04
アンリが隊から逸れてすぐ、他の機は乱気流を抜けた。
欠けた隊列を組んだ4機はアンリを探し周辺の空域を飛んでいた。
「005、005、聞こえたら応答しろ。005…」
同期の訓練生が絶えず無線で呼びかけているが、返ってくるのは雑音ばかり。
メンバーの心には次第に最悪の結末が過ぎり始めた。
「まさか…墜落したんじゃ…」
メンバーの1人がその不安をポツリと漏らした。
皆が思っていたことだったが言葉にするとより一層もしかしたらという気持ちが強くなる。
無線越しにその空気を感じ取ったフリードリヒは苛立ちを隠さぬまま通話スイッチを押した。
「不謹慎なことを言うな!墜落だと?あいつの飛行訓練の成績を知っているだろう!下らない事を言っているヒマがあったら探せ!」
「あ、ああ…悪い…」
フリードリヒはギリと歯噛みし目視でアンリの機を探した。
今にもあの雲の陰から、隊列の死角から現れて「わりぃわりぃ」と気の抜けた通信が入るはずだ。
そうに決まっている。
フリードリヒの剣幕に圧倒され、隊のメンバーはしばし黙ったが、彼と同じように考えている者はどれだけいるだろうか。
リサはフリードリヒの操縦する機の後部座席で成り行きを見守っていた。
一度ゆっくりと瞑目し、息を細く吐いて、通話スイッチに手を伸ばす。
「アーベル、これ以上の探索は非効率だ。一旦当初の予定通り第5基地へ向かう。」
「なっ…」
その言葉にフリードリヒは一瞬通話スイッチを押すことさえも忘れそうになった。
第5基地へ向かう?しかしまだアンリは見つかっていない。
リサの冷静な声が逆に彼を焦らせた。
「しかし大尉…」
「アーベル、落ち着け。ここで私達が闇雲に探すだけでは見つかるものも見つからない。第5基地へ行けば捜索隊を編成し、もっと大規模にシルフォンを探すことができる。…どうすることが奴の生存率を上げるか、分かるな?」
フリードリヒは返事を躊躇った。
なら自分だけでも残って引き続きアンリの捜索を―いや、それでは隊の監督官であるリサも残ることになる。
訓練生だけで残りの航路を行かせるのはリスクが高い。
他の機を残すか?アンリの生存を半ば諦めている奴に任すのか?
数秒の内にフリードリヒは考えを巡らせた。
そして通信ボタンを押す。
ただのボタンであるはずのそれがいつもより数倍重く感じた。
「……はい。第5基地へ、向かいます。」
「理解に感謝する。大丈夫だ、シルフォンは必ず見つかる。」
そしてリサは全機に指示を出し第5基地へと進路を取らせた。
隊の先頭であるフリードリヒ機も後ろ髪を引かれる思いでこの空域を後にする。
前部座席に座るフリードリヒには後ろのリサの表情は窺えない。
だから彼は努めて冷静に話をしていた彼女がどんな思いで指示を出したのかも知らなかった。
青空の下、4機の飛行機が北へと飛んでいった。
******
「立ち話も何ですし、とりあえず私の家に来てください。」
そう言われてアンリは半ば強引に少女の家に連れてこられた。
本当話などどうでもいいからさっさと飛行機を修理してしまいたいのだが。
連れてこられた家は先ほどアンリが上空から見つけた民家だった。
あの時目が合った人物も、おそらくこの少女だったのだろう。
「お茶を淹れてきますんで、どうぞおかけになっていてください。」
そう言って少女は犬と一緒にキッチンへと消えた。
1人ぽつんと残されたアンリは何気なく部屋をぐるりと見渡してみた。
少女の家は木と白っぽい石のアンリには見慣れない造りをしていた。
窓枠には少女が作ったらしいポプリがいくつか吊るされており、暖炉はあまり使っていないようだがキチンと手入れされていた。
しかしいずれもやはりアンリには、いや、大多数のアルトソラリナ国民には馴染みのない生活感を出している。
(落ち着かねぇな…)
早く隊に合流、もしくは第5基地に向かわなければという焦燥を抱えつつ、アンリはポプリの吊るされた窓から外を眺めた。
見えるのは小高い山と湖。
日の光に暖められた土草の匂いが風に乗って運ばれてくる。
少女はここが空の上だと言った。
もし仮にそれが本当だとすれば、上空4000mを飛んでいたアンリのすぐ足下に地面が出現したことの辻褄が合う。
…とは言え、あまりに荒唐無稽すぎて信じる気には到底なれない。
