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九月上旬/厄介の上塗り 1

 問・恋とはなにか。

 藤野曰く、

「私たちにとって、まったく関わりのないもの」

 ちなみに、店長の恋は華々しく散った。外村君には彼女ができた。私にはもう、恋というやつがなんだかわからない。以前感じた、「外村君ってもしかして私のことが……!?」などという恥ずかしい妄想は焼いて捨ててしまいたい。以前にも同じ仕打ちにあったはずなのに、私も懲りない女である。

 そういうわけで、今日も今日とて、私は藤野と色気のない生活を送っていた。


 私はいまだ、とろけだすような怠惰な夏休みの只中であった。金もない、することもない、彼氏もない。唯一の労働であるバイトも休みとなれば、私にできることは、朝から晩までなにをするでもなくゴロゴロすることのみである。そこへ藤野も加わって、湿った部屋でだらけていると、空しさも二倍増しだった。

「恋なんて言うのは、一部の選ばれた人間にしか与えられないものなんだよ」

 藤野が私の扇風機を占領し、さらにTシャツではしたなく扇ぎつつ言った。私の部屋だと言うのに、私自身は寝そべりながらうちわで風を起こす。この何とも言えないやりきれなさが暑さを助長する。フローリングの床が冷たいのだけが、私の火照った心を慰めてくれるのだ。

「顔が可愛くて、お洒落で、ちょっと天然の英文科じゃなければ男は寄ってこないし、寄ってこないんじゃ恋もできないじゃん? 私たちみたいなのは、必死に勉強していい成績取って、じめっとした研究室にこもるしかないんだよ。勉強を恋人にするんだよ」

「そんなんいったって、藤野、勉強にすらフラれてるよね」

 どうやら夏休み前の試験は惨敗だったらしい藤野に言われても、何ら説得力がない。取得単位数は教えてもらえなかったが、噂ではどうやら一桁だったそうだ。まあ、藤野は人より長い大学生活で、勉強さんとの仲を深めると良いだろう。

「っていうかさ、なんでそんなこと聞くの、成瀬」

 藤野は扇風機を睨んでいた目を私に向ける。私は全く疑われるような要素が見られない、あまりにも自然な動きで視線を逸らした。見るべき場所がなく、天井の染みやら、室内灯の中に入り込んだ虫の死骸やらをごくごく自然に眺めながら、なにか言うことを探した。

「いや、ほら、劉生がさ」

「あー、劉生くん。あれは選ばれし人間だわ。ゲームなら勇者だわ」

 藤野は手を叩いた。納得してくれたようだ。

「弟なのにねえ、いいよねえ。劉生くんなら恋に落ちまくりでしょう。道を歩くだけで二、三回くらいは恋に落ちるでしょう。劉生くんにとってみれば、その辺の通りだって恋の落とし穴だらけなんでしょう」

 暑さのせいか、藤野の言うことの意味がよくわからない。藤野の発言がおかしいのか、言うことを理解できない私がおかしいのかすらも判別できなかった。

「でも、懐いてくれるからいいよね。いいなー、かっこいい弟。成瀬、劉生くんに彼女できたら泣いちゃうんじゃない?」

「……泣かないよ」

「そう? めっちゃ仲良いから、絶対寂しくなるよ。だって彼女出来たら、やっぱりねーちゃんよりは彼女でしょ」

「…………普通はそうだよねえ」

 寂しくないから、早く劉生に普通の彼女ができてほしいものだ。しかしあの男、もてるくせに彼女はできず、代わりにストーカーを二人もこしらえた。私はため息を吐く。考えたくない、考えたくないと思いつつ、どうしていつも劉生のことになってしまうのだろう。

 少し会話が途切れた。静かになると、暑さと蝉の声が染みわたる。もう九月だというのに、夏は日本から去る気配がなかった。

 しばらく扇風機の風に目を閉じていた藤野が、また騒ぎ出した。

「でも、いいなあ劉生くん。私、劉生くんみたいな弟欲しかったよ。ちょーだいよ」

「あげるよ」

「もらうわ」

 劉生の譲渡が完了した。

「あれ? でも、藤野も弟いるでしょ。なんだっけ、名前」

「ユースケ」

「そう、裕介くん。可愛いんじゃないの?」

 私が言うと、藤野はかつて一度も見たことのない形相をした。口を曲げ、顔全体にしわを寄せ、苦いものを食べたが飲み下せず、まだ口に残っているというような顔つきで私を見る。

「可愛いわけないじゃん。生意気だし、たまに家帰ると邪険に扱われるし。今は受験生だからめっちゃピリピリしてるし――」

 ふと、藤野が言葉を切った。扇風機を見つめ、あー、と長い声を出す。声は扇風機の羽に巻き取られ、小刻みに震えた。

「成瀬さ、暇ならバイトしない?」

「は?」

 藪から棒に何を言う。

「弟がさ、勉強教えろって言うの。私に。わかる? 私に」

「うん?」

「教えられるわけないじゃん。先々月の講義の内容も忘れたのに、大学受験の勉強なんて覚えてるわけないじゃん」

 藤野は誇らしげに胸を張る。このよく分からないプライドは、持っていても役に立つことがないので早々に捨てるべきだと思う。

「だからさ、代わりに教えてやってよ。バイト代は出すからさ」

 私はむくりと起き上がり、束の間黙ってうちわだけ扇ぎつづけた。なんだ、結局可愛がっているではないか。私は藤野の苦々しい顔を見つつ思った。

「家庭教師かー……」

 どこを受験するかにもよるが、藤野よりは役に立てるだろう。知り合いの弟だし、まあ、多少軽い気持ちで引き受けてもいいだろうか、と私は考え始めていた。ここしばらくバイトもないし。というより、居心地が悪くてシフトを少し減らしたのだ。恋に破れた店長と、袖にした先輩と共に仕事をするのも気まずいし、外村君と顔を合わせるのも避けたかった。なんだかんだで、先輩の言っていたことが頭に残っているのだ。妙に意識して、いや、その、なんというか。

 いやいやいや。私は頭を振ると、上擦った声を上げた。

「い、いつからどのくらい教えればいいの?」

「いつでも。暇な時に来てくれればいいよ。まあ、教えてくれるんだったらなんでも」

 なんでもいいが一番困るって、お母さんがいつも言っているでしょうに。

「それじゃ、バイト代はどのくらい?」

 私が尋ねると、藤野は少し思案してから、真面目な顔で言った。

「三百円」

「え」

「三百円」

 真面目な顔である。

「……時給?」

「日給」

 藤野は繰り返した。

「日給、三百円」

 きょうび、小学生だってもう少しもらっているだろう。

 無言になった部屋の中に、扇風機の回る音と蝉の声だけが響き続けた。


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