03
風でガタガタと軋む機体を何とか飛ばしながらアンリは雲で視界の利かない外を睨んだ。
頑丈とは言え古い機体だ。この嵐の中バラバラになったっておかしくはない。
とにかく何とかしてこの暴風域から抜け出さなくては。
状況は最悪だったがアンリの両手は操縦桿をしっかりと握っていた。
(とにかく機体のコントロールを取り戻さねえと……!)
風に煽られいつの間にか雲の中に入ってしまったアンリの機体は上から下からまるで殴りつけられるような風を受けていた。
このままでは機体がもたない。それだけは絶対に避けたい。
アンリは歯を食いしばって動かなくなった操縦桿を力いっぱい引いた。
「う、ご、けええ…っ」
血管が切れるかというほど力を込め頭に血が上ってきたその時、機体はポンと弾かれたように雲から出た。
それと同時に操縦桿もアンリのコントロール下に戻り、引かれるままにアンリの体側に倒れ機首を上向かせた。
「お?わ!うおわっ!!」
急に動くようになった操縦桿に咄嗟に反応できず、アンリは期せずして見事な宙返り飛行をきめた。
あわてて操縦桿を元に戻し、急に開けた視界に目を白黒させた。
「な、なんだってんだよ…。」
急に正常に戻ったことに拍子抜けしながらアンリはほっと胸を撫で下ろした。
さきほどまであれほど荒れ狂っていた風も今は大人しい。
「ここどこだ?どこまで飛ばされた?計器…ああちくしょうダメだ。いかれちまっている。」
現在地を把握しようと目をやった計器類はどれもぐるぐるとあらぬ方向を指していた。
こうなると頼りになるのは自分の目だけだ。
アンリは身を乗り出してアンリは身を乗り出してあたりを見た。
そこで初めて、機体のすぐ下に緑に生い茂る木々が見えることに気づいた。
「はっ!?」
アンリは驚いて反射的に高度を上げた。
どういうことだ?
確かにアンリたちは雲の上を飛んでいたはず。
それがいつの間にこんな森の木一本一本が見えるほど低い場所に?
アンリは自分の位置を少しでも明らかにしようと森の上空を旋回しながら下を見下ろした。
ざっと見、街らしきものは見えない。
なんてことのない森のように見えるがどこか違和感を感じる。
その違和感の正体を掴めないままアンリは森の終わりまで来た。
それと同時に急にキラキラしたものが視界に入った。―湖だ。
澄んだ空を映す水面、アンリはそのほとりに何か白くはためく物も見つけた。
あれは干された洗濯物―民家がある!
アンリはすぐに進路をその民家へ向けた。
飛行機は湖面に機影を映し波を立てながらぐんぐん民家へ近づいていく。
同時刻、民家の主は近づいてくるエンジンの音に気づき、ポプリを束ねていた手を止めた。
今日この音が聞こえるはずはない。
家主はポプリを籠に戻して湖側の窓に駆け寄り、身を乗り出して音の正体を探した。
足元に寝そべっていた大きな犬も気付いてそれに続く。
家主が空を見上げた瞬間、大きな機影が太陽を遮った。
民家の上空で旋回をしたアンリと、窓から身を乗り出した家主の少女。
それはほんの一瞬だったが、二人の目は確かに合った。
(人がいる!)
家主がいることを確認したアンリはどこか着陸できる場所を探した。
この飛行機にはフロートが付いていないから湖面着陸は無理だ。
どこか広くて平らで、長さのある場所は――
(さすがにあるわけないか…?)