アンリがあの突風に煽られ内陸から海上へと飛ばされたというのも有りえない話だが、少女の話よりは遥かに説得力がある。
(…でも、ウソを言っているようには見えなかった。)
ここが空を飛ぶ島だとアンリに告げた少女の目はあまりにも、真っ直ぐだった。
いっそウソをついている様子だったなら、まだ自分の置かれた状況が推測しやすかったのに。
空に浮かんでいるという島、その島にある誰もいない軍の施設、そして不思議な少女と犬。
何が何だかサッパリ分からない。
「お待たせしましたー。あれっ、座ってて下さってて良かったのに。」
やがてポットと2つのカップを載せたトレイを持って少女が戻ってきた。
アンリが窓際に立ちっぱなしなのを見て、トレイをテーブルの上に置きアンリのために椅子を引こうとしたが、アンリはその前に自分で椅子の背もたれに手をかけた。
「いや、ちょっと外の景色を眺めてて。」
「ああ、良い眺めですよね。私も気に入ってるんです。」
少女は先ほどまでアンリの見ていた窓に目を向けて微笑んだ。
そして手際よく2人分のカップにお茶を注ぎ、1つを席に着いたアンリの前に静かに置くと自分も椅子に座った。
「申し遅れました。私はジョゼ。国の神事のお手伝いをさせていただいてます。」
「神事?」
予想していなかった言葉にアンリはカップを持ち上げようとした手を止めた。
国の神事と言うのは、アルトソラリナの政治の中枢である8つの省のうちの1つ神祇省が執り行う、れっきとした国務のことだ。
さきほど少女―ジョゼは軍のことはよく分からないと言っていたが、国務に携わっているということはやはり国の関係者なのだろうか。
(…あんまそんな風には見えねえけどなぁ。)
ジョゼはどこまでも普通の少女に見えた。
髪はふわふわ、動きはおっとりでどこか危なっかしい。
何も無いところでこけたりもしそうな、いかにも一般人といった雰囲気の女の子だ。
たかがお手伝い程度にも国の仕事に関わるような人間には見えない。
「あの、パイロットさんのお名前は?」
「え?ああ、悪い。ボーっとしてた。…俺はアンリ・シルフォン。パイロットっつってもまだ候補生で、正規じゃないけどな。」
つい考え込んでしまったアンリはジョゼに促され口早に自己紹介した。
その自己紹介を、正確にはアンリの名字を聞いた瞬間、ジョゼは瞠目した。
「シルフォン…もしかして第一帝国ご出身じゃないですか?」
丸くなった目を輝かせジョゼは身を乗り出した。
第一帝国、ジョゼほどの年頃の子がその呼称を使うのは珍しかったが、一帝方面や二帝方面などざっくりとした方向を表す時に使うことがあるにはあるので、アンリは特に気には留めなかった。
それより驚いたのはジョゼがアンリのルーツを言い当てたことだ。
確かに父方の祖先から受け継がれてきたこの家名は、旧第一帝国のとある地方特有のものだ。
と言っても、今のご時世そんなことに詳しいのはマニアックな民俗学者くらいなもので、それ以外の一般人にとってはただの少し変わった名字でしかない。
アンリを余所者と目の敵にする上官すら、名字のことなど知らないはずだ。
「いや、俺は生まれも育ちもソラリナなんだ。じいちゃんは第一帝国の生まれだったらしいけど。」
「ベルーデ村じゃないですか?」
「………当たり。」
「やっぱり!」
椅子から跳ね上がりそうな勢いではしゃぐジョゼとは対照的にアンリは驚きのあまり絶句していた。
ここまで言い当てられたのは初めてだ。
「ベルーデ村は私の故郷なんです!行商をしていた両親に連れられて小さい時に第三帝国の方に移り住んだんですけど…私の祖母の旧制もシルフォンだったんですよ!」
「へぇ、なるほど。通りで詳しいわけだ。驚いたよ。今時そんなの知ってる奴いないから。」
「そうなんですか?」
「ああ、そうだな。俺も祖父がそこ出身ってだけでベルーデ村には実際行ったことが無いんだ。」
そう言ってアンリはお茶を一口飲んだ。
飲んだ瞬間花の香りが口の中に広がる不思議な味だった。
ジョゼは自分のカップに角砂糖を1つ入れ、静かにかき混ぜた。
「……ベルーデ村を出たのは4つの時でした。それからカミツレという町に移り住んで、10歳の時に巫女としてここに召し上げられたんです。」
「………」
