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「わかんね……あー、わかんねえ……」

 夜の静けさを取り戻した我が城に、藤野の嘆きが響く。

 どこで躓いているのかと覗き見たら、まだ紙に(1)と書いてあるだけだった。さっき解き方を教えたはずなのに。もう知らん。

「ねーちゃん、これは?」

 劉生が私を手招きする。どれどれ、と身を乗り出して見ると、簡単な計算問題に引っかかっていた。

「ああ、これは――」

「無理……もう無理……」

「変数を置き換えて、こう」

「なんなのこれ、意味わかんね……」

 藤野の声がサンドイッチ。聞くだけで呪われそうな悲痛な叫びだが、無視。

「あ、なるほど」

 劉生が再びペンを持って、紙に書きだす。やる気だけなら、藤野よりも劉生の方があるらしい。

 だからといって、劉生が藤野に比べてよい生徒というわけでもない。

「ねーちゃん、これは?」

「……それ、高校時代に習ったでしょ」

「えー、知らない、教えて」

 高校数学をやらずに大学の数学を解こうというのが間違っているのだ。ちょいちょいと教えてやると、劉生はまたシャーペンを取って少し進め――

「ねーちゃん、これは?」

 間をおかずに聞いてくるのだ。うっとうしい。

「あーやだ、勉強きらい……」

「ねーちゃんこれは?」

「なんでこんなんやるの? 計算して意味あんの? マジわかんね……もう無理マジ無理むりむりむりむり――」

「ねえ、ねーちゃん」

「――うわあああああああああ!」

 発狂した。

 私よりも先に、藤野が。

 突如奇声を上げて立ち上がった藤野を、私と劉生は呆然と見上げた。藤野はシャーペンを放り捨てると、乱暴に頭を振ってから走り去っていった。呼び止める間もなかった。

 あとに残ったのは、藤野のいた痕跡――(1)としか書かれていないレポート用紙と、鞄のみ。

「………………え?」

 言葉が出ない。目の前で起こったことを、なかなか理解ができない。藤野が逃げたということだけが、事実として認識できた。

「ねーちゃん、追いかけた方がいいのかな……」

「しらん」

 もう放っておけ。

 とりあえず藤野には、もう二度と勉強を教えたくない。


 藤野逃走後、想像以上に平和な空気が戻った。ぶつぶつと呟く不気味な勉強嫌いもいない。劉生もなぜか、質問もほとんどなく、レポート用紙に向かってシャーペンを動かしている。することがなくて、私は少し眠くなってきた。

 私は重たいまぶたを薄く開け、しばらくぼんやりと劉生の横顔を見ていた。劉生の視線はずっと下を向いたまま、私の方に向かない。それがかえって安心した。

 こうして、まっとうに劉生と並んでいるのは、すごく久しぶりな気がする。いつも逃げたり追いかけたり。いつの間に、そんな風になってしまったのだろう。

「劉生」

「なに?」

 私の問いかけに、劉生が短く答える。甘ったるくもなくて冷たくもない、心地のいい声色だった。

「なんでこの講義取ったの? ……だって劉生、文系でしょ?」

 私と藤野は理系の学科で、必修のこの講義ももちろん理系科目だ。一年生向けの講義とはいえ、そう簡単には理解できない。それに、劉生が数学嫌いだということを、私はよく知っていた。

「そもそもうちの大学だってさ……劉生には難しかったでしょ。よく受ける気になったね」

 私の通う大学は、そう難しいわけではなく、かといって誰もが入れるほど簡単なわけでもない。私の知る高校時代の劉生は、余裕で落ちる成績だった。一人暮らしを始めて、私が家を出て行ってから、いったいどれだけ勉強したのだろう。

「ねーちゃん、それ聞くの?」

「え?」

「わかってるでしょ」

 少し機嫌を悪くしたように、劉生が横目で私を見た。

「……劉生」

「ねーちゃん、これは?」

 流れかけた微妙な空気を、劉生が不意に壊した。シャーペンを指で回しながら、問題を指差して尋ねる。私はほっとして、隣に座る劉生に身を乗り出した。

 次の瞬間、腕をぐっと引っ張られる。よろめいた私の体は――劉生の体が支えた。肩が劉生の胸に触れる。見上げると、私の腕を引いた劉生の顔が、近い。

「り、劉生!?」

「ねーちゃんを追いかけたかったんだよ」

 私の背に腕を回し、劉生が強く抱く。体がぴたりとくっついて、離れようにも離れられない。腕で押し返そうとしても劉生の力にはかなわなかった。

 薄着の劉生と服一枚隔てて、生ぬるい体温と心臓の音が聞こえる。劉生の鼓動はやけに早くて――あの時みたいだった。

「ねーちゃんが家を出て行ってから、ずっと寂しかった。少しでも傍にいたくて」

 切なげな劉生の吐息が、私の耳に当たる。劉生の艶っぽい表情にぞっとした。別人みたいな劉生の目の色。瞳はゆるく細められているのに、笑ってなんていない。

 あれは弟じゃない――男の目だ。

「ば、ばばば馬鹿! 劉生! なんで私が出て行ったと思ってんの!」

 目を合わせないように、私は劉生から顔をそむけた。

「おま、私に、なにをしたかわかってんの!? あの時――あの時は――」

「ごめん」

 抱きしめる腕に力をこめ、劉生は予想外にあっさりと謝った。謝るなら腕を離せ。

「あの時の俺は、自分のことしか考えてなかった。無理やりねーちゃんに……ひどいことしようとして。でも、今は違う」

 これが無理やりでないというなら、なんという。私は劉生の熱のこもった言葉を、できるだけ聞かないように首を振った。

「今はもっと、ねーちゃんに優しくできる」

 だから! 根本的に謝るところが違うと言うのに!

