表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/36

 藤野は私と同じく、実家が近くにありながら一人暮らしをする親不孝者だ。似た者同士と仲良くなったのはいいが、家賃光熱費はすべて親持ち。おまけに仕送りをいやらしいくらいもらっていると聞いたときは、しばらく口を利きたくなかった。

 そんな藤野の実家までは、最寄駅から電車で二十分揺られた先にある。さすがに交通費まで支給されなかったら、私はこの話を蹴っていた。


 我が暑苦しき城から一転、冷房の効いた肌寒いくらいの部屋で、私は懐かしい問題達と向き合っていた。およそ一年半前。受験期には苦労した問題を、藤野の弟である裕介君が解いている。適当に問題を見繕って、あとは解くのを待つばかり。意外に楽な仕事だ。それに裕介君は藤野の弟とは思えないほど物わかりが良かった。

 裕介君は座卓に向かい、私はその横でぼやぼやと、彼に解かせている問題を眺めていた。初秋のこの時期なら、まだそう難しい問題は出てこない。基礎の積み重ねと簡単な応用、それにちょっとした引っかけ問題。わかっていれば解けるはずだ。少なくとも、一般的な大学生ならこれくらい解いてしかるべきだろう。

「成瀬ー」

 私はペンを持ち、問題の引っかかりやすそうな部分を自分でも解いてみていた。

「成瀬ー、ねえなるせー」

 肩が揺れて視界がぶれる。描いていたグラフが恐ろしく難解になった。私は無言で消しゴムを取る。

「なるちゃーん。なっちゃん、なーるせっ」

 背後から甘えるように首に抱きついたかと思えば、きゅっと殺し屋の手腕で絞めにかかってくる。危うく意識が飛びかけた。生きている代わりに、解きかけの問題が消えた。消しゴムの反逆である。

「なああるううせええええ」

「うるさいなあ!」

 私を揺する腕を取り、私は背後を振り返った。そこにいるのは面倒くさいの代名詞、藤野だ。退屈を塊にしたような形状で、私にとりついている。

「裕介君が勉強してるんだから、静かにしなよ。姉でしょ? 自分で呼んだんでしょ?」

「だって退屈なんだもん」

 面倒くさい。

「成瀬が遊びに来てるのにさあ。暇だよ。ひまー」

 そう言って、藤野は笑いながら、私に掴まれた腕まで揺する。怒られていてさえ、相手にされることが嬉しいらしい。

 致し方なく、私は手に持っていた問題を藤野に渡した。

「じゃあ、はいこれ」

「うん?」

「暇なら解きなよ。裕介君がやっているのと同じ問題」

「えー……」

 退屈しのぎにはちょうどいいだろう。私も受験期は、暇さえあれば問題を解いていたものだ。

「先に解けた方が、もう一人が解けるまで休憩ってことにしよう。ほら、裕介君も解き始めたばっかりだし。早く終われば構ってあげるよ」

 渋々受け取る藤野を見やり、私は自信を持って言った。

「これくらい、すぐに解けるよね、藤野?」


 結果はしかり。

 私は裕介君と短い休憩を取っていた。藤野の母君がくれたジュースを舐めつつ、しばしの歓談をする。

「成瀬さんって、イチコーの卒業なんですよね。あそこ、いい学校ですよね」

「そうかなー」

 イチコーとは、私の母校の愛称だ。第一高校、略してイチコーである。

「どうですよ。友達が通っているんですけどね。校則はゆるいし、学祭は派手にやるし、女子は可愛いですし。楽しそうですよ」

「へええ」

「そんな他人事みたいな」

 私の反応に、裕介君は苦笑いをした。くしゃりと顔を歪めると、裕介君と藤野はさすがに姉弟らしく似ている。そんな藤野姉弟にうっかり劉生と私を重ね合わせ、私の表情も苦くなる。

「高校のことはあんまり覚えてないんだよ。卒業してからも、一度も行ってないしね」

 高校時代は我が青春の暗黒時代である。できることならあまり思い出したくもない。

「もったいないですねー。部活とかも顔出さないんですか?」

「運動部じゃなかったしなー」

 ほとんど帰宅部同然の生物部だった。いつもハムスターを撫でるだけの日々に、たいそうな愛着はない。

「学祭に行ったりとか」

「一緒に行く相手いないし」

「えっ、友達とは?」

 彼の質問に答えず、ぱちぱちと私は無言で瞬く。途端に、裕介君の顔がしょぼくれていった。居心地悪そうに体を縮め、ジュースを一口含む。地雷を踏んでしまったときの顔である。

「もしかして成瀬、友達いなかったの?」

 そこへ裸足で地雷を踏み直す。さすが藤野である。解きかけの問題を前に、やる気のない態度でシャーペンを回す。それがなかなか華麗なペンさばきで腹立たしい。普段から講義中に技術を磨き続けた結果だろう。よどみなくペンを回す技術と引き換えに、彼女の単位は華々しく散っていったのだ。

 まったく悪気のない藤野の隣で、裕介君がばつの悪い表情で私を覗き見ている。彼が姉の性質に影響を受けなくて、本当に良かった。裕介君は将来、真っ当な人間に育ってくれるに違いない。

