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 結局、すぐに店長が飛んできて平謝りしたことで、事態は早々に収束した。

 ウェイトレスの少女は店の奥に引っ込められ、短い話し合いの結果、会計がチャラになった。外村君はクリーニング代までもらった。

「水でよかったですよ。乾かすだけで済みますし」

 店を出て、駅に向かう道すがら、外村君は言った。クリーニング代はそのまま外村君のお小遣いになるらしい。

 濡れた姿で出歩くのもなんだし、と言うことで、まだ早い時間だが、デートはお開きとなった。

 まだ夏の気配の濃い太陽を見れば、グラス一杯の水くらいすぐに乾きそうなものだ。

「コーヒーだったら染みになっていたでしょうからね。あー、なんかこんな騒ぎになっちゃって、すみません」

 気にしていない、というつもりで、私は首を振った。まあこの調子では、いずれこんな目に遭うだろうとは思っていた。刺されなかっただけありがたいと思うべきだろう。

「せっかくのデートだったのに、残念です。成瀬さんを連れ出せるなんて滅多にないのになー」


 話しながら歩いている内に、すぐに駅についた。まだ日の高い駅前は、人がまばらでのんびりとした空気に満ちている。

 ここから、私と外村君は乗る電車が別れる。路線がいくつも乗り入れているらしいのだが、本当に都会は恐ろしい。駅がダンジョンである。

 改札を抜け、じゃあ、と外村君が名残惜しそうに言った。そして私に背を向けて、歩を進めようとした彼の服の裾を、私は無遠慮に引っ張った。握った布は、まだ少し湿っていた。

「まてまてまて、まだ言うことがあるでしょう」

「はい?」

 とぼけた声が返ってきた。あ、こいつ本気で忘れている。

「川崎さんのことを話してくれるって言ったよね?」

 外村君は顔だけ振り返り、裾を握る私の手を一瞥してから、微かに首を傾げた。

「え、そんなの聞いてどうするんですか」

「どうするもこうするも、早く教えやがれ。そのために今日、ここに来たんだから」

「俺とのデートのために来たんじゃないんですか!?」

 驚きと、少しの傷心を滲ませて外村君が言った。自分で川崎さんの情報を餌にしておいて、なんという世迷言。しかも半ば本気で言っているらしい。裾を握ったままの私の手を取り、彼は腰をかがめた。そして、私の顔を覗き込む。

「アヤの話は口実で、俺と遊んでくれるんだと思ってましたよ。今日だって、今の今までなにも言ってこなかったし」

「……外村君って生きてて楽しそうだね」

「そうですか?」

 私の嫌味をさらりとかわし、外村君は目を細めた。彼の指先が、確かめるように私の手をなぞる。彼の手は、劉生よりも体温が低くて、男性的な硬さがあった。

 どこか試すような目つきで、外村君が笑む。

「だって、いくら餌につられても、嫌いな男とはデートしないんじゃないですかね?」

 甘い声だ。

 外村君の見慣れた笑みの中に、いつもの冗談めかした表情が見出せない。瞳には私を映し、私を掴む手に、微かに力を込める。

 反射的に、私は彼の手を振り払った。そして、自分の手をかばうように握りしめる。ひやりとした外村君の熱と、ざらしとした感触が残っていた。

「そんな照れなくても」

 半ば青ざめた私を見て、外村君が言った。

「……照れてるように見えた?」

「可愛かったです」

 外村君は安心させるように体を引き、私を見下ろした。もう何もしないと言うように、手をひらひらと振る。何もしない、と言っても、実際には手を取られた程度のものだ。が、心臓が縮むような思いがした。

 それはたぶん、外村君が見せた表情のせいだ。油断なく、優しくない、知らない男の顔つき。

 私は顔を逸らすと、わずかに眉をしかめた。

「びっくりしただけだよ」

「……まあ、それでいいですよ。成瀬さんがそう思うなら」

 十分に含みを持たせ、外村君は言った。それから、彼は周囲を見渡した。

 地下鉄やら私鉄が乗り入れ、入り組んだ構内には、いたるところに路線の案内板があった。天井からつるされた板には、ホームの番号と、矢印が示されている。外村君は束の間それを眺めてから、私に視線を戻した。

