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 結局私は、川崎礼美情報と引き換えと言うことでまだ小さなハムスターを二匹押し付けられた。

「増えすぎちゃうと飼えないから」

 と高原先生が言った。

「貰い手が見つからないと、ハムスターじゃなくてラットになってもらうしかないね」

「はい?」

「同じげっ歯目だし、まあ似たようなデータが得られるでしょ」

「先生、ブラックジョークはやめてくださいよ」

「私が冗談を言う人間に見える?」

 先生は眼鏡の奥の瞳を光らせ、私を窺い見た。本当に、先生は冗談が上手い。

 久々の高原先生との会話は最初から最後まで、この薄茶色の毛玉が詰まっていた。


 中からかさかさと音がする、小さな紙の箱を持って私は生物室を後にした。

 たぶん、この時の私は地に足つかず、数センチほど浮いていた。歩いても足の感覚がなく、むしろ進むたびに地面と足との距離は離れていく。このまま空の上まで歩いていくのかと思われた。そのくせ心は鉛のように重かった。

 とぼとぼと一人、静かな廊下を抜け、昇降口で靴をはきかえる。部活帰りの少女たちが横をすり抜け、私の鼻に若くて甘いにおいと、ほんの少しの汗くささを残した。長く黒い髪がなびき、後を引く。誰かに似ているようで、無意識に視線を追った。

 その視線の先。

 校門へと続くゆるやかな坂の手前に、夕日を逆光にして立つ男がいた。表情は見えないが、たぶん私をじっと見据えている。

 私は彼を、よく知っている。

「ねーちゃん……」

 劉生だった。聞こえないほど小さな声で呟き、劉生は大股で私に近寄ってくる。

 驚かなかった。たぶん電話してきたときも、どこか近くで見ていたのだろう。でなければあんなタイミングで割って入るものか。今日この高校に来てから――いや、もっとその前から、監視されていたのかもしれない。

 劉生は目の前に立つと、強引に私の腕を取った。危うくハムスター入りの紙箱を落としかけ、ひやりとする。

「ねーちゃん、帰ろう」

 劉生は小さな命の危機にも眉一つ動かさず、私の腕を引っ張った。弟の冷徹さに寒気がする。私を掴む手も、彼の纏う空気も、どこか冷え冷えとしていた。

 そのまま少し、私は劉生に引かれて歩いた。すれ違う高校の生徒たちが、時おり好奇の目を私たちに向ける。

「劉生、待って、待ってよ」

 返事はなかった。振り向きもしない。劉生の態度が、私は気にくわなかった。

「どうしたの、怒ってるの?」

 傍から見れば、尋ねる私の方が怒っているように見えただろう。

 小さな道路に面した、まばらに木々の生える校門の前で私は足を止め、逆に劉生の腕を引っ張った。急に動かなくなった私に、劉生は訝しげに振り返る。

「怒ってないよ」

「じゃあ、なんでそんな不満そうな声なの」

 劉生は目を伏せ、口を閉ざした。この上なく不機嫌そうだ。

「答えなよ」

 風が流れ、私の短い髪がそよそよと揺れる。昼間は暑い暑いと言っていても、なんだかんだでもう秋だ。日が暮れはじめると、日中の熱が嘘のように引いていく。風は心地よいというよりも、冷たいくらいだ。

