1・寝てました。
新しいお話です。皆様の時間つぶしになれれば私の幸せ。
全17話くらいです。
なんだか妙に寝苦しくて喉の奥で唸った。暑い。
9月に入ってもう半分が終わったというのに残暑がまだキツイせいで、佳津子の部屋ではこの時期でも最高温度に設定した4時間タイマー付きクーラーと微風の扇風機が一晩中はたらいている。
昨夜にしたってスイッチを切った覚えはないんだけどなぁ、なんて、もぞもぞと枕元のエアコン用リモコンを寝ぼけながら手で探った。
扇風機が送り込んでくるはずの風が来ない。体にまとわりついてくるはずのタオルケットの肌触りも、感じられない。
ぼんやりと、寝ぼけた頭のどこかで不審に思う。
佳津子は普通の事務系OLだ。土日は完全に休日扱い、平日だって基本的に18時くらいを定時とする働きぶり。昨夜は金曜日だということもあっていつもの週末のように、ちょっとだけ夜更かしをした。年には勝てないとか一人ごちつつ寝て、そして。
まだ眠り足りない、というか上手く体が動かないこの感覚から言えば、今はまだ明け方あたりだろう。それなら、部屋が寒いことはあっても暑いことはない、はずなのに。
寝返りをうとうとして足をぶつけ、もう一段階、不審のレベルが上がる。
手を伸ばせば壁にぶつかり、目を閉じたまま反対側にも同じように伸ばせばまた、壁にぶつかった。
いやいやいやいや。壁にくっつけておいてあるベッドで、どっちに手を振り回してもぶつかっちゃうとか、ある筈ないでしょ。
さすがに見過ごせない違和感に身体を起こしてみる。背筋が完全に伸びきる前に頭をぶつけた。全然予想してなかったせいで、普通に打ち付けた時より痛い。
反射で目をあけつつ額を押さえて、そこで気が付く。
目を開いてるはずなのに、一切の光が、入ってきてない。
けく、と佳津子の喉が鳴る。声を、悲鳴を、無理やり飲み下したような音だ。焦るな、と自分に言い聞かせながら彼女は両方の手の平で周囲を探る。布団の代わりに柔らかいクッションが敷き詰められているような感触の床はどこまでも平ら、ではなくて、佳津子の身長よりも上下に靴のサイズ一個分くらい余裕を持って四方に立ち上がる壁に変わった。その壁にも、床と同じように同等の柔らかさで詰め物をされた布打ちの感触がある。
満足に座ることができなかった天井の高さからすれば、きっとこれは箱の形の何かだろう。その何かはナニかって、さっき佳津子が頭を打ち付けた板を触ったときの、上質な木肌の質感からすると。
もしかしてココ、お棺の中、なんじゃない、の?
背筋がぞくりとした。何度か生唾を飲み、それから。
最初は、小さい声しか出なかった。恐怖が喉を締め付けて、息さえろくに出来なくて。
でもすぐに、自身の声と恐怖に追いかけられて出す声が大きくなった。
ここから出して、誰か助けて。出した声が内張りされた布地に吸い取られるのか、耳に障らない分、加速度的に声は大きくなる。
もはやヒステリーを起こし、金切り声で叫んでいた。叫んだってどうにもならない。それは知っている。それでも、それでも。
叫びつつ、こういう時に特有のどこか冷静な頭の隅で、こんなに大騒ぎしてるのにまだ誰か来ないのかな、なんていらない考えが頭をもたげる。
ねぇ、どうしてまだ、誰も来ないの?
