07
まだ日も昇りきらない頃、アンリは手錠をはめられ追い立てられるように護送車の後ろに乗せられた。
何か言うヒマも無くバタンと乱暴に扉が閉められ、男たちが外で何か話すのが聞こえた後、運転手が乗り込み車は発進した。
見送りはいなかった。
護送車の後部は上の方に高さ20cmばかりの明り取りの窓があるだけで、景色などは見えはしない。
出入り口は後ろの大きく開く扉だけ。それも今は固く錠がおろされている。
外界から隔絶された車内でアンリは考えた。
リサやフリードリヒ、カイルたちはアンリが軍法会議にかけられると聞いて、それならそこでアンリの無実は証明されるだろう、もう安心だとゆっくり眠っているのかもしれない。
薄情な奴らだ。
それなら一言心配要らないと声をかけに来てくれてもいいだろうに。
それとも、もしかしたら彼らはアンリが今ソラリナへと運ばれていることなど知らないのかもしれない。
アンリがソラリナに到着する頃になってやっとアンリがいないことに気付くのだ。
だがもし、それも違っていたら?
もし彼らが上層部に丸め込まれ、アンリが有罪だと信じてしまっていたら?
(…んなワケあるかよ。)
アンリはチラついて離れない悪い未来を見ないようにきつく目を閉じた。
車が石でも踏んだのかガコンと揺れ、アンリは背中に隠したもののことを思い出した。
昨晩あの怪しい男―ラルが寄越していったデリンジャーだ。
昨日拘留室に入れられる前に銃もナイフも没収されていたので、それ以後にボディチェックをされることはなかった。
だが、本当にこれが必要になるときが来るのか?
さっきは運よくバレなかったが、ソラリナに着いたら必ず一度はボディチェックがあるだろう。
その時アンリが武器を隠し持っていたことがバレたら、事態はますますアンリに不利になる。
それでもこのデリンジャーを手放せないのはラルの言葉を疑いきれないからだった。
ゴトン、とまた車が揺れた。
車が揺れるたびにデリンジャーが背中に押し当てられ、その存在を主張する。
弾は一発とラルは言っていた。
あの後こっそり確認してその言葉が真実だったのも知っている。
アンリの射撃訓練の成績は悪くなかった。だが人を撃ったことは、まだない。
(もし…もしも本当にこれが必要だとして、その時本当に俺はこれを使えるのか?)
ガタンガタン、ゴトン。
車が一際大きく揺れ、アンリは座席から転がり落ちそうになった。
悶々と思い悩んでいるうちに第5基地はもうかなり遠ざかったが、どうやら随分と道の悪い所を走っているらしい。
アンリは、もう日はとっくに昇っているはずなのにさっきより車内が暗いことに気付いた。
不思議に思って窓を見上げると、うっそうと茂る木々が日光を遮りガタゴト揺れながら走る車のスピードに合わせて流れていく。
第5基地からソラリナまでの道を知らないアンリは、もちろんどんな場所を通るのかなど知らないし、運転手が護送中の容疑者に親切に教えてくれることもない。
アンリは立ち上がって狭い窓に顔を近付け、できるだけ外をよく見ようとした。
窓のすぐ横を木の幹が通り過ぎ、倒木や背の低い植物の葉が車体を擦る音も聞こえる。
こんな細い道を通るのか?