 だから、握られた手の熱が、妙に生々しく感じた。

「……ねえ、答えなよ劉生。どうして川崎さんのこと、黙ってたの」

 劉生は俯いたまま、私を見ようとはしない。

「どうして何も言わないの」

「ねーちゃんには関係ない」

「関係ないなんてこと、ない!」

 私は声を荒げると、劉生の手を払った。劉生は驚きと不快さの混ざったような目で私を見下ろした。いきなりどうしたのだ、と言葉に出さずに言っている。

 私は自分の手のひらを見つめた。

 ――いやなんだ、手をつなぐの。

 ここにいると思い出す。劉生と手をつないでいた、私ではない別の少女の後ろ姿。二人が並んで、校門の影に消えて行く様子。二人を見かけても、声を掛けずに見送る、私。

「私が」

 それをさみしい、と思っていた私。高校時代の幻影だ。私は短く目を瞑り、幻を振り払う。

「……私が悪かったの?」

「違う!」

 一度離した手を、劉生は再び掴み返した。先ほどよりも強い力で、私の軟弱な骨がきしむ。

「ねーちゃんは悪くない。ねーちゃんが何か思う必要はない。悪くないんだ」

 勢い込んでそう言いながら、劉生はもう一方の手を私に伸ばした。抱きしめられるのかと身構えたその手は、私の肩を強く握るだけにとどまった。ごく自然に「抱きしめられる」と想像した時点で、姉弟としてだいぶ間違っていることは知っている。

「俺は、ねーちゃんに責任を感じてほしくないから」

「でもそれじゃあ、なんで川崎さんは」

「アヤも、もちろん悪くない」

 劉生は川崎さんをかばう。

 やけにかばう。

 心の隙から、高校時代の私が顔をのぞかせている。ひっこめ。お呼びじゃないんだ。

「劉生」

「誰も悪くない」

 ため息のように、劉生は呟いた。

「…………悪いのは、全部俺だ」


 ――それじゃあさ。

 無言で私を連行する劉生の肩を見つめつつ、私は心の中で呼びかけた。さっきから、現実に声を出して呼び止めても、足を止めようとしても、劉生は全く動じずに私を引きずり続けた。高校から駅までの道のりを、手をつないだまま二人黙々と歩く。

 傍から見れば、恋人同士に思われるだろうかと言われれば、たぶん違う。どちらかと言えば犬と飼い主に近い。

 私を引く劉生は無情で、体力値がほぼゼロの私を考慮しない早足だ。劉生に合せて歩くだけで、私の息が上がる。もっと体力値にパラメータを振り分けておくべきだった。幼小中高大、全てにおいてインドア派だった私に死角はない。

 ――劉生の、何が悪かったの。

 ぜいぜいと呼吸をしながら、私は小動物入りの紙箱を小脇に抱え、鞄に手を入れた。すぐに指先に、四角い金属の角が触れる。携帯電話だ。やかましいと携帯を鞄に放り込んで、そのまますっかり忘れていた。

 ――劉生がなにをしたの。

 電源の切れた携帯電話を取り出す。黒い画面を見ると、高原先生との会話を思い出した。

 川崎さんの妊娠。退学。

 いや、信じたくない。信じない。きっと他の理由がある。きっと。

 携帯電話の電源を入れる。私は条件反射のように、着信の履歴を見た。おびただしい劉生の着信は、ここ最近見たホラー映画よりも身に迫る恐怖だった。やはり映像よりも実体験の方が怖い。

 その恐怖の着信群の中に、ひとつ、違う番号が紛れ込んでいた。

 私はこれぞ、救いの神であると思った。


 ○


 これは、劉生と別れたのちに自室で聞いた留守電である。

「成瀬さん? 外村です。えーと…………もしかして、最近俺、避けられてますか? すみません、一度話がしたいです。連絡ください」

 外村君は聡い男だ。

 私は布団の上にごろりと横になると、そんな遠慮がちな外村君に対して、実に無神経なメールを送った。

 要約すると以下のようになる。


『それはさておき、外村君に聞きたいことがあります』

 送ってから三十秒もたたずに返信が来た。神速だ。現状打破のための救いの神は、メールの返信さえ神の速度を持っていた。

『聞きたいことってなんですか?』

『川崎さんのことについて』

 次は少し長かった。

 長すぎて、私は布団の上でいつの間にか眠りについていた。よって、メールを見たのは翌日の朝だった。ごめん。


『いいですよ。

 今度、俺とデートしてくれるなら、俺の知っていることを教えてあげます』


 なかなか癖のある神だったようである。

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