「まあ、その性格だもんね。友達できない理由もわかるわー」

「お姉ちゃんには言われたくないと思うよ」

 慣れたように裕介君が咎める。藤野の性格は家でも外でも変わらないらしい。

「デリカシーないし、好き勝手言うし。それでよく友達なんてできるよね」

「人間的魅力だよ」

「冗談じゃない」

 裕介君が怖気を奮ってそう言った。対する藤野は不満の顔である。眼前の問題はすっかり忘れているらしい。ペンを座卓に叩きつけ、半ば膝立ちになって滔々と語る。

「私という人間が素晴らしいから、自然と人が集まって来るんだよ。だから好きなことを言っても許される。むしろ好きなことを言う私のことを、みんなが好きなんだよ!」

「そんな性格だから彼氏もできないんだよ」

 裕介君、それは言っちゃいけない。大きな地雷が埋まっているのだ。

「彼氏ができないことの何が悪い」

 膝立ちだった藤野が、すとんと腰を落として言った。今度は静かな声だ。表情はなく、口角がわずかに上がっている。怒っているのか笑っているのか判別できなかった。

「むしろ彼氏ができたからどうだって言うの。そういう、年頃になったら彼氏ができないといけないみたいな風潮、私はどうかと思うよ。それで無理して恋人作って、結局別れるんでしょ? そんな無駄な時間を過ごすくらいなら、私は学生らしく勉強を恋人にする」

「お姉ちゃん、そういうところが彼氏できない理由だよ」

 言ってやるな、裕介君。胸に刺さる。

 私は二人のやりとりを聞きながら、心の中で藤野を擁護した。なんだかんだ言っても寂しいのだ。特に藤野は、勉強ともだいぶ昔に破局している。心を慰めてくれるのは詭弁とペン回しの技術くらいなのだ。

 そうして藤野を擁護する言葉さえ、私の胸に刺さる。かく言う私も同じく寂しい大学生だった。

「別に無理しなくたって、大学生になったら彼氏くらいできるでしょ。そうじゃなくても、好いたり好かれたりとかさあ」

「ない」

「ちょっとくらい。普通に」

「ない」

「いや、お姉ちゃんにはなくてもさ」

 ちらりと裕介君が私を見る。次いで、藤野も見る。なにかを求めるような二人の視線に、私はいやな予感を覚えていた。予感と言うよりは確信だ。この時私には、裕介君が地雷原に立つ兵士に見えた。

 裕介君が口を開く。

「普通は、彼氏くらいできますよね、成瀬さん」

 すまない、裕介君。私の地雷は一つではないのだ。

 私は無言のまま瞬いた。おそらく藤野と同じ表情をしている。

 裕介君の顔から、血の気が引いていくのが見て取れた。


 ○


 どうも、歩く地雷原こと成瀬です。

 裕介君に勉強を教えながら、私はずっと暗黒の高校時代に思いを馳せていた。

 思えば一、二年のときは平和だった。友達もいた。部活ではハムスターを飼っていた。顧問の先生は私の受験相談にも応じてくれた、いわば恩師と言えよう。劉生目当てで近付いてくる後輩もいたりした。

 そうして知り合った人々とは、町で偶然会えば話をする。たまにメールが来れば返事をする。外村君のように、新たにバイト仲間という関係を築くことだってある。

 だけどそれだけだ。自分から誘わない。会わない。高校時代を思い返すようなことはしない。

 私は卒業してから一度も、母校に帰ったことがなかった。

 何かの拍子に、当時のことを知ることが怖いのだ。

 ――私が破局させた一組のカップルの顛末を。

 私はずっと逃げ続け、そして地雷だけを埋め続けてきた。一年半、ひたすら勤勉に地雷を埋めてきた甲斐あって、最近よく破裂する。


 藤野から三百円を握らされ、交通費をもらった。

「じゃあ、また来週よろしくね」

 少し日が陰り始めた頃合いだった。午前中から勉強を教えてこの時間。今さらすぎるがどう考えても割に合わない。

「成瀬さんの教え方、すげーわかりやすかったです。またお願いします!」

 しかし裕介君にこう言われては、断るわけにもいくまい。裕介君は姉と違って飲み込みが良く、教えたことはまじめに実行。わからないこともちゃんと質問をする。実に張り合いのある生徒だった。藤野の場合はこうだ。「わからないところはある?」「全部!」「帰れ」

 玄関で暇を告げ、私は藤野家を出た。藤野家の外観も立派なもので、我が実家よりも一回りは大きかったことは余談である。なにげに彼女は金持ちだ。それでどうして三百円。もう少し給料を上げてほしい、切実に。


 庭付き一戸建ての並ぶ閑静な住宅街をしばらく歩くと駅前に出る。私はぼやぼやと空を見上げながら道を行き、ぼやぼやとしながら切符を買った。

 そしてぼやぼやと、帰路とは違う路線を選ぶ。

 高校に通っていたころ、いつも通学に使っていた路線だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