11・佳津子さんに戻りました。
「おはようございます。まだ眠いなぁ」
寝ぼけたような顔の女が鏡から自分を覗き込んでくる。心持ち腫れている瞼をそっと撫で、佳津子は鏡に向かってもう一度話しかけた。
「おはよう。いい天気ね」
言った後、これで鏡に向かって笑いかけてしまえば、佳津子基準で何かがアウトになる。だからそこまではしない。しないとも。
待って待ってまって? 鏡に話しかける時点でもうアウトだからね?
かずおならそう言うだろう。
だが、ここにはかずおはいない。
佳津子はそっと自分を見下ろした。またも着た覚えのない服。肌触りがよく、縫製のラインがほぼ無い。袖口や襟口に丁寧に処理されている、控えめで柔らかいレースやリボン。
かわいい物が好きな女性にとってはたまらないだろう、共布でのくるみボタン。
生地自体がこれもまた控えめのベビーピンクで愛らしい。
「うぅ……早く脱ぎたい……」
しかし佳津子にとっては、そんなふんわりアイテムなど意味が変わってくる。こんな、すぐにでも破れそうな寝間着なんぞうっかりと歩き出すことすら恐ろしい。家具に引っかけたらどうする。裾を踏んだら。というか、そもそも。
「……下着が、ないんだけど」
そこが気になって仕方ない。佳津子は眠るときでもキッチリとブラジャーをつけるタイプだ。決してなけなしの胸が流れてしまうからではないが、つまりその、なんというか締め付けられている安心感というか、そう、それだ。それがないと心もとないじゃないか。
そろりと尻に手をやる。滑らかだ。何一つ手のひらに障るものはなく…………下着がないということでもある。着ているものがネグリジェなので隠すべきものはすべて隠していてくれてるのだが。
尻から足のラインにくびれがなさ過ぎてあまりにもスルスルと下がっていったことには気が付かなかったことにしよう。うん。
佳津子は都合よく痛々しい事実を無視し、鏡から目を逸らした。後ろには 天蓋付きの一人用ベッド。天蓋! まったくもって、天蓋とはなんだ、と目を座らせる。
朝、目を開けた時にほんのちらっとだが自分の目が霞んでしまったのかと思わせた憎い存在だ。老眼怖い。ついでに言えば天蓋から下がっている帳を開けるときにも手こずらされた。着せられていたネグリジェしかり、指紋が付きそうなサイドテーブルの輝きしかり。佳津子にはこの部屋のレベルが身の丈に合っていないようだ。
そっと太もものあたりで裾を持ち上げる。もう少し年が下だったら。少女だったら、夢が見られた仕草だ。ほら、眠れる森の美女あたりが似合いそうじゃない?
佳津子はきゅうっと口角を引き上げて、今度は部屋のぐるりを見渡す。ストライプ模様のライトグリーンの壁紙、白い木枠に嵌められた掛け金のないガラス窓は腰高だ。外の景色はものすごく見たいがこんな格好なので近づく勇気がない。二方の壁にはビターチョコレート色のドア。取っ手は鈍い金色で、外国そのもの。
差し出した足は裸足で、けれどベッドの周りにはスリッパというか履物らしきものはなかった。それで腹をくくり、ネグリジェの裾は持ち上げたままでドアの方へ移動する。サイドテーブル、鏡の付いている……なんだっけか、アレだ、鏡台。クローゼットに書き物机。
家具の多い部屋だ、と佳津子は判断する。あからさまに女性向けである、とも。
手をかけた扉には鍵がかかっていなかった。開けてみるとそこは水回りで、洗面台とトイレ、小さな、けれど個室の風呂がある。バスタブはほどほどに深い。
白、金、クリーム、ペールブルーにミントグリーン。
色彩はどれも上品で、しかして壁紙やモチーフに花の絵柄などは驚くほどについていなかった。品のいいホテルに来たような感想だ。
洗面台の蛇口をひねる。待つほどのこともなく適温の湯が流れてきた。面白くなって、今度は風呂場の蛇口をひねる。同時に、ぎゃっと叫んだ。
「うぅぅぅ。またやった…………」
慌ててコックを閉めて頭を振る。しずくが飛び床を濡らした。寒い。
「やることなすこと寒すぎる……」
もうすぐ三十の女のやることかとため息を吐き、とりあえずネグリジェを脱いだ。意図してでなく頭から水をかぶったせいであちこち服が濡れている。とっさに頭を服で拭いて、さらに溜息を吐いた。
「人様の服で頭を拭くか……やばいよ駄洒落だとしても笑えないレベル」
