01
アルトソラリナ帝国、首都郊外にある国軍第4基地。その一角の緑地内の木陰で、アンリ・シルフォンは開いた教本を顔に被せて仰向けに寝そべっていた。日の光を充分に浴び精気に満ちた草の匂いをはらんだ初夏の風が心地よくアンリを夢へと誘う。
だから彼はここでサボることに決めた。そう、もう少し日が高くなって太陽がじりじりと体を焦がすまで彼はここを動かない。
例え同期が今にも泣きそうな情けない声で縋りついてきても、だ。
「アンリ~~~っ」
そんなアンリの決意など知ったことかと言わんばかりにアイマスク代わりの教本が乱暴に取り払われた。
太陽の光は薄い瞼をいとも簡単に通過してアンリの眼球を苛む。
アンリは顔をしかめその眩しさから逃れるべく寝返りをうとうとしたが、教本を奪い去った犯人はそれすらも許さなかった。
「ばかやろうアンリ、寝るな!俺にヤマを教えろ!」
「ふざけんなカイル…試験まであと2時間って時にそんなこと言ってる時点でお前はもうダメだ……」
「うわああ~~っ!それが同期に対する態度かこの冷血漢~~~っ!」
アンリの同期、カイルはこの世の終わりのように大仰に嘆いた。
無視して二度寝を決め込もうとしたアンリだったが、カイルがあまりにも煩かったため渋々身を起こし、寝起きのゆっくりした動作でカイルから教本を取り返した。
「お、教えてくれるのか!?」
カイルの期待に満ちた眼差しを受けながらアンリは教本の15ページ目を開いた。
「ここから、」
パラパラと教本を傾け今度は275ページへ。
「ここまでが頻出だそうだ。丸暗記しとけ。」
「できるか秀才野郎!!」
カイルは自分のノートでハリセンよろしくアンリの頭を引っ叩いた。
しかし結局背に腹は変えられず、泣きそうになりながら教本の5ページ目を読み出す。
「だいたい何で試験に座学まであるんだよ…パイロットは腕が全てだろ?」
「知識と腕の両方備えてこその一流パイロットってことだろ。合格したかったら死ぬ気で勉強しろ。」
「うう…アンリはいいよな。余裕があってさ。」
「バカ言え。俺だって必死だ。3年間整備士として下積みして、やっと手に入れた受験資格なんだからな。」
教本にかじりつくカイルの横でアンリはもう一度横になった。
アンリも昨晩は最後の追い込みに夜遅くまで勉強していたのだ。
結果、今眠くなって仕事をサボっているわけだが、試験中眠くて集中できなかったでは元も子もない。
カイルに邪魔されたものの、少し眠れたおかげで大分頭はスッキリした。
残りの試験までの時間、最後の足掻きでもするかと、アンリも自分の教本に手を伸ばした。
「っていうか歴史なんて絶対必要ないだろ…。」
「泣き言言うな。そんなの俺だって思ってる。」
帝国史は毎年受験生泣かせの科目で、アンリも例に漏れず苦手とする科目だ。
アルトソラリナ帝国の歴史は浅く、建国からまだ60年しか経っていない。
とは言え、その前身たる第3帝国の歴史は古く、現存する最古の文献は2000年以上も前からこの国があったことを示している。
つまり試験に挑むにはこの約2060年分の歴史を把握しておく必要があるということだ。
この世界には3つの大陸があるが、そのうち1つは氷に閉ざされ、また1つは砂ばかりの不毛の土地だ。
それぞれ少数の民族が暮らしているらしいが、人類の繁栄は残る1つの最も大きな大陸に集中した。
この温暖で実り豊かな大陸で、人類の中から大多数を導く少数の長が出現し始めた頃、大陸にはいくつもの小国が点在していたと言われている。
それが繁栄、吸収、衰退を繰り返すうち、次第に大きな3つの国になった。
当時最も大きく力の強かった国が自らを第1帝国と名乗り、他2つの国を勝手に第2、第3国と呼称した。
これが大陸3国時代の起こりである。
3国はお互い隣り合って位置しており、長きに渡って戦争と停戦を繰り返してきた。
そうしていつしか3国のバランスは徐々に安定し、国交こそ緊張を残してはいたものの貿易などは盛んに行われてきた。
それが60年前、大陸を襲った異常気象により国勢は一変した。
日照り、干ばつ、豪雨、土砂崩れ、落雷による大規模な山火事などにより、第1、第2帝国はかつてないほど困窮した。
多くの民が犠牲になり、国は疲弊しきっていた。
そんな2国を救済したのが第3帝国である。
強固な地盤のか高い山に囲まれた土地柄のおかげか、大きな被害の無かった第3帝国は積極的に2国を援助した。
しかし2国の疲弊は激しく、ついに第1、第2帝国は国としての体を保てなくなり、やむなく第3帝国に保護を求めその傘下に下ったのだった。
そうして大陸は1つの国によって統一された。
これがアルトソラリナ帝国の起こりというわけである。
「っつっても実際のとこ怪しいもんだよな。」
