6・どうでもよくないから話をするんだよ。
かちゃかちゃとかすかな音がする。ちらりと見ると、飲茶レストランとかで見たことのある……あれだ、ワゴンだ。茶器と銀のカバーをかけられた皿を乗せたワゴンがかずおの横を通って上座へと移動するところだった。押しているのはA。
「とりあえず、本当の意味でアンタには落ち着いてほしい。温かいお茶と、簡単な茶うけを用意してもらったから、……いや、俺たちも一緒に飲むから毒の心配とかは抜きにして安心してもらいたい。とりあえずこっちに来てくれないか?」
なんとまぁ。やけに静かだと思っていたら、Bへの攻撃の後そんな手配をしていたらしい。
出会ってからの態度を考えると釣り合ってないような気がするが、実はこいつ、マメな男なんだろうか。
かずおは軽く小首をかしげる。ワゴンが止まって見つめ合ってゆっくりと三つを数えたところで、くい、と取られたままの腕を引かれた。
「いつまでそうやって、この男とだけ見つめ合われるのかな? 私でよければ喜んで、あなたを席へお連れできるのですが」
「そーだね。って、アンタの手を引くならボクでもいいけど?」
勢いよく鼻先に突き出されたBの手を見て、かずおは目をぱちくりさせた。言いかけた言葉を飲み込み、大慌てで心の中の佳津子に話しかける。
ごめん佳津子さん、なんか予想外の展開になって来たし、事態がボクの手に余りそうなんだけど。
答えはすぐに戻ってきた。
ごめん、こっちもまだ、情緒っていうか感情を立ち直せてないわー。無理―。
………返ってきた、あまりの言葉の軽さに眩暈がしそうだ。
佳津子に対してだけでなく、この状況すべてに対して発作的に出て来そうになった、ふざけろ畜生、の言葉を飲み込むのに、かずおは珍しくも、ものすごく苦労した。そりゃそうだ。『かずお』はあの子から極力感情を省いたものとして『設定』してある。そのかずおが悪態をつく以上、それは生半可な強さの感情じゃないし、我慢という言葉をそもそも感じないようにしてあるわけだから。
違うか、ボクが感情的になりそうってことは、その分、あの子が立ち直りかけてるってことか。
ふぅ、と、その考えにたどり着いたことに安心して息を吐いた。本当にさりげなくかずおの手の平を自分の腕に乗せていた美声の君――ここまで来たら仮名はCだろう。――から一歩引くことで自由を取り戻す。
実はね、ついでにお前の手もいらないよ、と示したつもりなんだ、Bよ。
ほら、Aはわかってくれたみたいだよ? ワゴンが上座方向に進み始めたからね。
伏し目がちに、我ながら薄っぺらい笑みを浮かべてみる。肩をすくめたBとCが半歩先に立ち、レディファーストがこちらにしっかり根付いてることをかずおに確信させた。
そういえば思い返すに、鎧の人だってかずおに対して椅子を引いてくれた記憶がある。
女ってだけで親切を受けるとか、この世界だって満更じゃ……いや、まぁまぁまぁ。置いとこうか。
唇を引き締めて上座を見据える。しかし、足を踏み出したところで軽い感触とともに、かずおの後ろから肩に何かが掛けられた。
奇声を上げて思わず飛び上がりそうになるのを一息吸うことで抑える。
どうやら、この部屋にいる人間は基本的に気配がなく動く人種らしかった。
こいつらときたらどれだけ自分を驚かせれば気が済むんだろう、まったくのところ。と無表情の下で文句を言いつつ、思考と同時に体も動く。
こちらは反射ではなく計算して素早く、左手で掛けられた布ごと肩を押さえて大きく横に退いた。壁際まで一足で移動し、さっきまでの後ろを見る。そこには困った雰囲気をきっちりと醸し出している鎧がいて。
……うん? 困った顔?
