08
日が沈みかけていた。
乾いた岩だらけの地面を覆う絨毯のような芝やまばらに生えた低木は、今は西日に照らされ黄金色に染まっている。
その只中に第4基地を擁する町、アザレアはあった。
決して大きいとは言えないその町は、軍人や基地で働く者たちの家族が基地の近くに移り住んできたのが始まりだった。
軍のお膝元なだけあって治安も良く、多くの町と町との中間地点という立地ゆえにアザレアは物流の拠点、または中継地点として重宝されている。
今もまた、長い丸太を山積みにした大型トラックがアザレアへと到着した。
トラックはすぐには目的地に行かず、宿やレストランの集まった町の中心部近くで一度停車した。
助手席が開き白いシャツに茶色のワークパンツ姿の青年が、高い座席から飛び降りた。
アンリだ。
「兄ちゃん。」
運転席から声をかけられ、アンリは振り向いた。
運転手は日焼けをした体格の良い壮年の男だった。
「これ持ってけ。」
そう言って男は小さな包みを投げて寄越した。
包みは放物線を描いてポンとアンリの手の中に収まる。
少し開いて中を覗くと、数切れのサンドイッチが入っていた。
「体に気をつけろよ。」
「サンキュ、おっちゃんもな。」
アンリは軽く手を上げて礼を言い、助手席のドアを閉めた。
男も最後に笑顔を残し、再び車を発進させるとその大きなタイヤで豪快に砂埃を上げながら去っていった。
アンリはトラックが見えなくなるまで見送ると、夕暮れに染まるアザレアの町を見回してみた。
一日の仕事を終え家路につく人が行きかう通り、食堂やパブは夕食をとろうとやってきた人々で賑わいつつある。
何も変わらないアザレアの風景。
ここは第4基地で数年を過ごしたアンリにとって馴染みの深い町だった。
離れてまだ数ヶ月しか経っていないが、ひどく懐かしく感じる。
週に1度の休みの日にはよくカイルや他の整備士仲間と連れ立って遊びに来たものだ。
しかし今は感傷に浸っている暇は無い。
ここまでは順調に来たが、だからと言ってここも安全ではないはずだ。
アンリは暖かな光を避けるように第4基地へと向かって歩き始めた。
アザレアは第4基地の最寄町、と言ってもここから基地までは歩けば3時間はかかる距離だ。
普通は車やバスを使うのだが、今のアンリには車なんて無いしバスももう最終のものが出てしまった後だ。
ヒッチハイクはもう使えない。
こんな時間に車を捕まえてまで軍の基地へ行くなんて一体何の用なのかと怪しまれてしまう。
つまりアンリにはどんなに遠かろうと、もう歩いていくと言う選択肢以外残されていなかった。
(…まぁ、普段の訓練に比べたら楽な方だ。)
アンリはそう自分を励ましながら、町の外れまで来てからリュックに丸めて入れておいたジャケットを取り出した。
パイロットの制服であるこのジャケットで身元がバレて面倒なことになるのを避けるために、ヒッチハイク中は脱いでいたのだが、日が落ちてくると空気は急激に冷えてくる。
冷えは行軍の大敵だ。
アンリはジャケットを羽織り前をしっかりと閉めた。
第4基地への道はきちんと舗装されているわけではないが、重い車両が通ることが多いため自然と道は固く均され歩きやすくなっている。
丈の低い草原の中、白い蛇のように伸びる道を、アンリはよしと気合を入れて黙々と歩いていった。
しかし歩けば歩くほど、アザレアの暖かな灯りから遠ざかるほど足下から陰鬱な気分がアンリを絡め取ろうとした。
ヒッチハイクで乗せてもらった車の中にいた間は怪しまれないように振舞うことに気を回していたおかげで考えずに済んでいたことが、1人きりになった今、否応無しにアンリの頭の中で渦巻いていた。
加えて刻一刻と暗くなる空はアンリをますます心細くさせた。