こうまでうるさく騒いでる自分のところへ、なぜ誰も来ないのかを考えた瞬間に混乱は半狂乱のレベルへ進化する。だって家にいたままなら、そろそろ誰かが来るはずなのだ。
家族が今夜に出かける予定なんて聞いてない。
眠りの浅い年寄りとの三世代同居。――ちなみに三世代目が佳津子になる。――安普請の4LDK。騒音は横より上下に響くものだ。階下にはこの騒ぎが伝わらないはずがない。なのにまだ誰も様子を見に来ない。
去年に亡くなった、父方の祖父の時のがらんとした通夜の光景が脳裏に浮かんだ。不吉なその映像を振り切るように手の平でまた柔らかい横板を叩きはじめる。
ねぇ、まだ生きてるの、助けて、ここから出して。
後先を考えない大声のせいで喉が一気に荒れていく。無茶な発声、暴れてることでの酸素消費。
パニックが収まらないことで更に混乱させられる、悪循環。
……音もなく前触れなく一気にその空間の蓋が開いたとき、彼女はまだ惰性のままに叫び続けていた。滂沱と目から流れる液体のせいもあり、ふわりとあたりに満ちるほの暗いオレンジを知覚するまでにいささかの時間がかかる。
真っ暗闇でないことがどれだけありがたいことか、自分が現代人だということをこんな形でイヤというほど思い知らされた気分だ。
目の前が翳った気がして瞬きを何回か。それで今のが気のせいじゃないことが分かった。
目線を上に向け左右に振る。背の高い人影が見えた。逆光だし薄暗いしで顔まではわからない。
それでも、シルエットとしては、人だ。
私きっと今、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔なんだろうなぁ、と、佳津子の中でぽやんとした感想が生まれてすぐに消えた。何の気なしにちらりと見た指先には血の出ていない爪がない。木箱のすぐ横に転がっている蓋の内側についた、控えめに表現したところでホラーめいたとしか言いようのない掠れた血の筋が生々しかった。
佳津子が閉じ込められていた箱には――いいや、そろそろ正直になるべきだろう。どうみても彼女にはこの箱は棺桶に見える――ご丁寧なことに明るめの色のリボンが掛けられていたらしい。蓋に引っかかって一部が見えている。リボンと判断したのはいつか見た外国の映画のせいだ。棺に、色とりどりで彩色された布をかける風習は日本にはない。少なくとも佳津子の知る範囲ではない。だが知識はある。……こんな木製の棺なんぞ、日本以外に存在するのか知らないが。
滑らかな木肌の蓋。見る限りの側面には無彩色だが凹凸の激しい彫刻。
おいおい、洋風なのか和風の棺なのかどっちなんだよ。生来の突っ込み気質が頭をもたげ、あっという間に言葉にする気が失せた。
さて、さて。……なんていうの、こんな場合。
もはや叫んでないにしろ、佳津子も、どうにもパニックから回復はしていないようだ。傍に立つ男にどう言おうかと見上げてみれば、彼のほうも荒く息を吐く佳津子の顔を見てはいるものの、認識は出来てないようす。
この状況で、これ以外に言うべき言葉なんてない。
勇気を出して、たすけて、と声をこぼした。
すぐに思い直し、おぼつかない発音で、へるぷ、みー。と続ける。他の言語で、助けて、なんてこれ以外は知らないが、この単語なら、もはや世界で共通だろう。通じないとは思えない。
答えは一気に険しくなった男の眉間。
……えぇぇぇぇぇ。
佳津子は、男の非情さというか無関心さというか、ちょっと日本人なら考えられないリアクションに戸惑って心の中だけで疑問符を垂れ流す。
うーん。……っつかさ、今、ふっかーい眉間の皺だけでなく、あからさまに舌打ちされた、よね? さっきの音ってさぁ?
…………えぇぇぇぇぇぇ。
こういう展開はちょっと、想像してなかった。日本人ならもちろんのことだけれども、現代人というべき最近の人なら、映画でも小説でも、相手が男性ならなおのこと、すぐに何事かを話しかけてくれて、ヒロイン――うん、配役なら通りすがりのその他大勢あたりが妥当な自分のわりに図々しい言い方だった。えーと、困ってる女性、くらいにしておこう――を、楽な状態にさせてくれるものだと、そう、いつの間にか悪い意味で漫画や小説めいた刷り込みが思考に浸み込まれていたらしい。まったく、若い女の子だったらそんな展開もある、かもしれないけども。
そんな年でも、ないくせに。
現金なもので、すぐに助けがもらえないのならと涙腺は勝手にまた働き始めた。視界がもう一度ぼやけはじめる。それがわずらわしくて瞬きする。
つるつると頬を雫が流れていった。