5・初めての唇はナメクジみたいでした。(かずお)
目を開けたまま、かずおは冷静に数を数えた。なんというか、甘露飴みたいに強烈な甘さのモノを含まされたのが、いち。
それが溶けるまでの時間が、さん。
お互いの唾液で溶かしあいたいのかと思うほど執拗に、どんぐり飴のような大きさのその飴ごとかずおの舌を嘗め回されたのがこの時間だ。
まるで蜂蜜のようにしゅるりと溶けてしまった飴の味をまだ探したいのか、どう考えても余計な動きだと思う彼の舌に我慢が出来たのが……あ。
乱暴に引剥がされたので、カウント不可能。
トータル、よんと半分。ということは10秒を余裕で切る短さで生涯初めてのキスが終わったわけだ。
かずおをこの部屋につれてきたほうの男が勢いあまったらしく、襟首を掴んで引き剥がした男の足を払う。…………いや、その行動だと『勢いあまって』というふうには見えなくなるが、いいのだろうか。
転ぶかと思われた口づけ男――仮名Bでいいだろう――が、さらりと足払いを避けたのを見て、彼に関する推測にかずおは多少の変更を加える。
その隙に、さきほどの糖分過多の口移しがかずおにとっていやな行為であったことをアピールするためにも大きく一歩を後ろに引いた。誰かにぶつかるかと思いきや、いつの間にか鎧たちが壁際に戻っていることを目の端で見て取る。一人足りない気がしたけれども、佳津子と同様、かずおも人の顔の見分けがつかない方だ。特にスラブ系なんぞ金髪碧眼色白以外の特徴は見て取れない。よって誰が足りないのかの確信が持てず、棺の時と同様に思考の底へ沈める。
弱みは誰に見せるのも好きじゃないのに、我慢できずに右手が反射的にこぶしを作り唇を強く擦った。佳津子の体だと呪文のように頭の中で言い聞かせる。
女の唇に傷がつくのはもったいない、それでも、拭いたい欲求が強すぎる。このままだと薄い粘膜を乱暴にこすって傷をつけるか、強烈なアルコールか石鹸をよこせと叫びそうだ。
「んー、アンタに取っちゃ、今のもキスって言ってもらえるの? オレはただの役得だと思うし、っつか、キスって単語のわりにアンタだって喜んでないけど?」
「馬鹿野郎!! 妙齢の婦人に向ってお前っ、なんてことっ」
しやがる! と怒鳴りながら、先ほどと同じように連行男――仮名Aでいいと思う――がBに殴りかかって避けられる。鮮やかなバックステップ。
そこでようやく、Bの言葉がかずおに向けられてのものだと知覚した。
『妙齢』の言葉に自分でも意外ほどのダメージをくらいつつ、いつの間にか上座から傍に来ていたお偉いさんらしき人を見上げる。
わりと真面目な話、どのタイミングでかずおのそばに来ていたのかわからなかった人だ。
鎧たちと同じように腰に剣を刷いているのは上座の中でもこの人だけのようだし、どうやら軍人さん関係の偉いさんだろうと推測する。そうだとすればえらく外見が若いが……まぁいいだろう。こちらが先だ。
「こんばんは」
実験にとこちらから話しかけてみた。今度は笑顔のサービス無しだ。さて、リアクションが得られるかどうか。
……かずおの推理が正しければ……。
「こちらでは、挨拶が出来るような時間ではありませんよ、……お嬢さん?」
果たして、背筋にぞくりと来るような深くて響きのいい声で。
彼からは、かずおに通じる言葉で、返してもらえた。
……っわぁお。こんなところで、どストレート好みの声なんて聴けるとは。
あの甘露飴を舐めさせられた直後に彼らの言葉が分かるようになったことから推測で、かずおも日本語で挨拶をしてみた。思考を一方的に共有されてからはともかく、……というか、共有ってこんな場合にも使えるんだろうか、なんて場違いな思考がぽんと泳ぐ。常にいくつも同時進行で流れていくかずおの思考の中でも今は、その疑問に興味を惹かれた。自他共に認める『思考空転女』に、頭の休まる暇なんぞない。
それは、異世界に渡ろうがなんだろうか、変わりはないらしい。
共有という単語が新たにかずおの中で思考の流れを作る。共に有するというからには、お互いが対等で、認識を共に持つことだと定義していたわけだが、今回は単に周囲の人間に自分の思考をだだ漏れにされただけだ。
大勢に、一方的に。