ジョゼは砂糖を入れたお茶に手をつけることなく、透き通る琥珀色越しのカップの底にじっと目を落としていた。
アンリは彼女が何となく察しがついたが、黙って話に耳を傾けた。
「あれから5年…1度も両親には会わせてもらえていません。お仕事をちゃんとこなしていれば、また会えるって約束だった…」
震える言葉尻。
ジョゼは顔をあげると縋るような目でアンリを見つめた。
「お願いです、アンリさん…私をカミツレに連れて行ってください。ほんの少しで良いんです。両親に一目会えたらすぐに戻ります!絶対に…アンリさんにご迷惑はおかけしません!」
「………」
それは15歳の少女の心からの切願だった。
アンリが親元を離れたのは14の時だったが、この少女はたったの10歳で親元から引き離されたのだ。
彼女の両親を乞う気持ちは想像に難くない。
しかし…
アンリはカップを置き、視線を下へ向けた。
「…だめだ。それは俺には叶えてやれない。」
アンリは沈痛な面持ちで、しかしキッパリとそう告げた。
ジョゼの顔を見ることはできなかった。
「れっきとした軍人でもないただの候補生が手を出して良い問題じゃない。そうでなくても元々、軍と神祇省の関係ってのは微妙なんだ。」
武力を司る軍と、信心をもって民の心に安寧をもたらす神祇省。
表向きは同じ国の一機関として協力し合ってはいるが、やはり争いを良しとしない神祇省と軍の間には見えない溝がある。
そしてそれは小難しい政治の問題だ。
飛行機や銃の勉強ばかりしてきたアンリが容易に首を突っ込める所ではない。
「…そうですか。」
少しの沈黙の後、ジョゼはぽつりと言った。
溢すように言われたその言葉にそれまでジョゼの顔から目を背けていたアンリはふと顔を上げた。
しかしジョゼはアンリがその顔を見る前にすっと立ち上がりそっぽを向いてしまった。
「ごめんなさい。会ったばかりの方にこんなワガママ言ってしまって…工具は格納庫にあるもの、ご自由に使ってください。」
ジョゼはそれだけ言うとアンリが何か言う前に奥の部屋に引っ込んでしまった。
テーブルの上にはジョゼの分のカップが手付かずのまま残っている。
ふとアンリはどこからか視線が注がれていることに気付いた。
見ればあのクラウドと呼ばれていた犬がアンリを睨むように見つめていた。
「…何だよ。」
アンリが呟くとクラウドはふいとジョゼの後を追うように奥へと消えた。
少し、可哀想なことをしてしまったかもしれない。
仕方ないとは思ったがあの犬の目がアンリの心に小さな罪悪感を芽生えさせた。
しかし連れて行くことはアンリにはできない。
早く第5基地に向かわなければならないというのも理由の1つではあるが、何よりも彼女の得体が知れなさすぎる。
この島が浮いているなどと言う言葉を聞いてから、アンリは注意深くジョゼを観察した。
神祇省の関係者と名乗った彼女は、言動を除けばごく普通の女の子だ。
だからこそ余計に分からない。
もしジョゼがいかにも胡散臭い人物だったら、アンリも彼女の話を与太話だと頭から切って捨てられるのに。
(…しょうがないよな。)
アンリの耳にジョゼの落胆あらわな声が残る。
それを掻き消すようにアンリは自身に言い聞かせた。
(しょうがない。)
そもそもアンリの機は1人乗りだ。
どうすることもできない。
アンリはカップに残ったお茶をぐいと一気に飲み干した。
花の香りのするそれはもうすっかり冷めてしまっていた。
******
格納庫には一通りの工具が揃っていた。
アンリはその中から基本的なものが一式入った工具箱とライトを1つ借り、操縦桿やフットペダルの動きを翼に伝えるワイヤーやロッドを調べた。
特に異常が見られないことを確認すると、念のためエンジンやプロペラも見た。
が、やはりこちらも問題は無い。
操縦が利かなくなるほどの強風に煽られたのだからどこか傷んでいてもおかしくないと思っていたのだが、見たところこのまますぐに飛ばしても問題無さそうだ。
アンリはホッとしたような拍子抜けしたような複雑な気持ちになった。
いや、気を抜くのはまだ早い。
さっさと第5基地へ向かわなければ、またフリードリヒになんと言ってドヤされるか分からない。
(いや、この場合おれは悪くないし。事故だからさすがにあいつも怒んねぇ…よな?)
