02
まだ昼間だというのによろい戸を閉め切った部屋は薄暗く、小さな天窓から入る光だけがベッドにうつ伏せに転がる少女を照らしていた。
細い腕で抱え込んだ大きな枕に顔をうずめていて、時折鼻をすすりあげる音が聞こえる。
大きな犬が一頭、横たわる少女に近づき心配そうに彼女の頭に鼻面を押し付けた。
気づいた少女は緩慢な動作で顔を少し上げ、手を伸ばして犬の頭をそっと撫でた。
「お願いしてみたんだけど…断られちゃった。まだダメだって…。」
少女は無理に笑顔を作って見せたが、その目は泣き腫らして赤くなっていた。
「…ううん、大丈夫。だってもう約束の5年経ってるもの。だからきっと、もう少し頑張れば…。」
少女の言葉は最後まで続かなかった。
言えばかえって望みが叶わなくなるような気がした。
少女は再びこぼれそうになる涙を隠すように枕に顔を押し当てた。
犬は自分に少女を元気付けることはできないと悟ったのか、ベッドに凭れていた頭を下ろし、床の上に寝そべった。
少女の押し殺した嗚咽が薄暗い部屋の静寂に紛れていった。
******
帝国第2基地。
首都郊外の海辺に建てられたこの基地はその名が示すとおり2番目にできた基地だ。
当然他の多くの基地よりも歴史は古いが、建造物は比較的新しいものが多い。
その中の1つ、射撃訓練棟では今年試験に合格したばかりの若いパイロット候補生達が射撃の訓練を受けていた。
1人1人パーテーションで仕切られたボックスに立ってそれぞれの的に実弾の入った銃を向けている。
タン、タン、タン
小型中の銃声が3つ連なって聞こえた。
弾丸は人型の的の右側頭部、右肩、そして体の真ん中、つまり心臓を打ち抜いていた。
撃ち終わった候補生は防音用の耳あてを外しながら苦い顔で的を睨んだ。
「どうも左にズレるクセがあるんだよな。」
「贅沢言うなよ。的に全部当たってんだから充分御の字だろ。」
ぼやくアンリに隣のボックスのカイルが口を尖らせて言った。
カイルもかれこれ20発は撃っているが当たったのはたったの2発。
その命中力の低さから、彼だけ実弾ではなく安価なペイント弾を使わされている。
あたれば弾の中のインクが弾けべっとりとつく、後の掃除が大変と候補生の中で評判の品だ。
アンリは空になった銃を納得のいかない様子で構えなおした。
型は問題ないはずだ。
撃った時の反動でぶれるのだろうか。
「片目をつぶっているからだ。しっかり両目で目標を捉えろ。」
凛とした声が後ろからかけられた。
アンリはおもむろにカイルのペイント弾をひとつ失敬し、そのアドバイスのとおりに撃ってみた。
弾は性格に的の頭に命中した。
「へぇ、なるほど。的確なアドバイスだフリッツ。」
アンリは銃のセーフティをかけながら振り返った。
そこにいたのは不機嫌そうな顔のブロンドの青年だった。
フリッツと呼ばれたこの青年、本名はフリードリヒ・アーベル。
候補生試験の日、食堂でアンリの向かいに座った男だ。
「アンリ、さっきまでどこにいた。」
「ん?ずっとここにいたぜ?」
フリードリヒは厳しい口調で問い詰めた。
しかしアンリは彼の機嫌の悪さなどどこ吹く風で銃の分解を始めた。
使い終わった銃はこうして分解して洗浄し、また組み立てる決まりだ。
「そう言うことを言っているんじゃない。」
「あー、どこだっけな。なぁカイル?」
「聞きたいのは俺のほうだよ。1人だけサボりやがって。」
アンリはカイルの恨み言に「悪かったって」と笑って答えながら、ひょうひょうとフリードリヒの冷たい視線をかわす。
まだ短い付き合いだが、こうなったフリードリヒが面倒だということは既に身に染みて分かっている。
アンリはこのままなあなあで済ますつもりだったが、フリードリヒはそれを許さなかった。
「いい加減にしろ。教官もお怒りだったぞ。」
「…俺あの教官きらいなんだよ。何かにつけて俺を余所者扱いして。確かにじいちゃんは北からの移民だけど、俺は生まれも育ちも首都だっつーの。」
アンリはため息交じりの苦々しい口調で言った。
帝国が大陸を統一して60年余り、法の下では大陸に住む全員が帝国民なのだが、昔の第1、第2、第3帝国時代の出身地の区別は今だ根強く残っている。
中でも第3帝国の高齢者の中には自分たちこそ真の帝国国民であり、その他は隷属国の者であると見る者も少なくない。
殊前線で隣国たちと直に刃を交えていた軍人達にその傾向は強く、軍史の担当教官もその1人であった。
そして移民3世であるアンリにそれが向けられた。
「…気持ちは分かるがお前のそういう態度が事態を悪化させているのも事実だ。教官が気に食わないのなら実力で見返せばいい。」
「…正論だな。」
まるでそう思っていない口調だった。
