予兆
「どうぞ、あがって」
「……お邪魔します」
由の家は、あの分かれ道から数百メートル程のところにある一軒家だった。
一軒家といっても二部屋しかないため、外から見ると本当に小さく、ロッジのような建物だった。
中は由らしいと言っていいのか、シンプルで、テレビや炬燵、本棚と勉強机、ベッド以外に大きな家具は見当たらなかった。
「見渡しても何も無いわよ」
由がフフッと笑いを漏らしながらそう言うほど、僕は部屋の中をジロジロと見ていた。
初めて女の子の部屋に単独で乗り込んでくるんだから、仕方の無いことだと思う。
しかも、由は一人暮らしをしているため、両親は家にいるはずもなく、ちょっとだけ緊張していた。
「ねぇ、パンドラってさ、何の事か知ってる?」
由は炬燵に入り、僕にも入るように自分の横をポンポンと手でたたいて言った。
「未来視、完全記憶の能力者のこと?」
僕はそれに誘われるように、由の隣に入った。
「違うわ。パンドラの語源よ」
「あぁ。箱のことでしょ? あれを誰かが開けたから、世界に悲しみが出てきたとか何とか……」
「うーん。五十点……もあげられないかな」
「じゃあ、何なんだよ」
苦笑いしながら言う由に、僕は口を尖らせて返した。
「パンドラはね。女の人なの」
「男のパンドラもいるのに?」
「いいから黙って聞いてなさい。それに、女の子のが圧倒的に多いのよ」
僕が揚げ足を取ると、次は由が口を尖らせた。
「とにかく、神話の中でパンドラっていう女の人がゼウスに渡されたのが、パンドラの箱なの。決して開けてはいけないって言われたのに、開けちゃうから、その中から色んな不幸が飛び出したのは当たってるわ」
炬燵の温度を調整しながら、何の気なしに由が続けた。
「でもね、急いで箱を閉めたから、最後に一つだけ残ったの。それが『予兆』よ」
「予兆?」
「そう。これから先の未来の事が、全部わかっちゃうの。だから、外の世界の人たちは、自分の終わりや世界の終わりを知らないから、希望を持つことができるんだって、教えてもらったわ」
由の顔が、だんだん悲しげになっていって、僕はどうしたらいいのか分からなかった。
「だから、私達はパンドラって呼ばれるの。箱の中にある最後の一つ『予兆』を持って産まれた人間って意味を込めてね」
呟いた由の顔が、さらに悲しく歪む。
「希望すら、持たせてもらえなかった人間」
その一言は、僕みたいにのほほんと普通の人生を送ってきた人間には、到底耐えられようも無い重さが秘められていて、聞くだけで僕の心は押し潰されそうだった。
「分かってたの。ずっと前から、終わりの日を」
遠くを見るような目で、由の独白は続いた。
「私の前に君が現れて、一緒に楽しいことをいっぱいして、雪が降ったら――。私、いなくなっちゃうって。だから、最初にこの学校に来たとき、迷ったの。君に声を掛けようかどうか」
「どうして?」
「楽しい思い出を作りすぎたら、いなくなるのが辛いじゃない」
笑顔で、絶対に「死ぬ」という言葉を使わずに、由が言った。
「でも、良かったわ。見えてた楽しい未来が、全部本当になるんだもの。君のお陰ね」
僕のお陰と言われてもいまいちピンとこないので、僕は曖昧に「うん」と言って頷く。
「だから、これでもう思い残すことはあと一つだけ」
「……何?」
「君に、抱いて欲しいの」
恥ずかしさに頬を染めている由の顔を見て、僕は目が飛び出すかと思った。
「だ、だ、抱くって」
「……女の子に言わせるつもり?」
頬を膨らませながら、上目遣いでこちらを見る由は、いつもと違ってとても新鮮だった。
「いえ、分かります」
「……なんで敬語なのよ」
次はジト目でこちらを睨んでくる。
そして、すぐに由は堪えられないと言わんばかりに噴き出した。
「な、何がおかしいんだよ」
「だって、君のせいで雰囲気が全く出ないんだもの」
確かに、と思わされたが、僕は笑われたのがなんだか癪で、黙っていた。
「でも、この方が君らしくていいね」
そう言って笑う由の顔を見ていたら、つられて僕も笑ってしまった。