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事の始まり

 真っ黒な毛色に尖った耳。ガサガサしてそれでいてべたべたしている毛は、長年この世界に滞在しているのが分かる。老猫だ。


 それが土でどろどろになった足で、ふらふらと道を横断しているときだった。赤い車が走ってくる。早い。早い。猫には気づいていない。そのまま突っ込んでくる。鈍い音がした。それは一瞬の出来事だった。


 その出来事から数ヶ月が過ぎた。


 古いベッドは動くたびにギシギシと嫌な音を立てる。それが板を打ち付けただけの薄っぺらい家の中では音が響く。クロエはなるべく音がしないよう、ベッドから体を起こした。一階にいる夫に動いたことを気づかれたくなかった。それとほぼ同時に静かな足取りで部屋に猫が入ってくる。


「今日も行ってきましたよ」


 あの時、猫は車に跳ねられたが彼女に助けられ一命を取り留めていた。


 その汚い風貌は変わっていなかったが、怪我はすっかり癒えている様子だった。その動きはスムーズで痛みはまったく感じられない。すーっと部屋の中に入って、ベッドの脇のイスに慣れた動きで飛び乗る。 背の高い木製のイスが、不安定に小刻みに揺れる。


「ありがとう。今日はどうだった?」


 優しく微笑んだつもりでも、目の下の窪んだ影や血色の悪い顔色には疲れがにじみ出ている。痩せこけた頬の黒い影が更にそれを助長する。


「あまり良くはないですね。それに、あなたが迎えに来るのを待ってますよ」


 猫の言い方はぶっきらぼうで冷たい。感情をどう表せばよいのか迷っているようだった。そのせいで苛立ったシッポがピンと高くつっぱる。


「そう……」


 そう呟くと、唇をぎゅっと噛み締めるように口をつぐんだ。それから両手の拳をぎゅっと握って、


「私の足さえ動けば、あの子にこんなに苦労させなくて済むのに――」


 そう言う。その拳で、今にも足を打つのではないかと感じさせるほど、その手には力が篭っていた。


「でも、いつまでこうやって続けるんです? あなたには、助けてもらって本当に感謝しています。だからこうやって恩を返していますが、このままでは何の解決にだってならないんですよ」


「分かってる。分かってるの。でも、こんな足じゃあ、どこにだっていけないわ。仕事だって、あの子に何か食べさせてあげることだって、出来ないかもしれない」


「それでも――」


 そう言いかけたとき、全身の毛をピッと立ててシッと短く叫ぶ。すると、下の部屋から何かが割れる音が響き渡る。猫は声を潜めて言う。


「それでも、あの子はあなたを待っているのを忘れないでください。それに、もう時間はあまり残っていないんです。分かってるでしょう?」


「ええ。あなたの時間がもう無いことは分かってるわ。もう寿命なんでしょう? でも、まだ、まだ時間はあるんでしょう? もう少し、もう少しだけ時間が欲しいの」


「もう少し、もう少し。そう言ってばかりじゃあ、決心はできませんよ。」


「でも……」


 今度は下から怒鳴り声が響く。


「私、行かなきゃ。猫さん、もう少し、もう少し時間を頂戴」


 クロエはベッドの脇に立てかけられた杖を手に取ると、強く床に押し付けてベッドから片足と腰を浮かせ上げる。猫はその様子を細い目で見つめながら、


「決心がつかないなら、私が連れていってしまいますよ」

 そう言って、イスの上をイライラと歩きまわる。


「もう次の満月の夜には、私は旅立たなくてはいけないんですよ。せっかく助けて頂いた命も、この世界では限界です。だから時間がないと言ってるんです。それでもあなたの決心がつかないなら、私が連れて行ってもよいと思ってるんです。この世から居なくなって、会える希望すらなくなってしまえば、あなたも悩むこともなくなって、幸せになれるんじゃないですか?」


「そんな……。二日、いえ、三日。三日でいいの。もう少しだけ時間を頂戴。ねえ、猫さん」


 もう一度、下から怒鳴り声がする。


「私、行かなきゃ。ごめんなさい。本当に。本当に」


 クロエは何度も頭を下げながら、不自由な足を引きずり部屋を出て階段を下りていく。杖を突くたびに床から響く、ドンドンという重たい音が少しずつ遠ざかっていく。


 猫はふうーっと強く溜息を吐き出した。

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