「一緒の電車で帰りましょうか。成瀬さん。遠回りになっちゃいますけど」

 もともと、帰るにはまだ早い時間だ。川崎さんのことを教えてくれるのなら、異論のあるはずもない。


 ○


「いじめられてたんですよ」

 昼日中、私たちの他にほとんど乗客もなく、静かに揺れる電車内で、外村君が言った。

 座席が広々と空いているくせに、ついつい端に座ってしまった私の横に、やけに詰めて座る外村君を押しのけているときの、急な一言だった。私は思わず手を止めて、外村君をまじまじと見た。頭から冷水を浴びせられたような気分だった。

「っていうほど、大げさなことでもないですけど」

 取り繕うように、外村君は肩をすくめた。しかし、私の引いた熱は戻ってこない。

「劉生と付き合い始めてからかな……。ちょっとした嫌がらせがされるようになったらしいんですよ。物を隠されたり、陰口を叩かれたり、そんな感じのことを」

「……だ、誰がそんなこと」

 自分で言っておいて、私は後悔した。返事など聞くまでもないだろう。

「千穂や真由、隣のクラスの白沢さんとか……って言ってもわからないですよね。まあ、劉生に片思いしていた子たちですよ。あいつ、厄介なのに好かれやすいからなあ。それに誰にでも優しくするから、その辺でつけあがっちゃうこともあったみたいです」

 私は目を伏せ、泥の底に沈んだ高校時代を思い出そうとした。

 外村君が口にした名前を、たぶん私は知っている。

 私と違って劉生は、高校の時からなにかと目立つ人間だった。見た目も悪くないし、勉強はできないが要領は良く、性格も積極的だ。その劉生と、仲良くなりたいと思う少女は多かった。そして、そのうちの数人は、外堀を固めるつもりか私にも接触してきたのだ。

 たぶん、その数人の中に外村君の言う少女たちがいたはずだ。高校時代の嫌な記憶の一つとして、うっすらと覚えている。

 ごくごく普通に、仲の良い下級生かと思っていたら、劉生に彼女ができた途端、挨拶すら交わさなくなった。そんなことがあったおかげで、現在の私の性根は綺麗にねじれてしまっている。恋する乙女はえげつない。急に心の距離を縮めようとするやつは、宗教絡みか劉生の回し者だ。人を見たら泥棒と思え。

「付き合っているころは、でもまだ劉生がいたからいいですよ」

 やさぐれかけた私には気づかず、外村君は続ける。私は慌てて嫌な記憶を払い、外村君の言葉に意識を戻した。

「劉生のいる前では、ひどいことは出来ませんからね。劉生もちゃんとアヤを守っていましたし、それにあいつらももともと劉生が好きなんですから、嫌われたくはないんでしょう。……代わりに、別れてからはかなり、やな感じでした。あからさまに仲間外れにして、見ていて気分が悪かったです」

「……何も言わなかったの、誰も?」

「下手にかばうと、もっと悪くなるんですよ。どうにかしてやりたかったけど、結局アヤは孤立。嫌がらせもずっと継続。それが、俺たちが二年の終わりのこと」

 劉生たちが、二年の終わり。つまり私はすでに高校を卒業し、一人暮らしの準備でもしている頃だろう。高校のことも、劉生のことも、耳にも入れたくなかった時期だ。私は黙って唇を噛む。気分は最悪だ。

「で、四月。アヤは学校に来なかった。クラス分けの表にも、名前はない。三年に上がる前に学校を辞めたんです」

 短く息を吐いてから、外村君は俯く私に視線を投げた。私は膝の上で両手を握り合わせ、おそらく、地の底まで沈んだ顔をしている。

「――自分が悪いとか思ってます?」

 見透かしたように外村君が言う。私は答えなかった。

「……馬鹿馬鹿しい」

 呆れを隠さない声だった。私は硬い表情のまま、顔も上げずに電車の床を眺めていた。腹の中に、重たい物がある。それはもやもやとうずまき、言葉にならない不快感を私に与えていた。