カイルが言った。
「おっさん世代の間じゃ結局は全部第3帝国の陰謀だったってもっぱらのウワサだぜ。」
「滅多なこと言うなよ。上官に聞かれたらお前試験どころの話じゃないぞ?それに2国が滅んだのは天災のせいだろうが。」
「そりゃきっと国家機密のすんげー兵器があるんだよ!2国の政治家や貴族の大半が合併後に謎の死を遂げてるだろ?きっと暗殺されたんだ。」
「それも天災で流行った疫病が原因。」
「でもよ…」
「眉唾だって言ってんの。ゴシップよりも教本の中身を頭に叩き込めよ。」
尚も噂話をしたがるカイルの頭を叩き、アンリは立ち上がった。
「どこ行くんだ?」
「食堂。のど渇いたし。」
「俺も行く。」
カイルも立ち上がってアンリの後に続いた。
渡り廊下から食堂のある建物の中に入る。
廊下の掲示板には大きく戦闘機の写真を用いたポスターが貼ってあった。
その上部には生真面目なブロック体で「君も空軍パイロット候補生に!」と書かれている。
アンリはそのポスターを横目に見ながら通り過ぎた。
空軍パイロットは多くの若者が憧れる花形の職業だ。
大きな機体を操り空を駆け、国や民を守る。
しかし危険も大きい上に並々ならぬ技術を要するのも事実。
それゆえパイロット候補生試験は毎年多くの受験者を厳しい試験でふるい落とす狭き門となっていた。
「うへ、もう受験者集まってきてる。」
受験者控え室と大きく書かれた紙が張られた食堂の扉を開けたカイルは、普段よりずっと込み合った室内に顔をしかめた。
「他の基地の整備士かな?学生や推薦の奴はこんなに早く来ないだろうし。」
今年の受験生は200人余り。内、受かるのはたったの80人。
受験資格が与えられるのはアンリやカイルのように空軍整備士として3年従事した者、軍学校の初期過程を修了したもの、そして軍将校からの推薦を受けたもの―後者2つはつまり貴族や財閥の御曹司だ。
「うう…俺80人の中に入る自信なくなってきた…」
「おい弱気なこと言うなよ。大丈夫だって、ボンボンたちと違って俺達は3年も現場で飛行機に触れてきたんだ。自信もてよ。」
食堂のおばちゃんから冷たいお茶を受け取りながらアンリはカイルを励ました。
泣いても笑っても試験まではあと1時間と少し。
これまでやってきたことを信じて、全力で挑むしかない。
アンリは空いている席に座ってお茶を飲みながら教本を開いた。
「ここ、座っても?」
「ああ、空いてるよ。」
アンリの向かいに座るカイルの横に青年が1人座った。
短いブロンドの髪にグレーの瞳、口元はいかにも真面目そうに引き結ばれている。
(軍学校の制服…)
教本越しに青年をちらりと見やりながらアンリは思った。
彼が一分の隙もなくキチッと着こなしている青を基調とした制服は軍学校のそれだ。
(ボンボンか)
軍学校に入るのは大抵が金持ちだ。軍学校、と言えば厳しそうな印象を受けるが、実際はただ肩書きを手に入れるためだけに親が多額の費用を出して子を入れるだけにすぎない。いわばお飾りのようなものだ。
コネで受験資格を手に入れ、アンリたちのように現場で下積みをしてきたものと違って苦労なく出世を約束された連中だ。
(負けるかっつーの。)
アンリは僅かに芽生えた対抗心を抱きながら教本に目を戻した。
そんなアンリの心情など露知らず、軍学校の青年もまた、鞄から取り出した使い込まれた参考書を読み始めた。
受験者に溢れ一言たりとも声を発するのが憚られる異様な熱気に包まれた食堂の中、カイルはそっと顔を上げ、あたりを見回してみた。
今ここにいる受験者の殆どは整備士を経て受験する者、つまり一切のコネもなくただ実力のみで勝負するより他にない者たちだ。
コネがありただ成績や体面のためだけに受験する者が多い軍学校の生徒の姿はカイルの隣にいるこの青年だけだ。
(何でコイツ、こんなに必死な顔してんだ?)
軍学校の生徒に関しては試験の判定もかなり甘いはず。
それなのにこの青年は周りにいる整備士たちと同じくらい真剣な顔で、これまで勉強してきたことの最終確認をしている。
(よっぽど成績悪いのかな…?)
そう思うとカイルはなんとなく隣の青年に親近感を覚えた。
そうか、こいつも年表とか天気図とか覚えるのに苦労したんだな。俺と一緒だな。
ふと、青年は視線を感じたのかカイルの方に目をやった。
そこでカイルは自分が青年を凝視していたことに気づき、慌てて教本に顔を埋めた。
風速を計る方法を一から確認するのに必死なふりをしてごまかそうとする。
青年は訝しく思ったが、すぐまた勉強に集中を戻した。
今は些細なことに構っている余裕はない。
ここにいる全員が今日この日のために一心不乱でやってきたのだ。
その成果が問われる試験本番まで、あと少し。