半瞬の沈黙。鎧の人と同じ角度でかずおの眉と首も傾ぐ。間違えてなければ彼は多分、さっきの鎧包囲網の中の背中側、佳津子の玉の肌をチクリとしてくれた人じゃなかろうか。見覚えがないのだ。怒鳴られた覚えも呆れられた覚えも剣を交換するのに手を取られた顔でもない。……はずだ。まったくもって自信がないが。いや、それでどうしてその人が……あぁ、しまったな、そういうことか。
ちらりと見た先、左手の下にはしっかりした織りの、透けないシャツがある。つまり彼は、ネグリジェ一枚であるかずお、というか、佳津子を思いやってくれたわけだ。シャツの理由がわかったところで、先ほど確認した時に鎧姿の一つが足りなくなっていたことに説明がつく。姿が見えなかった今の時間の間にどうやってか、この服を手に入れてきてくれたのだろう。
だってこのシャツ、清潔だ。男臭くなんてなくて、逆にほんのり石鹸の匂いがするくらい。
壁に張り付いていた姿勢を元に戻す。かずおにシャツを着こんでしまう意思がないことを読み取られたせいか、困った顔のままで鎧の人が踏み込んできて気負いなく手を伸ばし、かずおの手をシャツの袖に入れる。ご丁寧に、ぎざついた爪先は先に握りこませる細かさで気を使ってくれる有様だ。
余りまくった肩の布地に比べて心持ちキツイ胸周りに一瞬だけ躊躇して、それでも冷静にボタンを留めてくれた。上から三つまで留めて、思い悩むようにほんの少しの間があく。ちなみにこのシャツ、へぇ、実際の彼シャツってこんなになるのかー、とかずおが感心したほど、袖はすっぽりと指先まで隠したし、裾のラインは太腿半ばまで下がった。
惜しい。もう少しこの体が若ければ。
かずおの隅でその思考はすぐに流れたがしっかりと覚えておく。後でそのチャンスがあったら、今後二度とするとは思えないこの格好を鏡で見ようと心に決めた。
顔を上げ進行方向を見て、つい、無防備に小首をかしげる。
なんだこれ。
今まで部屋の上座の方に行こうとしていたかずおがくるりと振り向いているせいで、半歩先を歩いていたはずのB、C、Aは現在、かずおの後ろにいることになる。つまり、かずおの前方にはこの部屋に入った時に包囲してくれた鎧が三人いるわけだ。それがどうして、全員無表情なんだろうか。不審者が上座に、重要人物に近づこうっていうのに険しい顔をして威嚇しなくてもいいんだろうか。っつか無表情ってなんだ?
後ろで強烈な舌打ちとかすかな冷気が漂うものの、それはスルーだとかずおが自分に言い聞かせる。同時に、子供みたいにシャツを着せてもらっていることかと思い至った。
鎧の彼は結局、かずおのシャツのボタンを全部はめることにしたらしかった。だが待つほどのこともなくボタンなんぞすぐに掛け終る。できたとばかりにポンポン肩を叩かれて、ついでに乱れまくっていた髪も手櫛で軽く整えられた。魔法のように彼の懐から暖かく湿った……あー、おしぼり? みたいものまで出されて、止める暇もなくこれまた軽く顔を拭き取られる。そっと拭ってくれるその仕草に、こちらは純粋にその気遣いがうれしくて佳津子が良く浮かべている『ありがとう』の笑顔で答えた。
驚いた顔になった鎧がさらに見せるとは思わなかった満面での笑顔を返して来てからの、どういたしましての代わりだろう、頭を撫で撫での行為。
ちょっと教えて佳津子さん、何なんですか、いきなりの、このほのぼの状況。
そして、もう一点いいですかボクの半分さん。どういうわけだか後ろから聞こえてきた舌打ちの数が増えましたけど。あとね、本当にどうしてだか前のほう、鎧の塊たちの中からも同じような音が聞こえた気がしましたけど。……気のせいですか?