そう思ってあたりを見渡すアンリの目に信じられないものが飛び込んだ。
一面緑の土地にいきなり現れた500mほどの固く均された茶色の地面に、脇には小さいながらも格納庫らしき物まである。
滑走路…のように見えるが…
(どうなってんだ…)
アンリは不審に思いながらも滑走路らしき地面に向けて着陸態勢に入った。
どちらにしても計器が役に立たない今、地上に降りて修理する必要がある。
アンリは機体内部に収納されていた着陸用のタイヤを出した。
―よかった、これは問題なく出た。
機首を少し上向かせ、速度を落としながら滑走路の端に近づいていく。
みるみるうちに地面との距離が縮んでいき、タイヤが整備された滑走路に接触すると機体はガクンと大きく揺れた。
その後もガコッガコッガクンと何度も揺れたが、アンリは慎重にブレーキをかけていき、機体は安全に止まった。
「…………ふう。」
アンリは安堵のため息をつくと飛行機のエンジンを切り、キャノピーを開けた。
緑香る風がコクピットに吹き込み、アンリの額の汗を冷やした。
アンリは首のスカーフで乱暴に汗を拭うと、飛行機から降りて防眩ゴーグルを目から引き下ろして首に下げた。
改めて周囲を見渡す。大体上空から見たのと変わりはない。
アンリは隅々まで見渡して
「ホントにどこなんだよ、ここ……」
途方にくれた声でもらした。
あたりに人影は無く、当然その呟きに答える声もない。
アンリはとりあえず目に入る建物―格納庫らしきものへと行ってみることにした。
さっき上空から見えた小屋には人がいた。
住んでいるのかどうかは分からないが、人がいても大丈夫な場所であると思っていいのだろう。
格納庫はさほど大きくはなかった。
四角の上に三角を乗せたような形をしたトタン外装のそれには、どう見ても小型の飛行機が2つくらいしか入らないだろう。
大きなシャッターの横に勝手口を見つけたアンリはそっとドアノブに手をかけた。
ドアノブは何の抵抗も無く回る。
鍵はかかっていないようだ。
アンリは念のため、支給された小銃がホルスターからすぐに取り出せる状態にあることを確認した。
そしてなるべく音を立てないようそっとドアを押し開けた。
「おじゃましまーす…」
アンリは誰に言うでもなく呟きながら、ドアの隙間から頭を少し覗かせた。
中にもやはり人の気配は無く、天井に左右6つずつある小さな四角い窓から降る日の光だけが埃っぽい庫内を照らしている。
その格納庫の中央には何とも古めかしい黄色の小型飛行機が静かに鎮座していた。
日光を堂々と浴び、まるで新品のようにピカピカ光って見えた。
アンリはそっと体を滑り込ませるように中に入った。
誰かいないか探しながら飛行機の周りを回るように歩いていく。
壁際には飛行機の整備するための機材や工具、脚立などが置かれていて、さほど広くない格納庫を狭くしていた。
飛行機を滑走路へ引っ張る牽引車もあった。
格納庫の中ほどまで来て、アンリの目は飛行機に注がれた。
太い紡錘型の胴体から左右に大きな翼が伸び、その両方にエンジンが付いている。
座席は2つ。前方は操縦席で後方は通信係や索敵係が乗る席となっている。
通常2席はだいたい同じ大きさのはずなのだが、この飛行機の後部座席は操縦席よりも幾分か広くできているようだ。
アンリは飛行機を横から見たり下から見たりとまじまじと観察し始めた。
確かこの飛行機が活躍していたのはもう30年ほど昔のはずだ。
それにしてはこの機はきれいすぎる。
まるで飛行機の制作会社から納品されたばかりみたいだ。
「博物館か?ここは…」
アンリの関心の目を、とうに引退したはずの小型飛行機は堂々とした出で立ちで浴びていた。
「にしても、この色はないだろ…」
アンリは苦笑しながら言った。
グレー、もしくは空や海の色に溶け込むブルーやグリーンが主流の中、この飛行機は何とも自己主張の強い黄色だった。
実戦向きとは到底思えない。
「やっぱ金持ちの道楽のコレクションか…?」
飛行機好きというのは世の中にはたくさんいる。
金を持て余した貴族や富豪ならばこんな骨董品のような飛行機を自分の趣味のために買って、さらに好きな色に塗装したとしても不思議ではない。
アンリはそう推測しながら飛行機の尾翼へと回った。
そこで見たものに、アンリは目を丸くした。
「ん…?」
アンリがそれをもっとよく見ようと顔を近づけたその時、さきほどアンリが入ってきたドアがキイイと鳴った。
そこから伸びてくる外の光が自分にかかるよりも早く、アンリは反射的に銃を抜きドアへと構えた。
しかしアンリの両目がドアを開けた人物を捉えようとしたその瞬間、何かがアンリに飛び掛かり視界を塞いだ。
「おわっ…」
飛び掛ってきた何かはアンリの肩を突き飛ばし、アンリの視界はぐるんと縦に90度回る。
いきなりのことについ力の入ってしまった右手は視界と共に上向きになりながら引金を引き、銃声が格納庫いっぱいに響く。
狙いもなく撃たれた弾は天井にめり込み、それとほぼ同時にアンリはそのまま押し倒され硬い床に背中を強く打ちつけた。
「いってぇ…」
痛みに呻きながらアンリはまだ自分の上に乗り体を押さえつけている何かの正体を見ようと頭を上げた。
日を受けて銀に輝く白鋼の毛、アンリの肩を押さえつける太い前肢、睨みつけるその瞳は金色。
それは立ち上がればアンリの背丈ほどはあろうかと言う大きな犬だった。
