17・そうして、それから。(最終話・三人称・別視点)
エピローグ
「こんにちは! おじさん!」
「はい、いらっしゃい」
勢いよく扉を開けて入ってきた若い娘に、古書店の主人は愛想よく笑った。くるくると恐ろしく早くその瞳に走る感情が変わり続けるエキセントリックな赤毛の少女は昔から、この界隈のマスコットのようなものでもある。
もう、そろそろ少女でもなくなってきているが。
目の色と同じ緑の普段着をまとった彼女は鼻の頭を赤くしてにこにこと笑っている。古書店の主人と目を合わせてすぐに書棚の方へと歩き出すあたり、今日もどうやら新しく本を買いに来てくれたようだ。臨時収入が入ったのだろう。
どことなく甘い匂いを漂わせた彼女に、店主は紅茶を入れる。かちりとソーサーにカップを置けば、いつものことだ、彼女も心得たようにレジのとなりにある椅子に座り込んだ。向かいのケーキ屋から彼女のような客のために仕入れてあるコーヒーケーキをつまみ、紅茶よりも先に食べてしまう。にこりと満足そうに笑っているので今日の分もおいしかったのだろう。
「それで? 今日はどんな本がいいんだい?」
「ええっとねぇ。そろそろ肌寒くなってきたから、恋愛物が読みたいの。底なしに面白くて、ちょこちょこっと笑えて、甘すぎて『ねぇよ!』ってなっちゃうくらいにバカバカしくて、一途で、心臓がきゅうってなっちゃうような!!」
「おやおや。ハードルが高いねぇ」
くすくすと笑いながら店主は、それならと棚の位置を教える。
真ん中よりはやや下、彼女の胸の高さ辺りにないかい? と細かく指示して、飴色の薄いハードカバーをレジ横まで持ってこさせた。
「ためらいなくおじさんがコレ! っていったのなら、私の言うような本だってこと?」
「さて。さて、どうだか」
店主は愛おしそうに表紙を撫でた。箔押しだけのシンプルな装丁。心持ち黄ばんだような、上質な紙が使われている本。
……この中身は、実在している、ある女性の話なのだ。
ちょっとしたいきさつで多大なる揉め事に引っ張り込まれた人が、傍から見れば面白おかしくその後の人生を歩んでいった、その膨大なる軌跡が日付を負ってまとめられている。
なので、それで言うのならこの本は小説ではなく、伝記、日記、覚書の類なのだろう。
五人もの求婚者でありその後の婚姻相手、さらに本人がそれぞれ何の気なしに走り書きしておいたそれをまとめたのは、『救いの魔女』宅の筆頭侍女頭、エリー=ラルーアだと言われている。
その生涯をかけ、こまめに拾い上げたメモを大小問わずに細かく時系列順に、だが単に羅列しただけの代物だ。当たり前だが解説はなく、心情や時代背景の追加説明もない。誰が書き記したのか、いつの物なのかだけを淡々と覚書の前後に書いてあるだけだ。
これが、しかし、好事家にはごく、しごく高く評価された。
偉大なる南の神である龍の盟友にして契約の管理者。ウロボロスの始祖、北の国に長く元首としてあったあとは野に降り、北の大隠者として名を馳せているリオウ。
この中央の国における軍中枢のさらに真ん中、総大将こそ他人に譲ったものの大将と副大将の二人。コーリーンとポール、シグネベア。
中央軍本部総司令棟の警備総責任者の座に最年少で登りつめ、しかしてその人となりや外見の大半が今もなお謎に満ちている総司令部長ディノ。
そうして、歴史書には残さないようにと厳命されているがゆえに、きっと後世には口伝でしか名を残さない『救いの魔女』。正式名が残っていないのは、一説には保護者であり対等な契約者でもあった彼女の伴侶たちが妬心のゆえに活字として名前を書き記すことを嫌ったのだという。