……もちろん、気のせいです。
これは佳津子からの返答ではなく自問自答して息を吸い込む。それから、かずおはひらりと、ボタンを留めてくれた礼の代わりに指を振って鎧の人に背中を向ける。今度の前方には冷んやりとした空気の持ち主がいたが、気にしないことにした。
っつかね、佳津子さんならわからないだろうけどボクにならわかるよ、コレ。
これは、自分が至らなかったフォローをしてもらえた苛立ち、とやらだろう。推測するに。推測しか出来ないが。
……恋愛感情をボクに設定しなかったのは、こうなると良かったのか悪かったのか、と一歩を踏み出す前にかずおはため息をつく。
こうなった場合の状況が、恋愛なのか男としてのプライドなのか、本気で判断できない。
佳津子さんは鈍すぎるし自分を除外する性質だから。
ボクにはその感情を設定してないから。
だから、自分ではない男性が示してくれる優しさに苛立つ彼らの感情が、…………いや、いやいやいやいや、まぁ、待つがいい。
かずおは自分の容姿を脳裏で再確認する。そうだ、佳津子さんも認識してたとおり、この身体は女性として引っかかるかどうかも怪しいプロポーションじゃないか。性格についても同様。ましてやこちとら、今まで一目も会ったこともない異国人で不審者で。
ないないないない。
高速で、かずおは恋愛へと至る推論を排除する。ねぇよ、というところだろう。お互いに。いやはや、おばさんが気持ち悪い妄想をして悪かったと反省する。
これぞ、下種の勘繰りというヤツだ。
気を取り直してかずおが歩き出せば仕方なく彼らも歩き出すもので、内心でほっと息をついたかずおに待ったなしで次に対峙するのは、会議室の上座テーブルにどっしりと座っている、壮年の男性ばかりが七人。
一難去ってまた一難、ってなあ。
かーずーこーさーーーーん、年上の男の人なら圧倒的にアンタの出番ですぅぅぅ。
しかもこの期に及んで上座連中も全員男前、佳津子さん好みの顔だとか。
神様、なんの拷問ですかコレ。
現実にはぴくりとも眉すら動かさないかずおは当たり前のように、淡々とその存在だけを信じている神様を心中で罵る。同時に、後ろから感じられる冷気がなくなったことで文字通りにいったん彼らへの対応を後回しにし、この光景がどういうことなのかを手持ちの材料で推測した。
かずおがイレギュラーでこの場所につれてこられた前の話だ。
ばぁん、と景気良く音を立てて開かれた扉から、佳津子がAの肩に俵担ぎで持ち込まれる前の状況だ。
後ろの三人とこの七人で何らかの会議中だった。というあたりは間違いない。
いや、一人は推定自宅にいたわけだから――佳津子が閉じ込められていた棺がAの自宅にあったと仮定して――実際は会議をしていたのが何人かまでは確定できない。
それでも、Aが迷いなくこの会議室に来たということは、この時間にこのメンバーが何をしていたかを把握していたということになる。
むしろ自分がどうしてこの場所に連れてこられたの方が重要案件だろうか。はは、重要そうな会議室、そこで少数人数で開催される会議に参加できるA、あからさまに仕事の場所でありもしかしたら機密事項なんかも扱っちゃえるような匂いのする人間たちと、ここにいる意味の説明ができない佳津子。そろい踏みだ。美しい。詰んだ。
最悪の場合、人生がここで終わるだろうしこれから転落するだろうしどれだけ楽天的に未来を想像しても、この会議室からの無罪放免だ。
佳津子と同じ結論を出したかずおは目を閉じることでため息をすり替える。いやいやいやいや、まずは話をしようじゃないか。
想像だけで、自分の頭の中だけで結論を考えるのはよくない。よくないことを、自分は知っている。
高速で回転し続ける思考をよそに、上座につけば身振りで促されて長テーブルの端っこに座ることになった。テーブルの配置形で説明するならロの字の曲がり角だ。出入り口から一番遠い、いわゆる議長席には壮年メンバー。かずおの座った長辺側には年下メンバー。
どうでもいいが、席決めの際に一種異様な緊張が走った後、かずおの両隣は無人になった。同席を嫌がられたような空気に乾いた笑いをもらしそうになるが、仕方がないとも納得する。なんせ前触れなく泣いていたはずの女が雰囲気や思考形態を変えたのだ。これは当然の不審者対応だろう。
どちらかというと、危険人物に認定されたとみるべきか。
ここでもレディファーストらしい。Aがワゴンからポットを持ち上げると、似合わない滑らかさで給仕をしてくれる。その場の誰よりも一番先に、かずおの前にティーカップと小皿に乗せられたマカロンらしきもの二つが配られた。かすかに湯気の立つカップの中身は無色透明。
…………そうか、白湯か。
知らずに遠い目になりつつも、音を立てないままに置かれたカップをかずおは左隣のCのものと交換する。あまりにも堂々と替えてやったため、逆に面白がられたらしい。ふんわりと漂ってきた年下組の微笑みの気配に動揺して、かずおは佳津子を呼ぶ。っえー、後ちょっと後ちょっと、って、ねぇ佳津子さん、そろそろボクも限界だよ?
