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 本日学習したのは、嫌なことから逃げてはいけないということだ。

 逃げた私を尻目に、いったいどこでどのように話が広がっているか知れない。うわさには尾ひれがついて背びれもついて、そのうち足まで生えてくるものなのだ。

 痛い目を見るのは自分自身だ。

 私は今日、身をもって知った。


 ○


 私がいない間、どう外村君に言いくるめられたのか知らないが、先輩は忙しい店をそれ以上に掻き乱そうとはしなかった。着替えを終えて戻ってきた私も、先輩の妨害を受けることなく職務を全うすることができた。

 目の回るような忙しさを駆けまわり、コーヒー右手に伝票を左手に、片耳で注文を聞き、もう一方では店長の恨み言を聞くありさま。なるほど、連日こんな調子では、店長の泣きながらのラブコールにも納得がいくというものだ。

 そうして昼のピーク帯を過ぎ、やっと一息つけると思ったときのことだった。


「ねーちゃんと光一が付き合うことになったって本当!?」

 店に厄介、もとい劉生が来店した。そして開口一番そう言った。

 つきかけた息が引っ込んだ。窒息する。

「劉生、なんでここに」

「どういうことだよ光一!」

 驚く私を通り過ぎ、劉生は店の奥でコーヒーを淹れていた外村君にまっすぐ向かっていった。劉生にしては珍しく、怒りをあらわに足取りも荒々しい。突然の闖入者に店の注目は一気に集まるが、本人は目に入っていないようだった。先輩といい、どうしてこうも目立つ行動をとるのだろうか。厄介者の性質というのは、案外根底で似通っているのかもしれない。

「ああ? 劉生? なに怒ってんの」

「光一! お前ねーちゃんに手を出す気か?」

「ん、なにそれ?」

 対する外村君は、軽く肩をすくめて余裕な態度だった。

「告白はしたけど手は出してねーよ。てか、どうして知ってんの?」

 それはストーカーだからです。

「告白ってなんだよ。お前、なに勝手なことしてんだ」

「勝手なことって、なんで劉生が怒ってんだよ」

「ねーちゃんは俺のもんだ!」

「はあ?」

 外村君は小馬鹿にしたように吐き出した。

「なんで劉生のものなんだよ。だってお前、弟だろ?」

「弟だからなんだよ」

「シスコンにも程があるだろ。そんなんじゃ成瀬さんに彼氏ができねーよ」

「できなくていいんだ」

 低く、声を絞ったように劉生は言った。小声になってくれるのはありがたいが、どうにも会話内容がきわどい。私は針に刺されるような気持ちで体を竦めた。意図せず話題の中心となってしまった私の身になってほしい。

「彼氏なんかいなくていい。ねーちゃんは俺のものだ」

「…………お前」

 ふと、外村君が表情を失くした。二人の会話が途切れ、息をのむような一瞬――を最後に、私の覗き見は強制終了した。

 竦んだ肩を引っ張られ、耳元に顔を寄せられる。

「成瀬ばっかりどういうこと」

 先輩だった。唇を尖らせ、実に不満そうだった。

「先輩、帰ったんじゃないんですか?」

 すでに先輩は制服から私服に戻っている。そろそろ暑さも遠のき始めた季節、生足の見えるショートパンツが少し寒そうだった。ちなみに店長は煙草を吸いに店を出ている。萎れた顔でニコチン片手に出て行く店長を、さすがに今日は誰も咎めなかった。

