2・起きてました。(??視点)
彼はその日、とても面倒で薄氷を踏むような会議の合間を縫って一時帰宅していた。
うんざりすることに会議は『これから』佳境に入る。その前に、と無理を言って若干の休憩を一人だけ取ったわけだ。会議の途中で出されてはいたものの誰も手を付けなかったせいでパサついてしまった軽食なんぞ、逆に食べたほうが意気も下がる。長時間の会議で染みついてしまった男臭さを洗い流し、食べたいものを軽く腹に入れたい。
屋敷の玄関ホール脇の小部屋に設置してある転移陣から早足で歩き始める。いつの間にか後ろに控えていたメイド頭のエリーに手軽につまめる物のうちで一番の好物をお願いしておいて、その間にざっと湯を浴びる。
肌触りが気に入っている風合いのシャツと、これまたいい具合にくたびれてきたトラウザーズを履きながら、エリーがいつの間にか音もなく用意していたらしいサンドイッチを口に突っ込み、忙しく咀嚼しながら礼を言った。
行儀悪く最後の何口か分は移動しながら食べ終わり、再びの会議モード戦闘準備を整えて玄関ホールへと足を踏み入れたときに……『それ』に気が付いた、というわけだ。
屋敷というからには玄関にはそこそこの見栄えがする扉を配置するものだ。特に彼の職業柄、ホールで簡単な報告や指示を受けたり出したりできるように長椅子と机、個人用ソファの二組くらいを置いてもまだ来客対応できる広さで設計してある。普段なら応接セットを背中にして転移室に入るわけだが……その時、玄関扉の真横には、彼が見たことのない棺桶があった。
それを視認した瞬間、彼は無意識のうちに屋敷に張ってあった結界を探る。だが、彼が紡ぐ結界特有の細かい編み目にはほころびも異常もない。
……つまりはこの棺、もちろんその存在自体も異常だが、家主の知らないうちに置かれたことからして、設置された経緯も非常に重要だということになる。
しかもこれは見るからに上質のものだ。皺の一本に至るまで考えられたラインで綺麗に整えられ結ばれた悪趣味な明るい色彩のリボンこそ意味が不明だが、棺の周囲に彫られた無彩色の鳥と蔦は生きているようで、魂を善き場所へと運ぶための船なんぞ今にも忘却の河の流れに乗りそうだ。ご丁寧にも船首には男女まで揃えて彫られてある。
木肌の質感も滑らか。木目がそろっていて細やかで。
なるほどこれは、どこの誰が持ち込んだのかは知らないが、中の人のために心を砕いて金をかけて準備したものだ。
決して、一時の遊びのために用意されたものではない。
玄関扉の横に置かれた棺に近づくまでにそれらを見て取ると、ようやく今度は中の人のことが気になった。
認めたくはないがこの棺は彼が初めて見た時からずっとゴトゴトと勢いよく動いており、中からはくぐもっていて良くわからないものの、声がするのだ。
彼の脳裏には、屋敷に張られた結界の無事を知覚してからこっち、しつこいほどに最上級の警戒音が鳴り響いている。
それを自覚してはいたが、しかし意地悪なことに棺を開けない選択肢も用意されてない。
一度だけ天を仰いで心当たりの友人たちを軒並み呪っておく。内容としては、いつかあいつらのトラウザーズのボタンが前触れなくはじけ飛ぶとか、いや吊り下げ紐がいきなり切れるとかでもかまわない。とにかく近い未来に妙齢のご婦人の前で、そう、できればあいつらが気に入ってる女の子の前で、すとんと前触れなく下着をさらして間抜けな姿を笑われるがいい。くそったれ。
足の爪先が当たるまで棺に体を寄せる。この距離にならなくてもすでに、棺の中に閉じ込められているのが女性だということは声から聞き取れていた。何というか、そんな場合じゃないのは理解していても背筋のあたりがムズムズする。
中の子は、きっとものすごく必死なのだろうが、それでもどこか甘く聞こえるような高さの声の持ち主だ。出来うるならこんな金切声ではなく……いや、彼に限って言えば、この程度はまだ喚かれるといった声量であり、更に言うと、それでも十分に好ましい部類に入った。そのことに心のどこかで罪悪感を抱きながら、まずは棺にかけられている、水色地に赤のレースで縁取りされたリボンをほどく。