救いの魔女の功績はごく多岐にわたる。ネットの爆発的な普及は彼女の発案だと言われているし、魔力こそが素晴らしい、いやその多寡で出世を決めるべきだという当時のいわれなき偏見をじわじわと吹き飛ばしたのも彼女の功績だと言われている。体内臓器の位置や性質、病気と称されるものに造詣が深く、機械による大量生産というシステム全ての質を底上げしたのも彼女だという研究者もいるようだ。
なによりも、龍の神の呪いをかなりのところまで解き、南の隠者の負担をも軽くしたことが最大の奇跡だろう。おおっぴらには誰も言及できないが、どうやら救いの魔女には……いや。いいや。
そのあたりは本文を読めば理解できることだろう。この子になら。
古書店の店主は、いつのまにか黙ってしまった隣の少女の頭を撫でた。最初はほんの少しのつもりだったのだろう流し読みはすぐに鳴りを潜め、この子は今やごく真剣にページを繰っている。そう、本当にこの日記は面白いのだ。読み物としての側面からも純粋に面白い。良くできている。
「本は持ってからお読み。暖かくして、お気に入りの飲み物を用意して」
「……明かりをきちんとつけてから。はい。……はい、おじさん。ありがとう。これはおいくら?」
少女は満面の笑みで、しかしながらどこかぼぅっとした様子で言われるがままの金額を払うと、急ぎ足で古書店を出て行った。カップとソーサーを片付けながら書店の主は楽しげに口笛を吹く。あの子がこれから何時間か、もしかしたら何日も極上の心持ちを味わうことを確信しているからだ。
女の子が好きそうな溺愛、繰り返される無自覚の駆け引き、そして歴史を背景に見るのなら尚更、興味をひかれる出来事の数々。
初版の出版数がごくわずかしかなかったため、まず滅多と入らない稀覯本でもある。ちなみに再版は伴侶である彼らが許さなかったようだ。市場では現存する部数も少なければ手放す人数も限られてくるという、希少価値の高い一品になっている。
『彼女の可愛らしさは、リオウ達だけが知ってればいい』
研究書としても価値のあるあの本への度重なる再版への懇願にきっぱりと北の隠者が答えたのはまだ最近のことだ。
……そう、あの本の一番の目玉は、まだ関係者全員が生きている、ことだろう。
魔力の保持量が非常に高かった彼らは、総じて人間としてはあり得ないほどの長生きをしている。救いの魔女の産んだ子がそれぞれ孫を成そうかという時間を経てようやく、彼らはつい最近、田舎へと隠居することを決めたらしい。ネットでのニュースのゴシップ欄にでかでかと書かれていた。
店主は店の外を確認する。あの子が鼻を赤くしていたのは伊達ではなかったらしい。ちらちらと雪が舞い始めたようだ。これは店じまいの合図だろう。
素っ気ない閉店の木札を店のドアに引っかける。最近お気に入りのミステリー、大衆公共学トンデモ本、昔から何度も読んだ詩集を片手で持ち、店の奥の奥にある一番居心地のいいロッキングチェアに腰掛けた。もちろん、紅茶のポット、コーヒーケーキ、ちいさな暖房装置にひざ掛けは忘れない。そう、手元の明かりも。
そうして、準備万端に整えられた至福の時間へと、彼は溺れるべく。
古い本の最初のページを、めくった。
はい。そういうお話でした。
読まれてわかるとおり、佳津子さんのエロパートがごっそりと抜けてます。
当たり前ですがどう考えてもお月さまの展開です。むしろ本来は全編がむこうで掲載されるはずでした。
しかし、しかしですよ。このお話、もう二年くらいかけて書いてるのです。エロパートまでこの調子だといつまでも終わんないよ、と悪魔の囁きが私を揺らしたのです。かといってムーンでは「そういうのナシ」の連載なんてルール違反でしょうよ。私の独自マイルールかもしれませんが。
そんなこんなで、実際にじゃあ佳津子さんがどうやって口説かれたのか、愛されちゃったのか。
は、そのうち、あと一年後ぐらいにお月様で投稿される予定です。予定。未定。
……未定です。済まぬ。スマヌ、