訳されたのでしょうね」
誤訳の仕方が面白いせいで、どうにも口角が自然に上がっていくのを止められない。陸奥、紅玉といえばりんごの品種名だ。だとすれば多分、北斗も品種名だろう。スーパーで買うときなんて意識してないけど、ふーん、そんな名前もあるんだ。
というか、どうして名前がりんごの品種名になった。
ああ、聞きたくてたまらない。
かずおは身悶えしそうになるほどの好奇心をなんとか口の端でかみ殺す。
甘い海という誤訳からすれば、聴いた単語の中で一番に近いものを訳として脳に届けるわけでもなさそうだ。由来からの誤訳だろうか。かずおの名前の中、佐藤はすぐに理解できたが佳津子の誤訳部分がどうしてそうなったのかも知りたい。
海ねぇ……津くらいしか思い当たらないが、コレが波に一次変換されて海に誤訳されたんだろうか。
好奇心を刺激される思考が楽しくて、そういう場合じゃないだろうというたしなめの思考もなんのその、にやにや笑いをどうしてもごまかせない。思い切っていっそ、三人に向って笑いかけてみる。ふふっという笑い声はかずおが思ったより楽しそうに響いた。
「私達の名前は、それほど面白い意味になってましたか?」
「ん、アンタの笑った顔もすっごく可愛いし、ずっと見てたいな。どう、翻訳が上手く作動してないみたいだし、調整も兼ねてボクのとこに少しの間、泊まってかない?」
「いや。この子が泊まるのは俺のところだな。なんせ届けられたのが俺の屋敷だ」
「「「「届けられた?」」」」
「屋敷?」
聞きなれない単語に首を傾げてしまう。彼らの方は置いてけぼりにされ続けている壮年組も合わせて、届けられた、の部分に注目してたみたいだけど。
「ああ。丁寧な仕事された棺桶に入ってな。こう、リボン掛けされてあって。うん。『俺の知らない間に』、玄関ホールに届けられてたわけだ」
淡々と説明していたAが、北斗が、『俺の知らない間に』のところでギラリと目を光らせる。少々予想外だが彼はかずおが思ってるより好戦的な人物らしい。……さらに、やはりアレは棺桶で正解だったようだ。自室で寝ていたはずの佳津子なのに、何がどうしてそうなった。
思わず棺桶の単語に反応してしまった。かずおと交代しようとかなり表面に出てきていた佳津子がぶるりと全身を震わせてうずくまるのを感じる。イメージだけれど。
しかし、佳津子がそうやって拒絶してしまえば、かずおの方も無反応ではいられなくないのだ。つられたようにぞくりと肩が揺れた。
あのときのパニックを思い出して、息が詰まるようで、慌てて息を吸い込もうとするのに、上手く行かない。
「……悪かった。いやなこと、思い出させた」
するりと中指の背中で頬を撫でられたのはその時だった。一本だけの指はすぐに手の平全体になり、かずおの頬を包む。親指が目蓋を撫でていった。驚いて身を引けばかずおの目線と同じ位置に北斗の顔があって。どうやら床に跪いているらしい。
っていうか、何度も同じ事ような感想ですまないけどね。
近い。近すぎですよ。あんた。
北斗の顔が近すぎて、鼻で息すら出来やしない。さっきまでの棺桶パニックとはまた違って意味で焦るかずおの腕に、暖かいものが乗ってきた。
目線だけで確認すると、C、つまり紅玉の手の平のようで。
ああもうくそったれ、息が苦しい。
こうなれば無礼は承知で、と椅子を後ろに引いた後で、先んじられた。唐突に動いたはずなのにかずおの頬から手が離れない北斗の驚異的反射能力に驚きつつ、チャンスとばかりに立ち上がろうとした足の間に誰かが足を差し込んでくる。
……なんだ、いきなりのこのツイスター状態。いつからパーティゲームになってたの? っつか、参加表明した? 佳津子さん。
しししししし、してないよぉぉぉぉ。
もはや恐れおののいているといった態の佳津子からの返事に、かずおは目を閉じることすら躊躇する。ありがたくも北斗の顔が離れたおかげでかろうじて息は出来るようになったが。なりはしたが。
ぴったりとは言わないものの半ば閉じていた膝をこじ開けて自分の足を差し入れるとか、B……は陸奥か、陸奥のやることもえげつない気がする。
ゲームならアウトだろう。……いや、今までパーティーにも参加したことないし、飲み会もコンパもほぼ行ったことがない。いわんや、この手のゲームになんぞ参加したことがないせいで、ルールがあったかどうか怪しいが……明るいコミュ障として断言する。アレにはアウトの概念がなさそうだ。
断言したことでなんという29歳だと場違いに自分を賞賛しかけて、かずおは思考を修正する。ツイスターゲームなんぞやったことないし、足の差し入れがルール違反かどうか、正解は知らないけれども。
この状態は、『逃げていい状況』、じゃないか?