アンリは銃を整備する手を休めずフリードリヒの方を見もしなかった。
自分の言葉が全く届いていないことに苛立ったフリードリヒはさらに言葉を続けようとしたが、その前にアンリは早々とボックスを後にした。
「お前のアドバイスはいつも的確だよ。次からは気を付ける。」
「アンリ!」
フリードリヒの制止も聞かず、アンリはひらひらと後ろ手を振ってさっさと行ってしまった。
その背中をフリードリヒはもどかしそうに睨んでいた。
「世渡りへただよなぁ、アンリもフリッツも。」
そんな2人の様子を見ていたカイルが苦笑混じりに言った。
アンリを睨んでいたフリードリヒの目はそのままカイルに向けられ、カイルは諍いはゴメンだとで言わんばかりに軽く両手を挙げた。
「アンリはともかく俺は違う。一緒にするな。」
「いや似てるって。」
カイルは懲りずに言葉を続ける。
「2人とも貧乏くじ引きまくってるじゃんか。どうせまたアンリの代わりに教官からイヤミ言われてきたんだろ?適当にかわしてくりゃいいのに…っと分かった分かった悪かったよ。んな怖い顔すんなって。」
ますます険しくなっていったフリードリヒの表情に、カイルはようやく軽口を叩くのをやめた。
しかし内心改めてやはりアンリとフリードリヒは似たもの同士だと思っていた。
実は以前アンリにも同じことを言ったのだが、その時彼も今のフリードリヒと似たような反応をしたのだ。
「一緒にするな」と。
フリードリヒはまだ何か言い返したそうにしていたが、カイルの人当たりの良い笑顔に毒気を抜かれたように、はあと1つため息をついた。
「お前も早く片付けろ。次の講義に間に合わないぞ」
「おっと、もうこんな時間か。あー…フリッツ?今さっき貧乏くじ云々言った手前こんなこと頼むの悪いんだけどさ…」
急に下手に出るような声を喋りだしたカイルにフリードリヒは眉根を寄せた。
アンリ同様カイルとも短い付き合いだが、その人となりをフリードリヒはもうある程度把握している。
つまり彼がこういう声を出す時、どういう展開が待っているのかも予測がつく。
「片付け、手伝ってくんね?」
カイルは先ほどまで銃で撃っていた先を指してきまりが悪そうに言った。
そこはカイルが外したペイント弾のペンキで壁やら柱やらが赤く汚れている。
「…そう言うだろうと思ったよ。」
フリードリヒは深いため息をついて雑巾を取りにロッカーへと向かった。
自分の引く貧乏くじというのは、他ならぬアンリとカイルがもたらしているのでは?そう思わざるをえなかった。
******
シャッターが大きく開かれた第2基地の飛行機格納庫、すぐにでも飛び立てる状態で並んでいる。
小型飛行機の1つにアンリが大きな軍用リュックを1つ投げ込んだ。
1人乗りのそれは型は古いがよく整備されており、まだまだ現役でいくらでも飛べる。
「アンリ、準備はできたか?」
「おうフリッツ、いつでも行けるぜ。」
後ろからフリードリヒが声をかけた。
先ほどアンリが投げ込んだのと同じ大きなリュックを担いでいる。
アンリたち第65期パイロット候補生たちは今日から2週間、第5基地で正規パイロットに混じって訓練を受ける。
ベテランのパイロットたちの技術を間近で見て候補生達に学ばせようというのが狙いだ。
しかしそうなると訓練に使う飛行機は第5基地のものだけでは足りないため、何機か第2基地から飛ばしていくのだ。
飛行訓練で好成績を修めているアンリはこの小型飛行機を任された。
フリードリヒも上官と一緒にだが、2人乗りの機体を飛ばす。
他にも3名の成績優秀者が飛行機を操り隊列を成して第5基地まで移動することになっている。
「ちゃんと服装は直したな。向こうでは先輩方の迷惑になるような行動は慎めよ。」
「わかってるよ。お前は俺の母ちゃんか。」
「ふざけるな。俺の子ならもっと真面目なはずだ。」
「…お前ってたまにビミョーにツッコミどころ間違えてるよな。」
やがて他のパイロット候補生も準備を整えて格納庫へやってきた。
今回、隊の監督をするリサ・モーガン大尉が候補生達を集めて空路の最終確認をすると、各々自分の操縦機体に乗り込んだ。
「アーベル、君は私とだ。」
「はいっ。」
リサに呼ばれフリードリヒは厳しく返事をした。
5機のうちフリードリヒの操縦する機体だけは座席が2つあり、リサを後ろに乗せることになっている。
傍に居たアンリも自分の機体に乗り込もうと踏み台に足をかけたが、彼に気づいたリサに呼び止められた。
「アンリ、君は今回単独だな。」
「あ、はい…。」
「緊張しているか?」
「いえ、そんなことは…」
快活に話すリサとは対照的にアンリからいつもの調子は消え、物言いもどこかはっきりとしない。
