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 この日の記憶は抹消してしまいたい。

 普段からそこここへ飛びがちな私の意識だが、こういう時に限ってはしっかりと地に足をつけ、「てこでも動かんぞ」と私の腹のあたりに陣取るのだ。要するに、劉生にアパートまで連れ去られるまでの十数分、あるいは数十分。私は道行く人々の前に、濡れた雑巾の如く抱えられた姿を晒し続ける羽目になった。

 はっきり言って、誰かを横抱きして歩く男を見たら、私だって注視する。抱きあげられているのは誰なのか。いったい二人はなんなのか。それを知るまで眠れない。果ては下種な妄想と共に後をつけた末、二人の姿がいかがわしい建物に消えて行くまで追い詰める所存である。

 といったことを自分に当てはめ、恥ずかしさで涙目になりながら顔だけ隠していた。堂々とした劉生の、恥の概念はどこへやら。劉生のアホは、私は歩けると言うのに頑として譲らず、顔を上げて早足で私のアパートへ向かったのだ。

 さて、道中では全く頑固だった意識というやつは、自室にたどり着いてからはなんと不甲斐ないことか、するりと溶けるように消えたのだ。いや、溶けるように見えて実は少し残っていたり消えたりする。夢うつつに近い状態で、私は劉生によって布団に転がされ、タオルやら水やら、かいがいしく世話をされたことを曖昧に覚えていた。ただしあくまでも曖昧に。いつのまにやら私の意識は完全に溶けて消え、夢の中へと落ちていた、らしい。


 目が覚めたら布団の上だった。カーテンの隙間から、風と共に太陽の光が舞い込む。どうやら一日たったらしい。と思って携帯電話で時間を確認すれば、二日たっていた。なん……だと……。

 熱はすっかり下がっていた。咳も寒気もない。寝起きの気だるさが残っていたが、もう風邪とは関係ないだろう。

 喉が渇いた気がしたので、私は布団から起き上がり、とぼけた頭でぼやぼやと台所へ向かった。

 冷蔵庫を開け、ペットボトルのお茶を取り出して口をつける。

 そこで初めて気がついた。着替えている。

 灼熱のデートの際に来ていた、濡れそぼった私の忌まわしい服はどこ? 思わずベランダに目をやれば、ひらひらと風に揺れるシャツがカーテンの合間から見え隠れ。

 私は茶をもう一口飲み、息を吐き、発汗した。飲んだ茶がその場で全部汗になる。

 え、じゃあなんで私着替えてんの? 完全に寝巻のくたびれたジャージ姿だ。大きな声では言えないが、下着も濡れた様子はない。しかも私に着替えの記憶はない。ねえ、どういうこと? 寝ている間に乾いたって? 説明しろや劉生。

 アウトかセーフか。どちらかというと大いにアウト。

「劉生、劉生!」

 私は鬼気迫る顔で狭い部屋を探した。用足しの途中でも構うものかと、トイレの中まで確かめた。しかし劉生の姿は、部屋のどこにもない。逃げたのだ。汚いなさすが劉生きたない。

 私はへたりとトイレの前に座り込む。怒りと恥ずかしさで、そのまま地面に埋まりそうだった。しかし、実際劉生がこの場にいたのならば、埋まるのはあいつの方だ。そのまま墓穴も掘ってやる。

 ――いや、もしかしたら朦朧とした中で、自分で着替えをしたのかも。

 もう、そうと信じるほかにない。恥じらう乙女の私は、倒れそうになりながらも頑として肌を見せず、一人で着替えきったのだ。そうだ。それ以外にありえない。そう考えてみれば、自分で着替えをしていたような気がしてきた。

 私が自分の記憶を練り上げているとき、玄関からドアベルの甲高い音が響いた。すわ、劉生か! と思わず咆哮を上げそうになって、止める。すぐに聞き覚えのある声が続いたのだ。

「成瀬ー、見舞いに来たよー」

 先輩の声であった。


 奇跡である。

 先輩は私に値札のついたさくらんぼを渡し、殊勝な顔でこう言った。

「ごめん、成瀬。ちょっと振り回し過ぎたね。あたし、そんなに具合が悪いって気づかなくて」

 あの、同性相手には天上天下唯我独尊を地で行く先輩が、素直に頭を下げたのだ。一生に一度、起こるか起こらないかの奇跡である。こんなことで一生に一度の奇跡を使うくらいなら、宝くじでも当てて欲しかった。

「せ、先輩どうしたんです? 風邪でも引いたんです?」

「風邪を引いたのはあんたでしょう」

「それはそうですけど」

 ようやくカーテンを開け、布団を丸めて端に投げた部屋で、私と先輩は向かい合っていた。客人と言うことで茶を出そうとしたら、このまますぐにバイトだと断られた。聞けば、本日シフトの私の代わりに先輩が入ってくれたらしい。

「悪かったと思ってるのよ。あたしも、吉田や店長も」

 先輩は視線を落とし、長い息を吐いた。私はいまだ、信じられない気持ちで先輩を見ていた。彼女の口からまともな言葉を聞いたなんて、生まれて初めてではないだろうか。

「公園でさ、劉生くんにもすごい目で睨まれたし、光一にも後で怒られた。なんで具合が悪いのに連れまわしたんだ、って」

「……外村君が?」

「そ。光一もかなり怒ってた。光一、ちょっと成瀬のこと見ただけなのに、あたしよりも早かったね、具合悪いってわかるの」

 へえ、と私は納得する。どうりで先輩が殊勝になるわけだ。先輩の言うことを聞かせるには、やはりイケメンが効果的である。

「成瀬、本当にわかってるの?」

「はい?」

 先輩が私を見て、面倒そうに唇を噛む。

「あの、女になら誰にでもいい顔する光一が本気で怒ったのよ。あたしや吉田に。成瀬のためによ」

 なるほど、さっぱりわからん。

「外村君、案外いい人ですよね」

「あんたにとってはね」

 はー、と先輩がわざとらしいため息を吐く。私はその様子を、瞬きをしながら見つめた。

 正直に言えば、まったくわからないわけではない。なんとなく、ちらちらと頭の中で「そうなのかなあ」と思わないでもないことがある。しかし私は、それを気がつかなかったことにするのだ。

 これ以上、厄介ごとはごめんだ。


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