どこの誰だ、こんなことしやがったヤツ。っつかそもそも、中の子、泣いてんじゃねぇかよ。
これだけ中で泣きわめいているのならこちらからの音は届かない。彼は素早くそう判断した。棺の四隅に目を走らせる。幸い、釘までは打たれてないようだ。内側からなら、さらに女性の力では開けにくいだろうが……彼にとっては、気合の一つで何とかなるもので。
蓋をずらして向こう側に落とす。切れ目なく棺を叩いていたので指を挟まないか心配したが、運よくそういう羽目にはならなかったようだ。一目見て……生爪が剥がれていて、出血しているのが妙に気に障った。頭のどこかで、治してあげないと、という強烈な保護者意識が湧く。当然、初対面の子に向ける感情じゃないと軽く無視しておくが。
棺の内部で反響していた悲鳴は、閉じていた空間が一気に解放されたせいでふわりと拡散したあと急速に尻すぼみになり、それでも掠れて消えることはなかった。なおも中の子がモゴモゴと言いかけるのを聞く。
木肌からの芳しい香りと、――本当に、自分でもどうかと思うが――ついついもっと嗅ぎたくなるような女性らしい匂いを認識した。
そうやって彼が見下ろしている間にも同じ響きが何度か繰り返され、それで、今までの声が単なる悲鳴ではなく、なにがしかの意味を持った言葉だということがわかる。
どのくらい前からこの狭い箱の中で叫んで暴れていたのだろうか。哀れにも汗だくで指先も血まみれ、涙と鼻水でひどい顔をしていて……なのに嫌悪感が一切わかないことに、無意識のうちに舌打ちが漏れた。聞いた事のない言葉を話し、見るからにこのあたりの人間ではない彼女をみて、厄介ごとの予感よりも先に保護者意識を、『彼女を居心地良くさせてあげたいし、何かの助けになりたい』気持ちを覚えたことに、意識して舌打ちをもう一つ。
無礼極まりない彼の態度に何を思ったのか、彼女がほろほろとまた涙を流し始める。またその顔が……かわいらしいというか、…………もう少し見ていたいと思わせる類のモノで。
こんな性癖は断じてなかったはずだと、実際のところ心中が穏やかではない。
今度は何とか舌打ちをこらえる。苛立たしげな自分を感じ取ってしまったのか、喋ることすら我慢するように手の平で口を押さえた彼女の反対側の手を取って立たせようと力を入れ……ため息がこぼれた。この体型のわりに軽いのはなんでだ。しかも暴れていたせいで全身が軽く湿っていることすら、気にならない。むしろそのせいでもっと密着したく……いやいやいやいや。
何をしても俺の気に障らないとか、かわいそうに。っつか、さっきの匂いのことといい、抱き心地だっていいってことにこんな時だけど気がついちゃった俺に自分で微妙に引くね。いやぁ引くわ。
彼は一度だけ目を閉じ、戸惑いを吹っ切った。脳裏で歌うように理屈をつける。
魔術師なら誰でも、一般人よりは多大な執着心を持つものだ。基本が研究者の気質なのだからそれが当たり前の論理の帰結。
そして自分は、この、どういう経緯か一切わからないままだけれども棺に入れられて『自分に届けられた』彼女が、とても、そう、とても気になる。
一時でも目を離したくないくらいに。
この場合、細かいことは後回しでもかまわないだろう。難しい立場に立っている自分が、それを置いてでも関わろうと思ったくらいに興味を引かれたことが大事。
よって結論は。
この子を、俺が、保護する、だ。
よし。そう決めた。
彼女を最短時間で自分の屋敷に保護するために行動しようと脳裏で算段をつける。会議の面倒さや、彼女の意思を確認しようとか気遣おうとかの思いやりは、勢いをつけて自分の肩に担ぎ上げた彼女の柔らかかさにすっぽりと消えた。
足を踏み出して転移陣へと運ぶ間に床にパタパタと涙の落ちる音がしたのを故意に無視しておいたのは、せっかく止まりかけていた涙をまたこぼさせてしまった罪悪感から見たくなかったからだが、このことを後になって、ものすごく後悔することになる。