しかしそれでも、かずお以外の複数人がかずおの思考を同時進行で理解しているわけでもある。……やはり、ここで使うべき単語としては共有でいいだろう。
たとえ、その輪の中に自分を置き去りにされていても。
というか、実はさらりと周りからの視線が痛い、とかずおは無表情のままで考え続ける。
こうやって思考を複数展開していくのは傍から見てすぐにそれとわかるんだろうか。ああいや、思考を共有されてるのなら余所事を考えてるのはわかるんだろうけど、それだって細かいところ全部を追うもんなのか? こんなふうにのんびりと……そこまでのんびりとはしていないが……多岐にわたって考えるのは、そろそろ止めた方がいいんだろうか。
やっぱりここでも、異常なことなんだろうか。
身じろぎひとつせずに、視線を心持ち遊ばせながらかずおは悩む。
佳津子もかずおも、自分たちだけが声に出さずに呼んでいるそのあだ名のとおりに思考を空転させて遊ぶことが、普通ではない、変わっているという自覚はあった。
空想癖というか、軽い妄想癖のレベルまで達していると思う。
今でこそインターネットの中の世界では珍しい類の人間ではなさそうだが、しかし、かずおと佳津子は物心ついたとこからそうやって『遊んで』いるのだ。あの当時にはまだ、そんなことをしている子供はいなかった。長じてだとなおさらだ。
空想遊びというものはせめて小学校の低学年で終わらせるべきものだ。そんな風潮だった。それでわりと脳内突っ込みがごく忙しい人間だと気付かれないように静かに、顔に出さずに脳内会話や会議を開くようにし、人目を気にするようにはしていたのだが……。
一度だけ、他人に聞いてみたことがある。
自分たちの、思考を空転させて遊ぶようなまねについて、異常だとまでは自分では思わないが、やはりこれは、隠すべきものだとは思う。
お前は自分たちの思考遊びに、気が付いているか? と。
帰って来たのは、かずおたちが予想していたのとは違う言葉だった。
あぁ、お前のそれは楽しんで遊んでるのか。それは気が付かなかった。
それが彼の答えだった。
余所事考えてる時もぼんやりとしているとか、返事が遅れるとかの特徴はないな。だからきっと他の奴らは気が付いてねぇよ。や、俺は何となく知ってたけどな。ほら、無表情のまま目がほんの少しだけうつろになるんだよ、と高校時代からの友人がかずおに教えてくれたのだ。
真面目な顔して他のことも考えてるっつーか、なんかグルグルしてんだろうなーって俺は思ってたわ。だからそれに気がついてんのって今のところ俺だけじゃねぇ? あぁ? 何でわかったってンなこと……んーとなぁ、お前の空転を楽しむくらいの人間の器が、俺にあるって事だよバーカ。
なんて、軽やかに逆光のまま笑ったせいで、表情も何もかも黒く記憶に焼きついている。
むしろぶっちゃけていえば覚えているのはその辺りだけで、かなり正直なところ、コンクリートからの熱波の照り返しがひどかったそのときの会話の詳細な流れを、かずおはよく覚えていない。
現実に戻ろう。
かずおは現況の整理に移る。思考を何本も複数展開できてこその特技だ。こんな特技、需要も褒めてもらえることもないが。
とにかく、だ。最初からずっと佳津子にとってもかずおにとってもAの言葉や鎧たちの言葉もわからなかったし、逆もまたしかりだったはずだ。それがBによって口中に突っ込まれたあの甘さの後で急に理解できるようになった。
なのでそれから導かれる推論を、実験によって確かめてみた。結果は予測通り。
なるほど、世界が違っても、そこまで推測や意識なんかは違わないのかと納得したその一方で、かたわらの推定軍人さんが発した、あまりにも予想外にストライクど真ん中な声に一瞬だけでも呆然としたのが悪かったのだろうか。
驚愕、と顔に貼り付けたAがこちらを振り返り、盛大に顔をしかめた。
「っあーもう、解除だ、解除!! 畜生、お前のが発動と同時に共有を解除、ってのを組み込んどきゃ良かった!」
「今更、でっしょー? っあーー、ほんとに解除しやがった」
つまらん、と言いながらブーイングの形に唇を尖らせるB。ふうん、その仕草はこっちでもアリか。
観察していると、かずおの目の前に優雅に腕が差し出された。肘から上へとたどっていくと綺麗な筋肉の持ち主に行きつく。予想外の美声の君だ。