その時になってようやく、忙しないノックの音に気が付いた。ここのドアではなく、もう一方のドアを叩かれていたので気が付くのが遅れたのだ。顔を上げ、はいと言ってしまった後で自分の現状に気が付く。慌てて、濡れたままの服をもう一度、頭からかぶった。
くしゃくしゃになってしまった寝間着を、どう取り繕おうかと焦っているうちに洗面所のドアが開く。
「非礼で申し訳ありません、佳津子さまが叫ばれた気がいたしまして、……申し訳ありませんでした」
初対面の、知らない人から頭を下げられたことはあるだろうか。それも名前を呼ばれながらも本当に、ごめんなさいと言わんばかりに。
佳津子が事態を把握できずにぽかんとしている間に、ドアから入ってきた女性はてきぱきと佳津子にタオルを渡した。ふわふわだー、と感動している間に新しい部屋着を腕に掛けてスタンバイした彼女が、また違うタオルをもってして佳津子の頭を拭く。
い、いやいやいやいや。
挙動不審に小刻みに足を揺らす佳津子は、たぶん女性から逃亡したいのだが。目の前の彼女にはそんな隙が見当たらない。おたおたしていると、さっさと濡れた寝間着を取り上げられて、ブラジャーではないものの胸部への下着を着せ付けられた。……なるほど、と佳津子は納得する。
コルセットに近いが、あれほどには締め付けないようだ。しかし、肉を寄せて上げる目的は一緒らしい。つまり豊かな胸で魅せる文化があるということだろう。
色はペールピンク。使用レースは装飾が過多だがアウターに響かない。その点も佳津子の推測を後押しする。
ドロワーズと形容できる下穿きは佳津子の知っているそれよりも格段に凹凸が少ない。コルセットもどきしかり、ショーツもどきしかり。
そう、結局のところ、佳津子が想像するよりもこちらの服は体のラインを出すわけだ。
目の前の彼女は、『ザ・メイド』みたいな恰好をしている。
寝間着よりは心持ちスポーティーな部屋着は、これもワンピースタイプだった。いったいどこから趣味を悟られたのか、レースもくるみボタンもない。シンプルかつ色味もくっきりと……認めてしまえば、この部屋の内装や雰囲気からは浮きがちだ。
ただ、部屋着なのにいい値段がしそうだよな、と佳津子は踏んでおく。ふわふわのタオル、金のかかってそうな内装とくればこちらの部屋着もそうあっておかしくないだろう。実際、佳津子が自分の普段着にしているシャツとジーンズより生地が上物でデザインがしゃれている。
やっぱりこれも汚せないよ、と結論付けてから佳津子はきゅうっと眉をしかめた。
ところで私、どうしてこの人に服を着せてもらってるの? どうしてこの人は、丁寧に作った蒸しタオルを差し出してくるの?
「あら、お顔を拭かれるのはお好みではありませんでしたでしょうか?」
どこか困ったような涼やかな声に、佳津子はなおいっそう困惑する。いいえ、ありがとうございますとどうにか笑って受け取り、気持ちのいい温度にごしごしと顔を拭き……速攻で奪われた。唖然とする佳津子をよそに、にこやかに笑ってくれるメイドさんはそれ以降、決して佳津子にタオルを渡すことなくぽんぽんと優しく頬を叩くようにしてくる。
…………つまり、私、自分の面倒も自分で見られない、って判断されたんだ。
かっと頬に血が上るのがわかった。うろうろと目をさまよわせ、羞恥心で身を焼く。
良く考えれば、悲鳴を上げて頭から水をかぶるような女がもたもたしていたわけで、さらに言えばおはようの言葉すらもありがとうもまだ、ぜっんぜん言えてないし、女性らしい仕草も何一つできてないわけで……。
いやだ、恥ずかしい。
佳津子はふるりと震えて硬直した。もう、こんな身の丈に合ってない場所からは丁重に逃げ出した方がいいよ、絶対。なんていうかさ、もっとこう、下品な場所の方がいい。
いたたまれない、と身を縮める佳津子は理解していなかった。メイド、つまりコーリーンの屋敷に使える侍女頭であるところのエリーの視線の意味を。
『あらあらあら、このくらいのお世話でそんな赤くなってほんとにかわいらしい。旦那様の趣味はこういうのだったわけね』
およそ決まった相手もなく、もちろん屋敷に連れ込む女性すらも皆無のまま年齢を重ねていく主人にちょっとした焦りを積もらせていたエリーの思惑がこの後、どういう暴走を見せるのか。
佳津子とエリーは、お互いに何も言わないままに、ずれ切った結論を抱いた。