帰還を喜ばれこそすれ責められる謂れはないのはずだが、どうしても小言を言われる未来しか思い浮かばいないのは何故だろう。
アンリは想像の中ですら口うるさい同期にうんざりしながら、工具を格納庫へ返しに行った。
元の棚にきちんとしまい、ついでに周囲をささっと箒で掃く。
他に何か弄ったわけでもないが、いつもの習慣で最後に格納庫の中をざっと見渡して異常がないか確認した。
「よし。」
小さく呟くとアンリはドアをくぐって格納庫を出た。
すると今整備したばかりの飛行機の傍に人が立っているのに気付いた。
ジョゼだ。
後ろで組んだ手をブラブラさせ、少し拗ねたように俯いて固く均された地面につま先で線を引いている。
アンリは一瞬足を止めたが、そのまま格納庫の勝手口を閉めジョゼのほうへ歩いていった。
「工具、ありがとう。」
「いえ…と言うか軍の物ですから、もともとアンリさんが自由に使っていい物のはずですし。」
さっき話していた時よりかなり小さな声だった。
やはり…というか間違いなく、連れて行って欲しいという願いが聞き入れてもらえなかったせいだろう。
仕方がないのだとは思いつつもアンリは罪悪感を感じずにはいられなかった。
ジョゼもまたそんなアンリの様子を感じ取り、気まずそうにぐりぐりとつま先で地面を掘った。
「第5基地へ行くんですよね?」
「え?ああ…。」
「そこならここから北東に2時間ほどで着きます。」
「あ、そうなのか…。悪い、助かる。」
アンリは素直に礼を言った。
ここに着く前にめちゃくちゃに飛ばされ方角も見失ってしまっていたので、それが分かるのはありがたい。
しかし、第2基地から第5基地まで1時間足らずの航行だったはずだが、それが倍ほどになってしまうとは酷く遠回りになってしまった。
そもそもアンリたちは第5基地へ向かって北北西に飛んでいたはずなのに。
ホッとしたアンリとは対照的にジョゼはより一層気分を落ち込ませた。
「じゃあ…もう行っちゃうんですよね。」
「あー、まぁ…そうだな。同期のやつらも心配しているだろうし。」
「……そう、ですよね。」
それだけ言うとジョゼは俯いたまま飛行機から離れた。
ジョゼだってアンリにも事情があって自分の願いを聞くことはできないのだということは分かっていた。
分かってはいたが、それだけで両親に会うことを諦めきれるほど大人でもなかった。
自分の態度がアンリを困らせていることも理解していたが、なんでもないフリをすることもできなかった。
ジョゼが飛行機から充分離れ、アンリはもういつでも出発できる状態になった。
「………」
アンリは口を開きかけて止め、何も言わないまま飛行機に乗り込んだ。
基地に着いたら自分からもジョゼが両親に会えるよう頼んでみてやる、そう言おうとして止めた。
もちろん本当に上司に掛け合ってはみるつもりだ。
しかし一候補生の頼みを上司が聞いてくれるかと言われればその可能性はかなり低い。
どうせまた落胆させるだけなら何も言わないほうがいいとアンリは思った。
ガルルルルルンとけたたましい音が静かな滑走路に響いた。
プロペラが高速回転し、ゆっくりと進みだす機体をUターンさせる。
目の前に広い滑走路が見えた時ふと横を見ると、さっきまで俯いていたジョゼが顔を上げてこちらを見ていた。
アンリは軽く片手を上げて口の形だけで再度「ありがとう」と言った。
伝わったかどうかは分からないが、ジョゼもそれに応えて小さく手を振った。