しかし、その、なんだ、膝頭を超えて相手の足を差し込まれた場合、どうやって逃げ出すのが有効かなんて今まで読んだ本の中にはなかった気がする。
大体、頬と肘から先、足の間を固定されて、どうやって動くんだよコレ。
ロマンス小説では都合よくヒロインは意識を飛ばしていたはずだ。佳津子が最近ハマっていたトリップ脇役系でもこういう感じで『白状しろよ』って追い込まれたときは確か、誰かの邪魔が入るはず。
はず。
………で。ボクは、何を、白状するんだろうか。
ぐるぐると告白の心当たりを探る。ええと、何の話だったかっていうと、棺桶の……ああ、アレか。
「あの。私がどうして棺桶の中に入ってたのかは、説明できません。間諜の疑いは晴れたと仰ってましたし、何かお聞きになりたいことがあおりでしたら、その」
手を離せ。いいから、ボクの手が届く限りで描ける輪の中に入らないで欲しい。
って、どうやったら相手を怒らせずに伝えられるんだろうか。
かずおはへにゃりと眉を下げる。多少形は違うもののこれがいわゆる『壁ドン』状態なら、きっと彼らには何か自分に聞きたいことがあったに違いないとの推測から導き出した結論だ。聞きたいことがあるからこそこんな格好まで追い詰めたんだろうし、さて、この推論はどうだ。
……そして、答えは唖然とした三人のからのくすくす笑い、だ。
正直、どう受け取ればいいのかわかりにくいリアクション。
一拍ほど考えて、かずおは顔を横に振った。それで北斗の手が離れる。陸奥の身体を押しやるために両手をかずおの前に回す。これで紅玉の手の平からも逃げられた。
ゆるりと押せば、陸奥だってため息をつきつつも何歩か引いてくれる。
ああ、なるほど、ゆっくりと刺激せずに離れさせれるのがコツか。
……そもそものかずおの状況への解釈が間違ったそれであり、返した答えも間違いであり、つまるところ彼はどうしようもなく目前三人の興味を引くだけ引いたという自覚もなしに。
傍から見ると異様な輪の中からようやく、かずおは抜けだした。
「さて、さて。何をどこから確認すればいいのか」
そう発言した年長組を見やる。大変に楽しそうな彼らの顔はそれぞれに輝いており、かずおをドン引かせた。
「現状確認から始めよう。お嬢さんは、どうしてここにいるのか。それからして理解しておらん、と」
「はい」
「では、先ほど頭の中で考えられていたとおり、寝ておられたはずのあなたが、ここにいる心当たりも」
「ありません」
かずおはさらりと立ち上がり、年下組が作った輪の外へと椅子を運んだ。踏み込まれない限り体に触られない距離に木製のそれを据え、座る。きっちりと背を伸ばし、笑わずに壮年組へと答えた。不審者対応が緩和できるかの正念場だろう。
どうして壮年組の彼らの顔が輝いているのかはまったく想像もできないが。……もしかしてトラブルが好きなのか? うん?
「では、この場所がどこで、わしらが誰かも」
「理解しておりません」
きっぱりと言い切る。場の雰囲気がさらに、今にも笑い出しそうなものになった。
怖い。
お前らなんか知らねぇと言われて笑える人間は怖いものだ。
「ここは中央だ。中央軍総本部棟、司令部専用第一会議室。現在は定例総会議の司令部項目における準備会議中で、わしらの名前が」
「……少々、お待ち願えますでしょうか」
「オリバー、ゲオルグ、スティーブン、ゲイブ、ジャック、ジョン、ソール」
「総大将、大将、副将が二人、司令部総長、内務部長、外務部長……でいいのか?」
「いいんじゃないのか。一般人に知られてる名前の方が顔色がわかりやすいだろうし。そもそもお嬢さんには役職ですら、いっさい聞いた覚えがねぇみたいだし」
「というか、見事なくらいに感情が全部、表情に出るお嬢さんじゃ。逆に訓練したのかの?」
「……ああ、考えを表に出す訓練を? ふーん?」
「とりあえず、これからどうするかを先に決めてやれ。かわいそうに、混乱してるじゃないか」
おっさんたちに好き放題言われたことはあるだろうか。待ってって言ったのに。しかも全員が楽しくて仕方ないって顔してるし。
場に七人もいると、誰がどの言葉を言ったのかとっさに追うことだけで精一杯だ。かずおはくるりと目を回した。
「……申し訳ありませんが。あなたがたのおっしゃられる単語に聞き覚えが」
ありません、と言いかけて硬直する。あれ?
「……軍部?」
「そう。中央軍の中枢、ど真ん中だな」
「……もしかして軍部の意味も不明だろうか」
「いや、俺の家に来たんだからちょっと違わないか? どっちかっつーと、俺と軍が、この子の中でつながってないとか」
後半は年下組も会話に加わってくる。総勢十人とかずお。聞き取るだけでも限界に近い。
いや、かずおには無理だ。
よしわかった。かえる。
そろそろ現実逃避をしてもいいだろうと、かずおは顔を上げた。年下組もそうだったが、つらつらと並べられた名前には不思議なことに一切の家名が付いていない。軍部だと紹介されたことといい、その意味を考えてしまえば敬語は外せない。ガチでの実力主義なのか軍人使い捨ての文化なのか。どちらにしろ佳津子が関わらない方が、確実に、トラブルが少なくなるパターン。
「どうやら私は招かざる迷子のようです。御前を失礼させていただき、以後二度とこちらに足を踏み入れることなく」
「そーれーは、困るんだよねー」
唐突に、呑気な声が上からかけられた。……後ろ?
「あーのね、君はリオウが召喚したん…………だ、よね?」
おい、最後どうして疑問形にした。……は? 召喚?
「………………っあーーーー。こーれーはー」
歌うように、かずおの目の前に立った少年が困惑する。猫っ毛に近いような巻き毛の金髪碧眼。描いたようにウィーン少年少女合唱団のイメージだ。声も高い。
かずおが首をかしげると、目の前の少年も首をかしげた。後ろの壮年組がそろって息を止める。年下組も慌てたように目線で会話した。立ち上がり、Aがかずおに手を伸ばす。
その手を実にさりげなくたたき落とし、少年がかずおに笑いかけた。
「こりゃまた厄介極まりないな。想定外に予想外ときた。とりあえず君、眠ってくれる?」
とん、と中指の先で額を突かれた。かずおがそう認識したと同時に意識がブラックアウトする。
何を思う暇もなく。
かずおは、天使のような外見の彼の腕の中へと、崩れ落ちた。