アンリは怪訝に目を細めた。
ふと、視界の端、木々の切れ間にキラリと光る物が見えた。
それが一体何なのかをよく見ようと目を凝らしたその時、車は急停止しアンリはバランスを崩した。
「うわっ」
手枷をはめられているせいで何かに掴まることも受身を取ることもできず、アンリはそのまま床に体を打ち付けるようにして転倒した。
「いっつつ…」
痛みに悶えごろりと転がりながら、アンリは運転席のドアが開閉される音を聞いた。
すぐにガチャンと音をたてて護送車後部の大きな扉が開けられる。
急に差し込んだ外の光の眩しさにアンリは目を細めた。
扉を開けたのは護送車を運転していた軍服の男だった。
逆光で顔はよく見えない。
「出ろ。」
男はくいと顎をしゃくり短く言った。
アンリがのろのろと起き上がり車から降りると、男はその緩慢な動作に苛立ってアンリの襟首を掴み、引っ張るように歩かせた。
無理に引っ張られ足を縺れさせそうになりながら、アンリは目だけで周囲を見渡した。
窓から見たのと大して変わらない森。
車は木々に囲まれた小さな湖の畔に停められていた。
さっき窓から見えたのはこの湖の水面に反射した光だったらしい。
男は水際までアンリを連れてくると、そのままアンリを突き飛ばした。
いきなりの後ろからの衝撃に反応しきれず、アンリは湿った土の上に膝をついた。
乾ききらない朝露がじわりとアンリのズボンを濡らす。
何するんだと振り返って男を睨んでやろうとしたアンリの耳に、ジャキンと不穏な音が聞こえた。
――まさか。
アンリは膝をついたままゆっくりと後ろを振り返った。
肩越しに見える男は安全装置を外した銃を手にしている。
そしてその凶悪な銃口は、まっすぐにアンリの頭を捉えていた。
「な……っ」
瞠目したアンリを嘲笑うように男は肩をすくめた。
「運が悪かったな、坊主。」
早鐘のようになる心臓。
その勤勉なポンプは冷えた血液を体中に送り、みるみるうちにアンリの指先まで冷やしていく。
ラルの言うとおりだった。
暗殺されるんだよ、お前。
昨晩のラルの言葉がドクドク煩い鼓動の裏側から聞こえてくる。
でもなんで。暗殺される理由なんて、アンリには…
「お前は見ちゃいけないものを見ちまったんだ。」
アンリが聞く前に男は自分から喋りだした。
こいつはこういう役目になれていないのかもしれない、とアンリはふと思い付いた。
男は興奮気味で声も少し上ずっている。
さっさと引金を引いて仕事を終えてしまわないのもその証拠だ。
アンリをもはや抵抗する術を持たない非力な子供と侮っている。
ならば、出し抜けるかもしれない。
男は知らないのだ。アンリが銃を隠し持っていることを。
冷えきった体はアンリを冷静にさせた。
そしてアンリは慎重に言葉を選び機を伺った。
「空の…浮き島のことか……?」
「あぁ?何だそれ?お前が何を見たかまでは知らねえよ。」
銃口は常にアンリに向けたまま、男は嘲笑に肩を揺らした。
恐怖でアンリの頭がおかしくなったのだと思ったのだろう。
しかし、見てはいけないものと聞いてアンリが真っ先に思い浮かべたのはあの不思議な島と少女のことだった。
おそらくアレ以外にありえない。
「ま、何にしたって遭難した時に死んでたはずの命だ。俺が在るべき所へ還してやるよ。」
チャキ…と背後で激鉄を上げる音がした。
男は本当に撃つつもりだ。
命の危機に瀕し、アンリは総毛立ち、全身の神経は研ぎ澄まされた。
ここで死ぬのか?冗談じゃない。死んでなんかたまるか!