犬は長い牙を剥き出しにして唸り、今下手に動けばすぐにでもその牙をアンリの首に突きたてようとしている。
銃は倒れた拍子にアンリの手を離れ、今は遠くの床で虚しく転がっている。
左足のホルダーにはナイフがあるが、そこに手を伸ばし抜くのと、この犬の牙がアンリの首を食い破るのとどちらが速いだろうか。
しかしいずれにしてもやらなければやられるのは明白だ。
アンリは意を決してナイフに手を伸ばした。
その動きを察した犬はすぐさまアンリの首めがけて襲い掛かる。
「クラウド、だめ!」
高く澄んだ声に犬がピクリと反応し、寸での所で動きを止めた。
犬はゆるゆると牙をしまい、数秒アンリを睨んだ後、納得いかない様子ですごすごとアンリの上から降りた。
同時に犬を止めた誰かがアンリに駆け寄る。
「ごめんなさい。ケガとか…してないですか?」
倒れたままのアンリの上から心配そうな声が控えめにかけられた。
柔らかく光に透ける蜂蜜色の髪と白いワンピース。
それはアンリと同じ年頃の少女だった。
「あ、ああ…大丈夫だ。」
アンリは身を起こし、まだ少女の後ろで自分を睨んでいるように見える犬を警戒しながら銃を拾った。
銃身を簡単にチェックしてホルスターに仕舞う。
そして撃った弾が天井に銃創を作ったのを見て、少女に向き直った。
「こっちこそ悪かった、銃なんか向けて。一発撃っちまったけど跳弾とか大丈夫だったか?」
少女は改めて銃の存在を思い出し怯えた様子で首を横に振った。
跳弾も流れ弾もなし。
アンリは被害が無かったことを確認してホッと胸を撫で下ろした。
天井の傷は…まぁ大目に見てもらおう。
「あんた、ここの人間か?」
「え?」
「軍の施設だろ?ここ。」
アンリはくいっと飛行機の尾翼を指して言った。
そこに描かれているのは翼を広げたイヌワシのマーク。
空軍の戦闘機にしか着けることの許されていない、軍属の証だ。
アンリが着ている軍のパイロット候補生の制服にも右腕に同じワッペンが付いている。
「えっと、軍…といえば軍なのかな。ごめんなさい、ちょっとよく分かりません。」
「そうか…。」
分からない?アンリは内心頭を捻った。
この少女はこの施設の関係者ではないのだろうか。
確かに彼女の出で立ちは軍の人間とは到底思えない。
見るからに高価そうな服に上品で控えめな振る舞いは、どちらかと言えばどこかのお嬢様といった雰囲気だ。
とすれば、どこぞの将校のご息女が気まぐれに父の仕事についてきたと考えるのが妥当かもしれない。
「なら分かるやつはいるか?ここの施設の管理人とか、責任者とか。」
アンリの言葉に少女は困った顔をして首を横に振った。
「いません。ここには私とクラウドしか住んでいないんです。」
「留守ってことか?」
「いえ…あの、軍の方なんですよね?エルガルさんの使いで来たのでは?」
「エルガル?」
アンリは首を捻って聞き返した。
エルガル…どこかで聞いた名のような気がするが、全く思い出せない。
ということはいずれにしてもアンリに関係のある人物ではないと言うことだ。
「いや、俺はただ乱気流に巻き込まれてここに不時着しただけなんだ。」
「乱気流…ですか。」
アンリは苦笑交じりに軽い調子で言ったが、少女は何故か難しい顔をして何か考えるように口元に手をやった。
足元にいた犬が少女の考えを察してピクリと耳を揺らす。
「けっこう高い場所を飛んでいたはずなんだけど、気付いたらここの地面すれすれでさ。相当めちゃくちゃに飛ばされたらしい。」
「え?あ…もしかして島の全景は見なかったんですか?」
「全景?いや、見てないな。島なのか、ここ。」
アンリは驚いて聞き返した。
乱気流に巻き込まれるまで沿岸の第2基地から内陸の第5基地へ、つまり海から遠ざかる方向へ飛んでいた。
島に不時着するなんてありえない。
しかし少女はアンリの問いにこくりと頷いて、その上更にとんでもない事を口にした。
「はい、島なんです。首都の上空に位置しています。」
「…は?」
「空に浮かんでいるんです、この島は。だからここはまだ“けっこう高い場所”ですよ。」
「………」
アンリは返す言葉が見つからず絶句した。
浮いている?島が?
予想だにしていなかった言葉を理解するのにはたっぷり数秒を要し、やっと出てきたのは空気の抜けたような情けない笑い声だった。
「はは…なかなか面白い冗談だな。空飛ぶ島か。そんなおとぎ話あったなぁ。」
「じょ、冗談なんかじゃありません!本当です!何なら島の端っこまで案内します!」
「いや、いいよ。それより工具を貸してくれ。早いとこ機体を直して仲間に追いつかないといけないんだ。」
全く信じていないアンリの様子に少女は歯痒そうに眉根を寄せた。
知らず力の入っていた両手は胸の辺りで拳を作っていたが、やがて諦めたように下ろされた。
しかしその瞳は、まだ確かに可能性を捉えていた。
「…分かりました。ここにある物どれでも使ってください。」
「ああ、悪いな。」
「ただし!条件があります。」
今まで物静かな雰囲気で喋っていた少女だったが、その声は庫内に響くほど力がこもっていた。
条件、その言葉にアンリは思わず身構えた。
それほど少女は思いつめた顔をしている。
そして少女は意を決したようにその口を開き“条件”をアンリに告げた。
「私を、ここから連れ出してください。」