くいと眉を上げた、かの御仁がかずおに向かって片目をつぶる。……なるほど、その仕草もアリですか。
「さてお嬢さん、まずはお詫びから。先ほどから大変失礼ながら思考を共有させて頂いたこと、申し訳ありません。ですが、くっきりとした考えならともかくも、あなたの思考はほぼ読み取れませんでしたし、共有はすでに解除しておりますのでご安心ください。同時に、あなたがいずれかの間諜である疑いもほぼ晴れております」
「……思考を共有したからですか? …………それとも、間諜にしては、取り乱しすぎだからですか?」
この美声、心持ちゆったりと喋ってくれるのはどうしてなんだろうか。聞かせたいのか。女と見て取ればその美声を響かせずにはいられないんだろうかこの野郎。
佳津子ならともかく、かずおの場合はどれだけ声がどストライクだろうと驚きはしてもはしゃぐことはない。浮かれるのは佳津子に任せておけばいいのだから。
背の高い男は好きじゃないと隣の男を見上げる。せめて身長くらいは対等でいたいじゃないか。これだけゆったりと喋っているのは、彼が自分の優位を確信しているから。無造作に手を組ませても構わないのは、かずおを警戒対象から外したから。
そのことを踏まえれば、優しく聞こえる偉いさんの言葉には苦笑しか浮かばない。間諜が何のことか一瞬わからなかったのはご愛嬌って奴だ。要するにスパイのことだろう。あの子が怯えきったのは、その可能性を考えてしまったからだし。
そして、その想像はやっぱり、外れてなかったらしい。
「そーだねー。なんか急に途中から落ち着いたからオレ達の方が焦ったよ。っつかアレだ、最初からその落ち着きっぷりだったら怪しかったかもねー」
「……お見苦しい点を、多々、お見せして申し訳ありません。年を取りますと、ぶっつりと切れるまでに時間がかかりまして」
最初にスパイかと思われていて、でもって焦ったおかげで疑惑が解除されたのなら。醜態をさらしたことと五分五分だろうか。
そうして、さて、この場で出来うる限りの安全な手を取るとしたら、無害な女を強調するか、考える頭がないわけではないことを証明するか。どっちだ。
恥と安全を秤にかけながら、かずおの思考は休むことはない。
どうなんだろう、この人たちとしては我ながら『非常に女性らしい』あの子の反応の方が好ましいんだろうか。感情から反応から読みやすいと言えば確かに読みやすいし、この外見にも……あああ、まあ、合ってる、と思う。
かずおと佳津子の好みから言えば当然、かずおが返すリアクションの方が好みなわけだけれども。
というか、自分らしい態度では女の子として不適合だと幼いうちに判断したからこそ、『この見た目にそぐうであろう、普通の女の子らしい、反応や態度と言葉使い』を構築したわけだ。だから本来、この自分、かずおの反応こそが佳津子の性質とも一致する。
小学生で周囲との間に若干の不信感をおぼえた佳津子は違和感の強さからかずおという『内面の友達』を作り上げたわけだが、当然、その不自然さにも気がついていた。そこでこの不具合さがどういうことかを調べようとして図書館に行き、長い時間をかければ性格の矯正は可能だと本から学び、そして計画を実施した。
結果はわりとすぐに出始めることになり、小学生のころはともかく、中学生のころには多少なりとも馴染み始め、大学生活も社会人である現在も、多少変わった性格、で済まされている。
偽装期間が長すぎたせいで、ほぼ佳津子とかずおが一致しかけているが。まぁなんだ、それもそれでいいだろうとも思う。
せっかく、幼いころからどう贔屓目に見ても不自然な、頭の構造を疑われるギリギリのラインまで『仮面の構築』をしたのだ。ようやくの、望んだ普通の女性像に近づいているというところだろう。むしろ。
思考の共有が解除されたというので安心してかずおは佳津子のことに思いをはせる。そんな場合でもないだろうが、やはり見た目や態度からすれば佳津子の方が受け入れやすいというのは納得というかショックというか。いやいや佳津子が変わった性格だから、かずおと相談して『普通の女の子』らしくなったわけで、そういう順番で行くと人格的には佳津子がメイン、主格なわけで……二重人格でもない自分たちのややこしさにうんざりとする。
ああ、いや、それも、どうでもいい。