リサはそんなアンリの様子を見て楽しそうにニッコリと笑った。
目を合わせようとしないアンリの背中をリサはバンと勢いよくたたいて、アンリは少しよろけた。
「君の腕の良さは知っている。自信をもって飛びなさい。」
そう言い残してリサは自分の乗る飛行機へと去っていった。
その後姿を見送りながらアンリは叩かれた背中をさすった。
「何か苦手だ。あの上官…」
「お前はそうだろうな。」
「は?」
「何でもない。飛行中、列は乱すなよ。」
そう言ってフリードリヒもリサの後についていった。
最初の機体はもう離陸しようとしている。
アンリは納得のいかない顔をしていたが、他の機のエンジン音に急かされて機体に乗り込んだ。
******
5機の小型戦闘機が第2基地から離陸し、上空で隊列を組んだ。
先頭はアンリとリさとフリッツの操る2人乗りの機体。
その後ろにアンリや他の候補生達が渡り鳥のように底辺のない三角形のような隊列を作って飛んでいる。
「001から全機へ。前方に雨雲を視認。高度を上げる。」
フリードリヒから他の機へ無線通信が入った。
一緒に乗っているリサは基本的に口は出さない。
これも訓練の一端だ。
彼女は今回のフライトをできる限り候補生達に任せることにしていた。
「003、了解しました。」
「002、了解です。」
「004、同じく。」
通信を受けた候補生達が次々に返事をしていく。
アンリはフリードリヒ機の翼越しに空を見た。
確かにたちこめる暗い雲が見える。
「005、了解。」
アンリも通信回線を開き応答した。
あの雲の下はおそらく土砂降りの雨だろう。
ここは雲の上を通っていくのが定石だ。
しかし何だ?あの雲には何か引っかかる…。
程なくしてフリードリヒ機は上昇を始めた。
すっかり意識を雨雲に持っていかれていたアンリもハッとしてそれに続く。
雨雲に近づいていっているせいか気流が乱れ少し操縦桿がガタついた。
ともすれば風に煽られあらぬ方向へ傾きそうな機体を制御するのに必死でアンリの頭からは僅かに感じた違和感など直ぐに消え去ってしまった。
一行は雨雲の上に昇った。
暗く見えた地上とは違って雲の上は晴れ渡り、機体は陽光を惜しげなく浴びた。
遮る雲のない空は透明な水のように澄み、アンリの青い瞳をより青く輝かせた。
眼下の雲は巨大な波のようにうねり、見る者を圧倒する。
アンリは瞳いっぱいにその景色を映し、その身が空に溶けていくような気分を感じていた。
「………れは……だ……」
ふいに、途切れ途切れの通信が入った。
フリードリヒ機からだ。
電波状態が悪いのだろうか。今までそんなことは無かったのにと首を捻りながら、アンリはチューナーを弄って通話ボタンを押した。
「おいフリッツ、どうした?」
「……さか…」
「おい?」
声は相変わらず途切れがちに聞こえるが、通信状態は一向に回復しない。
フリードリヒとリサの話す声だけが不明瞭に聞こえ、どうやらこちらの声は届いていないようだ。
不審に思ったアンリは通信機から顔を上げ、フリードリヒ機の方を見た。
そしてその瞬間前方に見えたものに目を疑った。
「なっ……」
細長い竜のように上下に伸びた雲、あれは漏斗雲だ。
次の瞬間、通信が回復し全機に傍観に徹していたはずのリサの声が響いた。
「001から全機へ!前方に漏斗雲を発見した。竜巻が発生する恐れがある。右へ旋回するので落ち着いてついてくるように。」
他の機からの応答を待ってフリードリヒ機は右へ大きく旋回した。
002、003、004もそれに続き、アンリも操縦桿を右に捻った。
横目で見る灰色の漏斗雲は不気味な威圧感を放っている。
腹の奥にぞわりとしたものを感じた瞬間、がくんとアンリの機体が揺れた。
「うおっ…」
アンリは慌てて操縦桿を握る手に力を込めたが、ガタガタと揺れる機体は全く思うようにならずアンリ機は大きく傾き他の機から引き離された。
なんとか機体を安定させようとしたが操縦桿はまるで溶接したかのようにビクとも動かない。
そうしている間にも他の機との距離はどんどん空いていく。
ともかく連絡を取らなければとアンリは通話ボタンを押した。
「005から001へ。…機体が言うことを聞かない。このままだと…うわっ!」
はぐれる―そう言おうとしたのとほぼ同時に突風がアンリの機体を襲った。
傾いた機体は風をもろに受け、まるで紙飛行機か何かのように吹き飛ばされた。
「うわああああああっ!!」
「005?005、どうしたんだ応答しろ!アンリ!?アンリー!!」
異変を察知したフリードリヒは懸命に無線で呼びかけたが、アンリからの応答は帰ってこない。
もはや嵐とも呼べるほど強くなった風の中、4機になった隊にははぐれた一機を探す余裕は無かった。