それを見たアンリは少し安心して再び滑走路へと視線を戻した。
滑走路を進むにつれて機体はどんどん速度を上げていく。
プロペラの回転する機首が徐々に持ち上がり、やがて前輪が地面から離れ、滑走路の端に差し掛かった所でアンリは離陸した。
アンリはそのまますぐに北東へは向かわず、機体を傾けて大きく旋回を試みた。
上空でこの島の全景を確かめようとしたのだ。
機体は旋回しながらどんどん上昇していく。
ふと、アンリはこの島を発見した時に感じた違和感をまた感じた。
この違和感は…そうだ、この島は。
「雲が…低い……?」
季節は秋だというのに、ここの空はまるで真夏の空のように低い。
どういうことだ。
(島は―)
アンリは島の様子を確かめようとした。
もうあの格納庫もジョゼの家も米粒ほどにしか見えないが、今なら島の端が見えるかもしれない。
そしてアンリが首を巡らせようとしたその時、左から殴りつけるような風が機体を襲った。
「うわっ…」
この島の上空へ押し流された時と同じだ。
またも操縦の利かなくなった機体に舌打ちし、今度こそ流されてなるものかとアンリは操縦桿を引いた。
整備の甲斐あって今度は正常に動く。
(よし、これなら…)
いける。
そう思った瞬間、いきなり目の前が真っ白になった。
雲の中に突っ込んでしまったのだ。
アンリは操縦ばかりに気を取られて周囲の確認を怠った自分に心の中で悪態をついた。
それでも操縦桿が動くのなら、まだ何とかする自身がアンリにはあった。
アンリは細く息を吐きながら自分を落ち着かせ、冷静に事に当たろうとした。
計器は正常に動いている。
ロットペダルも大丈夫だ。
あとは雲の外に出てしまえばこっちのもの。
アンリは今だ強く機体を揺さぶる風に機体が負けないよう慎重に角度を調整しながら飛んだ。
目指すは北東。
二眼式の防眩ゴーグルの奥でアンリのブルーの瞳が薄暗い雲の中を睨んだ。
“君の腕の良さは知っている。自信をもって飛びなさい。”
出発前にリサに言われた言葉が頭の中によみがえる。
リサに言われるまでもなく、アンリは自分の腕には自信があった。
整備だって第4基地のおっちゃんたちに3年間みっちりしごかれた。
飛行機の状態は完璧だ。
後は信じて飛ぶだけ。
アンリはぐっと操縦桿を握る手に力を込めた。
やがて飛行機の周囲を渦巻く雲の動きが速くなって、切り裂くように機体は雲の外へ出た。
ぱっと開けた視界にアンリは驚いて息を呑んだが、すぐに安堵のため息をついた。
青い空の下にはジョゼのいた島でも海でもない、緑の大地が広がっていた。
結局あの場所の正体は確かめられなかった。
アンリは空を見た。
秋の空は高く、やはりあの島で見た空とは違う。
(何だったんだ、あの場所は……)
アンリはしばらく考え、そしてやめた。
ここで考えても分からないことだ。
それより今は第5基地へ急がなければ。
フリードリヒたちはきっともうとっくに到着しているはず。
…いや、もしかしたら自分を探してまだ着いていないかもしれない。
(まあでも、カイルはいるだろ。)
カイルは他の候補生達と一緒に先に車両で第5基地へ向かっていた。
あまりに現実離れしたことを立て続けに体験したアンリは、何でもいいから日常を象徴するものに会いたかった。
今ならあの意地悪な教官の小言だって何時間でも聞いてやってもいいかもしれない。
(…いや、やっぱそりゃ無いな。)
取り留めのないことを考えながら、第5基地に到着する頃にはアンリはへとへとになっていた。