「劉生とアヤが別れたのは、自分のせいだとでも思っているんでしょう? 関係ないですよ。あいつらが別れたのは、あいつらが自分で決めたんです。成瀬さんが劉生に何を言ったか知りませんけど――『ねーちゃん』に言われたから別れるなんて、いくら劉生だってやりませんよ。だって、『ねーちゃん』と彼女って、ぜんぜん別のものなんです」

「……うん」

「嫌がらせだって、する方が悪いに決まっている。別れてからも続けるなんて、もう完全に逆恨みじゃないですか」

「…………うん」

「成瀬さん」

 泥のような感情の底に沈み込み、ろくな相槌も打たない私に、はっきりとした声で外村君は言った。同時に、膝の上に置かれた私の手を握る。私はぎょっとして泥の底から顔を上げ、外村君に顔を向けた。

「馬鹿馬鹿しいです、本当に」

「えっ」

「二人が付き合ったこと。全部が全部、苦痛みたいな顔して」

 どんな顔をしているのだろう、と自分の顔を撫でようとしたが、外村君の手が許さなかった。私の両手を、上から覆うようにぎゅっと押さえつける。力を込めているとわかるのに、痛くはなかった。

「別れてから、アヤはいじめられて学校も辞めました。それは俺だって残念だし、いい気分じゃない。でもそれじゃ、付き合ったこと自体が失敗だったんです?」

 私は口をつぐんで、再び外村君から視線を逸らした。

 二人が付き合いだした頃のこと。私がどう思っていたのか。

 本当のところは、言えない。

 外村君は、私の態度を見て少しだけ口の端を曲げた。

「少なくとも、アヤは劉生が好きで、付き合い始めたんです。楽しかった時期があったんです。そういうの、全部否定したら、悲しいじゃないですか」

 行き場がなく、何気なく眺めた電車の窓に、私の顔が映っていた。もともと残念な顔に陰気さが滲み出し、なおのこと悲惨なことになっている。私はずっと、こんな顔をして外村君の話を聞いていたのだ。

 ため息をつくと、私同様に窓に映る外村君が、少し笑った。困ったような表情だった。たぶん。

「人を好きになるのって、幸せなことなんですよ」

 たぶんと言うのは、すぐにその表情が見えなくなったからだ。外村君の声が間近で聞こえて、私は窓から視線を戻した。

 瞬間、妙な感触。外村君の顔は見えず、私を握る手には、微かな熱がこもっていた。

 私は目を見開き、息を止めた。

 そして、全力で悲鳴とともに吐き出した。

「――――なにをするっ!」

「いや、隙だらけだから」

 さらりとした口調で、外村君はいたずらっぽく笑った。

「隙だらけだからって、こ、こ、こんな…………!」

「こんな?」

「乙女の純情を……」

 外村君の手を振り払い、私は胸に手を当てた。不意打ちすぎて、心臓がひどく高鳴っている。楽しそうな外村君の、得体の知れなさに混乱し、私の頭は使い物になりそうにない。

 どうして、なんでこんな話をしているときに。いや、いや、どんな話をしていようとも、関係ない。だけどよりによって、このタイミング。沈んでいた気持ちもすべて、動揺に奪われてしまった。

「純情って」

 半笑いで、外村君が私の顔に手を伸ばす。私はそれを避けようと、電車の座席から腰を浮かした。――そこで、電車が止まった。微かな反動に、私はよろめく。

 電車の窓から外を見て、駅についたことに気が付いた。ホームには、ドアが開くのを待つ数人の人がいる。

「成瀬さん、危ないから座って」

 外村君が、ぽんぽんと自分の隣を叩く。余裕綽々な態度が気に入らない。ぐぬう、と私は可愛げもなく呻いた。


 ――わかっている。やり方はさておき、外村君はたぶん、私を元気づけるためにあんなことをしたのだ。

 そうでないのなら――本当に隙を奪うつもりだったなら――狙う場所は額ではないはずだ。

 私は外村君に口づけられた額を、摩擦熱で焼けるほどに擦ってから、外村君の隣に座りなおした。

 自分でも呆れるほどに、頬が熱くなっていた。悔しさのせいなのか、純情のせいなのかは、私にもよく分からない。

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