男が引金に指をかけたのと同時にアンリはぐんと身を沈めた。
その鋭い眼光が獲物を捉える。
それはほんの一瞬だった。
男が反応するより早くアンリの左足はヒュンと風を切って振り上げられ、銃を握る男の手を蹴り払った。
「なっ…!?」
銃は男の手を離れ宙に放り出された。
アンリはすぐに蹴りの勢いを利用して振り返りながら立ち上がり、同時にベルトに挟んだデリンジャーをベルトから素早く抜き取った。
「動くな!」
「ひっ!」
ガチャン、と2人の傍らにアンリの蹴り飛ばした銃が落ちた。
形勢は逆転した。
両手で構えたデリンジャー。
弾は一発しかないが、この男一人の命を奪うには充分事足りる。
つい数秒前まで完全にアンリの命運をその手に握っていると疑わなかった男は、今やその表情から余裕気な笑みは消え失せすっかり蒼白になっている。
アンリを宥めるためか抵抗の意思無しと示すためか、胸の高さまでそろそろと上げられた男の両手は情けなく震えている。
「お、おい、やめろ…こんなことしてタダで済むと思ってんのか……」
「…どのみち殺されんだろ。」
じりじりと男が後ずさる。
アンリは男との距離を一定に保ちながら男を追い詰めていった。
そしてついに男の腿の後ろにトン、と護送車のボンネットにぶつかった。
逃げ場を無くした男はヒッと悲鳴をあげ、ガタガタと震えだした。
「手錠を外せ。鍵、持ってるだろ。」
「わ、分かった…分かったから…!」
男は慌てて胸ポケットから小さな銀色の鍵を1つ取り出した。
向けられたままの銃口に怯えながら、震えた手で何度も失敗した末に鍵穴にそれを差し込む。
カチャンと軽い音とともに、アンリの手首から重たい手錠が落ち、アンリの手はやっと自由になった。
役目を終えると男はすぐにアンリからできるだけ離れ、元のように手を上げた。
「後ろを向いて、車に手をつけ。」
男は後ろを向いた瞬間にアンリに撃たれるのではないかと怯えたが、結局は素直に従った。
後ろを向いて車のボンネットに手をついた男の目には、フロントガラスに映ったアンリの姿が見える。
アンリはデリンジャーを軽く握りなおすと、そのグリップを男の後頭部に振り下ろした。
鈍い音と男の短いうめき声の後、湿った地面に男が倒れた。
アンリに頭を殴られ完全に気絶している。
アンリは外された手錠を拾うと男の手を背中に回させ拘束し、鍵は茂みの中へ投げ捨てた。
「………はぁ」
詰めていた息を吐くと一気に冷や汗が噴き出した。
何とか上手くいったが、1つでも失敗していたら死んでいた。
いや、今生きているほうが不思議なくらいだ。
初めて自身の死を目前に感じ、アンリの心臓はバクバクと破裂しそうなほど暴れていた。
アンリは手の甲で冷や汗を拭い、生きていることを確認するかのように頬に触れたり手を握ったり開いたりした。
そして確かに生きていると分かるとデリンジャーをジャケットの内ポケットにしまい、先ほど蹴り飛ばした男の銃も拾って安全装置を掛けベルトに挟んだ。
とにかく、逃げなくては。
暴れる心臓を宥め、冷静さを取り戻した頭の中に浮かんだのはそれだった。
見てはいけないものを見て軍に生かしておけないと判断されたのならば、戻るわけにはいかない。
どうすればいいかは分からないが、とにかく今は軍に見つからないよう逃げなくては。
アンリは車の助手席側のドアを開けた。
そこにあったのは大きな麻袋が2つと頑丈そうな長いロープ。
一体なぜこんな物を積んでいるのかと不思議に思ったが、アンリを殺したあと遺体を湖に沈めるためだと気付きゾッとした。
いや、今はそんなことに一々ショックを受けている場合ではない。
アンリは使える物を探して車内を物色した。
10分後、アンリは荷造りを終えた。
男の私物らしき白いリュックに、ナイフや懐中電灯、ラジオ、水、そして男のズボンのポケットから財布も失敬した。
大した額は入っていなかったがこの際贅沢は言えない。
最後にまだ起きない男を車の後部に放り込みドアを閉めた。
これで獣に襲われる心配もないだろう。
護送車には位置を知らせる発信機も付いているから、そのうちこいつの仲間が見つけるはずだ。
「さて、行くか。」
アンリは森の中にくっきりと残された車の轍を見た。
これを辿れば道に出られるはずだ。
そうすればそこを通る車に乗せてもらうこともできる。
目指すは第4基地。
アンリが3年間整備士見習いとして過ごした場所だ。
あそこにいる馴染みの整備士たちなら、アンリの力になってくれるかもしれない。
そしてアンリはでこぼこした轍を辿って、道とも呼びがたい道を歩き始めた。