お互いだけに通じるエマージェンシーを心中で叫んでおいて、かずおはカップの側面をそっと指の背でなぞる。
ほとんどそこから熱の感じられないことに気を良くして、思い切ってカップをソーサーから持ち上げてみた。口元に持ってくると花の匂いがする。
唇に触れさせて、付いたぬるめの雫を舌で舐め取った。どんな味かわからない未知のものを口にするのだから当然の用心だろう。行儀が悪いなんて知ったことか。
その液体はほんのりとした甘さで、それよりも爽やかな花の香りがした。
なるほど、これは白湯じゃなくてお茶なのかとかずおは納得する。舌の上で転がしてどこにも刺激がないことを確認。それでも油断できないので迷っていると、くすりと笑ったCとBが一気に自分の分のカップをあおった。
無言のままに仕草だけで進められる会話をどこか心地よく感じながら、かずおもカップに再び口をつける。ミントではなく柑橘系の匂いでするりと喉を通ったお茶は、食道で引っかかりながらすんなりと胃に馴染んだ。思わず喉を押さえて、Aにお代わりをせがむ。目を合わせ、カップを軽く持ち上げただけで理解してくれたらしい。
今度はなみなみと注がれた液体をちびちびと飲んでいく。不思議なことに、あれだけ叫んだせいで荒れていた喉のささくれが治っていくような気がした。
いや、気のせいじゃなく。
「おいしい、です。ありがとう」
実はずっと声を出すたびに痛んでいた喉から、ようやく滑らかに声がこぼれでた。
「ふぅん、もともとはそんな声だったんだね。かわいいっていうか、いつまでも聞いてたくなる声だね、おじょーさんは」
「もし良かったらこちらの茶請けもつまむといい。夜明けの方が近い時間だから、重いものは勧めないが、これなら」
「女性は甘いものと茶で心を鎮めると姉から聞いたから。勝手だけどリーリアの茶には治癒の魔法をかけておいた。鎮静とか自白系じゃないから許してほしい。というか、これからも俺が怪我を治すことをアンタに受け入れてほしい。事後承諾で、済まないけれども」
その場にいた全員にお茶を――ふむ、これはリーリアの茶というらしい――配ってから一方的な会話に混ざってきたAの言葉にかずおは、正直に言うと心が揺れた。
治癒魔法って、言った、よな。
そして、あの言い方からするに鎮静効果や自白、つまり、精神効果のある魔法もここには存在するわけだ。しかも直接でなくお茶というクッションをはさんでも有効と来た。
厄介極まりない。
爪先の傷が花茶を飲んでから見る見るうちに『なかった事になった』事と合わせて、温かい飲み物で緩みかけていた感情がぴりりと引き締まったようだった。佳津子と交代する前に聞いておかなければならないことが増えたと目には見えない指を折る。
うん、何よりもその前に、一言も口を開いてない、この壮年組の方に話を通すのが先だろうけれども。
ぐるぐると思考は渦を巻く。どこまでも正直に認めればこの状況、わからないことや不確定要素が多すぎ、下した判断の全てが推測で気持ち悪かった。きっともっと頭のいい人にならわかるだろうことが、自分にはわからない。『わからないことがある』事態が不快で、不快な状態はかずおの嫌うところだ。
今かずおが理解していることを、手の内を、全部さらすのはこの場にかずお側のフォロー要因がいない以上、無謀だろう。
だが、知らないのに知ってるふりを通すのはかずおの『設定条件』が許さない。
プライドも余計な感情も削いでしまったのが、かずお、なのだから。
「まずは、自己紹介を。初めまして、どうしてここにいるのか理由がまったくわからない、佐藤 佳津子です」
だから、とりあえず名乗ってみる。かずおの名前など名乗れば、あとで狂人と思われるだろう。よくて狂ってるふり、佯狂扱いだ。どこの世界なら『見るからに女性だけれども男名前を名乗り、仲良くなれたら女性名を名乗りなおす』常識が……まぁ、あるのかもしれないが。なんせ異世界だし。そもそも、男性名女性名があるのかどうかも怪しいし。
ただ、後になって名乗りなおすなどという、そんな面倒なことはかずおの常識にはなかった。よって、おとなしく佳津子の名を告げる。
心の奥底で佳津子が、かずおの名前を呼んだ気がした。