アンリが逃げなければならない相手は軍、つまりこの巨大な帝国だ。
そんなもの相手に何の力も持たない小僧1人が逃げ切れるものだろうか。
逃げると言ったってどこにだ?この大陸は遍く帝国が支配している。
アンリは森の中で倒したはずの男にまだ後頭部に銃を突きつけられているような錯覚を覚えた。
ぞわりと背筋に寒いものが走る。
しかしどれほど不安で先が見えなくとも、敵の懐へ飛び込むリスクを負ってでも、アンリは第4基地へ行くしかない。
そこに希望があると、今は信じるしかなかった。
第4期地に着くころには日はすっかり沈み、丸く膨らみ始めた寝待月が星をばら撒いたビロードのような夜空にぽっかり浮かんでいた。
基地に忍び込むのはアンリには容易いことだった。
何せ3年間をこの基地で過ごし、時に悪友と宿舎を抜け出してはスリリングな遊びに興じていたのだ。
警備の薄い場所も抜け道も、誰より熟知している。
そしてアンリは誰にも見つからずに、整備士の主な仕事場である格納庫に辿り着いた。
しかし業務時間はとっくに過ぎていて、定時で上がって酒を楽しむが日課である整備士達は誰も残っていない。
もちろん格納庫にもしっかり鍵はかかっているが、勝手知ったるアンリにはそこへ進入することなんて第5基地の拘留室を抜け出すよりもずっと簡単だった。
格納庫の地面から10cmほどの場所には人が1人やっと通れるほどの窓が左右にいくつか並んでいる。
本来これは風を通すためだけのもので、ここもやはり鍵がかかっているが、実は左の奥から2番目の窓は鍵が壊れていた。
足下の小さな窓のことなど普段は誰も気にも留めないため、アンリがいた時からずっと修理もされずに忘れられている。
アンリがここを去ってもう数ヶ月経つが、やはり今も鍵は壊れたままだった。
アンリはそっと窓を開けるとまず最初にリュックを中に放って、その後ほふく前進で音を立てないように窓に頭を突っ込んだ。
決して使いやすいとは言えない入り口を苦労しながらくぐり、すっかり体が中に入るとアンリは窓を元通りに閉め、リュックを拾った。
格納庫の中はガランと広く、上の明り取りの窓から月の光が差し込みぼんやり明るい。
庫内には同じ型の戦闘機が10機ばかり並んでいて、中にはアンリがよく整備した愛着のある機体もあった。
アンリはまるで久しぶりに会った旧友の肩を叩くように、その機体の腹に触れた。
身に罪の覚えは無いと言えども、まるで本当の犯罪者のようにこそこそ隠れて逃げているアンリをこの機はどう思うだろう。
そう考えると何だか少し悲しいような気分になって、アンリは眉を下げた。
もちろん戦闘機が何かを考えたり感じたりすることなんて無いのはアンリも分かっているが、いざ馴染みの機体を前にするとそう思わずにはいられなかった。
いや、本当は戦闘機なんかじゃなく、この機体を弄っていたあの頃の自分を機体を通して見ていたのかもしれない。
…いずれにしても、考えても仕方の無い事だ。
それより今は少しでも体を休めたい。
暗殺、逃亡、不法侵入。
朝からいろんなことがありすぎてアンリは心身ともにクタクタだった。
いや、朝からどころか第2基地を出てからずっと、アンリは非日常に晒され続けている。
アンリはまともな休息を必要としていたが、生憎ここは格納庫、柔らかいベッドなどあるはずもない。
アンリは物置き場から使われない飛行機に掛ける埃避けの布を引っ張り出して、リュックを枕に寝ることにした。
布を体に巻きつけ、道具を収める棚の陰に寝床を決めてそこに丸くなる。
布もリュックも寝具にするには硬すぎて、とても寝心地が良いとは言えない。
それでも疲れていたアンリはすぐに眠りに落ちたのだった。