 それはさておき先輩である。顔が近いと、彼女の余念のない化粧が良く見えた。瞬きするたび、つけまつげが刺さりそうだ。

「どうしてあんたがイケメン二人に取り合われてるの。納得がいかない」

「と、取り合われてる?」

「今なら羨ましさで人が殺せる」

 先輩の目は据わっていた。本気だ。私は本気の殺意を今この場で見た。

「相手はあれですよ、一人は弟なんですよ?」

「イケメンなら弟でもいい」

 先輩の口ぶりのなんと潔いこと。尊敬の念すら湧き上がるが、彼女のようにはなりたくない。

「だいたいさ、成瀬。あたしと成瀬とどっちが美人よ」

「それはもちろん先輩です」

 私は即答した。先輩はそれなりに美人なのだ。

「じゃあ、なんであたしにイケメンが言い寄らないわけ?」

 性格のせいですね。

 と喉元まで出かかった言葉は飲み込む。

「なんででしょうねえ」

「どう考えても、成瀬よりもあたしの方がお似合いでしょ? あんたなんて不釣り合いよ。どっちかあたしに譲りなさい」

「先輩、それはまるっきり悪役のセリフです」

 ああでも、差し上げられるものなら差し上げたい。どっちかなどと言わず、両方セットで。ただし返品は不可能なのであしからず。

 そんな不毛な会話をしていると、ドアベルの音が響いた。店長はニコチン摂取中、外村君はどうやらまだ劉生と話をしているらしい。となると、対応ができるのは私だけだ。

 私は先輩に一言断ってから、接客に戻った。


「お」

「あ」

 入店してきた客を見て、私は言葉にならない声を上げた。それは相手も同じだった。

「あれ、もしかして、この間の……」

 言いかけて、相手は言葉を止めた。続きの言葉を表す的確な言葉が出てこないようだ。私は泣き笑いにも似た、苦々しい表情を浮かべた。

「お久しぶりです……」

 目の前にいるのは、この間の――――なんだかよくわからない騒動の際に出会った男であった。遅めの昼休みで会社を抜けてきたのだろうか、今日も生真面目そうなスーツ姿だ。

「ああ、やっぱりこの間の……ストーカーの人」

 わかってすっきり、みたいな良い笑顔で、彼は私に会釈した。この間の、の後に続く適切な語句を見つけたようだ。

 運命の神と言うものがいるのなら、どうやら私は嫌われているらしい。しかし安心してほしい、私もお前が嫌いだ。


 ○


 カフェオレの注文を受けたので、淹れてこようとカウンターに引っ込む前に、先輩に首根っこを掴まれた。

「なんであんたばっかり」

 どういう意味ですか。

「あの男は誰、知り合い?」

「ああ、ええと、一応知り合ってはいます。一方的に迷惑をかけたとも言います」

「顔を覚えてもらえるなら迷惑なんて些細なことよ。で、誰? 名前は?」

 私に顔を寄せ、先輩は鋭く聞いてきた。その瞳は、まるで狩りをする獣のようだった。

「いや、知りませんよ。ちょっと話したことがある程度で」

「なにそれ、もったいない」

 先輩の喰いつきがやけに良い。私はどうにかカウンターに潜り込んだが、先輩がその後ろをついてくる。私服姿のまま店員のスペースにやってくるのは、あまり褒められたことではない。だが今は、叱る人間は誰もいない。店長は戻ってこないし、劉生と外村君もまた、店内から忽然と姿を消していた。

 働いているのは私一人ということだ。こんな店つぶれちまえ。

「先輩……まさか気に入りましたか?」

 すでに彼女の表情から、私への恨みつらみは消えていた。なんと現金で幸福な人であることか。

「……あんまりイケメンじゃないですけど」

「悪い顔じゃないでしょ」

 先輩が、窓際に座る男に一瞥して言った。つられて私も見やる。

 確かに、美形というには語弊があるが、彼もなかなか整った顔立ちをしていた。しかし先輩の好みはあくまで華のあるイケメンだったはず。もっと言えば、連れて歩いて自慢ができる顔が好きなのだ。

 言葉にしてみると、先輩の思考がずいぶんとえげつないように思われるが、事実そのままにえげつないのが先輩だから仕方ない。

「それに、身に着けてるもの見た? スーツも靴も、たぶんブランドものよ、あれ」

「……はあ」

「くたびれた感じもしないし、結構な金持ちだと思うの。地味で気弱そうなところも、押せば何とかなりそうで良し。たまにはああいうのもアリだわ」

 なるほど、納得した。先輩は顔の次に金が好きらしい。先輩のそういう淀みないところ、良いと思います、私に迷惑がこうむらない限りは。

「成瀬」

「はい」

「紹介しなさい」

 こうむった。

 私は淹れ終わったカフェオレ片手に、先輩に渋い顔をした。

「なによその顔」

「一度迷惑をかけた相手なんですよ」

「それがどうしたの」

「その上どうして無礼を働かないといけないんですか」

「……あたしを紹介するのが無礼だっていうの?」

 はいかイエスしか選択肢がない。しかしどちらを選んでも先輩の逆襲を受けることは間違いなく、私は黙って目を逸らした。

 その態度は先輩を苛立たせたらしく、彼女は乱暴に私の背中を小突いた。

「いいから行ってきなさい。光一とのこと、隠していた罰だからね。とにかく、名前と仕事だけでも聞くのよ」

 やってもいないことで罰を受ける羽目に。こんな理不尽なことがあるだろうか。

 しかし先輩は本気なのだ。本気で私が、罰として彼女の命を聞くと信じているのだ。その瞳ににごりなく、「本当はちょっと悪いなと思っている」などと言う希望的観測をする余地は一遍もない。

「後輩なんだから、あたしの役に立って当然でしょ」

 涼しい顔で先輩は言った。私の心は条件反射のように平伏した。

 かくして長年先輩の威圧に屈してきた私は、今日も反逆ののろしを上げることなく、カップにスプーンと砂糖を添え、憂鬱な気持ちも添えて男の元へと向かった。


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