「ねーちゃん、こっち見て」

 劉生が私の頬に手を当てる。端正な劉生の顔と――予想以上に真摯な瞳とかち合って。

「――うわああああああ!」

 デジャブ。

 藤野と同じ悲鳴を上げると、私は間近にある劉生の頭に頭突きした。

 いってえ! しかし私よりも不意打ちを食らった劉生の方がダメージは大きいようだった。拘束の緩んだ一瞬の隙をついて立ち上がり、逃走。

 呆然とした劉生を残し、部屋を飛び出した。


 ○


 宵の風に吹かれて、少しずつ熱が冷めていく。

 全身にかいた変な汗も引いた今、しみじみと思う。あいつ何の反省もしてねえ。むしろ開き直って、悪化しているようにすら感じる。

 私と劉生は姉弟だというのに。「ねーちゃん」という言葉は「姉ちゃん」と書くのだと知っているのか。シスコンってレベルじゃねーぞ。

 そのまま流れで昔のことを思い出しかけて、頭を振る。昔と言ってもまだほんの二年前だ。過去の懐かしい思い出にはまだ昇華できず、精神がゴリゴリ削れる生々しい記憶として残っている。

 昔のことはいい。今の問題は、家に置いてきた劉生だ。この状態のまま戻るのは自殺行為。お腹を空かせた獣の前に、「ご飯ですよ」と言いながら飛び込むようなものである。どう考えても食べてはいけないタイプのご飯だというのに。蓼食う虫もなんとやら。憂鬱である。

 ――子供の頃は、高校に入る前は、仲のいい普通の姉弟だったのに。

 いつから、どうして。考えても不毛なだけ。やめようと思っていても、頭の中をぐるぐるとまわる。。

 とぼとぼと街灯に沿って歩いていると、向かい側から同じように歩いてくる人影が見えた。人気のない夜道、しんと耳の痛くなるような静けさの中で、重たげな足音がゆっくりと近づいてくる。そして街灯に照らされるのは死んだ顔をした――幽霊ではなく、藤野だった。そういやすっかり忘れていたわ。

 私が気づくと同時に、藤野も私に気がついた。私を見た途端、藤野は顔色を変えて怯えだす。さっと手に持っていたコンビニのビニール袋を背に隠し、なにも言わないうちから言い訳を始めた。

「ああああのこれは違うの、そう、おみやげ、成瀬におみやげ。ほら、せっかく気分転換に散歩に出たんだしさ。勉強教えてくれる成瀬に、お礼しないとなーと」

 ――気分転換?

 転換するほど勉強した覚えもないが。藤野は(1)という三文字を書くだけで気分転換する必要があるのか。忙しない。

「ただまあ、なにも言わずに出て行ったから、帰りにくくてさあ。成瀬に会えて逆によかったよ。成瀬も気分転換?」

「うん、まあ」

 あいまいに言葉を濁す。転換しないといけないのは、気分ではなく劉生の頭の中だが、黙っている。

「まあ、帰ろうや」

 人の気も知らないで、藤野は軽く私の肩に腕をかける。そのとき、反対側の手に持つ袋がちらりと見えた。コンビニの買い物にしては量が多く、やけに重たげだ。

「なに買ったの」

「え、ビール」

「え」

 ちょっとなに言ってるかよく分からない。

「……飲むの?」

「……ビール買って飲まないの?」

 藤野が「なに言ってるアホが」という目で私を見る。おそらく私も、まったく同じ目で藤野を見返しているだろう。

「藤野、うちになにしに来たの」

「勉強」

「酒飲んで?」

「うん。あ、成瀬たちの分もあるよ」

 どうしよう話がかみ合わない。

「まあ、とにかく戻ろう。レポートも残ってるしね」

 藤野は私と肩を組んだまま、悪びれることなく歩き出した。

「藤野……馬鹿でしょ……」

 しみじみと言ってから、私は吐き出すように笑った。バカバカしくて、なんだか少し気持ちが楽になった。

 持つべきものはマイペースな友、もとい空気の読めない友。いや逆か。マイペースという名の空気の読めない友。藤野は笑う私に一度首を傾げてから、「そうか成瀬も飲みたかったか。ビビって損したー」と一緒に笑い出した。うん、もうそれでいいや。

 今この場で、一人でなくてよかった。




 ところで一人置いてきた劉生だが、帰ったときにはすでに家にいなくなっていた。鍵は開いていた。不用心この上ない。しかしあのまま顔を合わせるよりはずっとましだった。

 藤野は宣言通り酒を飲みながらレポートに向かった。

 私は――やっぱり少し気持ちが荒れていて、藤野に合わせて少し飲んだ。

 劉生のバカ、劉生のアホ。なに考えてるんだ、次はどんな顔をして会えばいいんだ。

 冗談でも気の迷いでも、越えていけないラインがある。

 いつか劉生に、本当の彼女ができたとき、今日のことも昔のことも、鼻で笑える黒歴史にはならない。一生の負い目になるんだ。それだけ重いことなんだ。

 劉生にとっとと彼女ができてしまえばいい。高校の時とは違って、今度は何も言わない。――そう、今度こそ、関わらないから。

 そんなことをつらつらと酒に織り交ぜて飲むうちに、いつの間にか眠っていた。

 私と藤野は二人そろって、翌日の講義に間に合わなかった。


 結局藤野が単位を落として、再々履となったのはまた別の残念な話。

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