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 ――ごめん。

 そのメールは、やけに殊勝なひと言から始まっていた。

 眠気はすっかり覚めていた。横たえていた半身を起こし、覚悟を決めてメールを開いた私は、その文面に息を吐く。安心したような、腹立たしいような。ごめんで済んだら警察はいらない。

 それでもまあ、謝って反省しているのならまだましだ。すでに足を踏み外した弟だが、後戻りできない場所にいるわけではないのだろう。姉として、そう信じたい。

 絵文字も顔文字もない、劉生にしては珍しく味も素っ気もない黒い文字列を、私は緊張感を交えつつ追った。


 ごめん。

 嫌がることをするつもりはなかった。昨日は、腹が立って冷静じゃなかった。本当にごめん。

 でも、俺は本当に姉ちゃんが好きだ。そのことはわかってほしい。

 好きだから、もうこんなことはしない。次は、ちゃんと優しくする。


 私は携帯電話を、壊さないように気を遣いつつ思い切り枕に叩きつけた。二つ折りの携帯がぱふんと腑抜けた音を立てて、枕の上に弾む。

 ――あいつ全然わかってねえ!

 素直に謝るのかと思いきや、とんでもない地雷を残していきやがった。「次は」ってなんだ。「優しく」ってなにをだ。謝る部分が、まず根本的に間違っている。

 私は頭を抱えて、再び布団の上に崩れ落ちた。体調不良に寝不足という惨状に、頭痛までもがもろ手を上げて参加してきたのだ。脆弱の名をほしいままにしたインドア派の私に、この一斉攻撃を耐えられるはずがない。

 劉生はすでに、人類の大いなる一歩を踏み外している。元の道に戻そうなどと思った私が間違っていた。だいたい考えてみれば、メールが通常の受信フォルダに入っていること自体がおかしい。あいつ、勝手に設定を変えやがった。つまりは私の携帯電話を許可なく弄ったということであり、つまりは変態ストーカーめ、朽ち果てろ。

 うんざりするくらいに疲れてしまった。重たく落ちてくるまぶたに、私は抵抗をする気持ちすらわかなかった。考えてもどうせ、劉生のことばかり浮かぶのだ。

 もう考えたくない。できることなら、夢も見ないくらい深く、沈むように眠りたい。


 ○


 劉生と手を繋いで町を練り歩くという夢を見て、最悪の気分で目を覚ました。フラグなんて軽い気持ちで立てるものじゃない。

 布団の中で寝返りを打って、私は違和感に気がついた。体がやけに重たい。腹の中に鈍重なおもしを詰め込まれたような気分だ。唇がかさついて、喉の奥がささくれ立ったようなかゆみを訴えていた。何度か咳をする。

「風邪ひいた……」

 昨日のへろり具合が、そのまま今日の体調不良につながったのだろう。この辺りも劉生に責任を押し付けていいはずだ。

「……のど乾いた」

 ついでに少し腹も空虚だ。食欲があるわけではないのだが、なんとなく腹部が物欲しげに疼いている。小腸あたりから、そろそろなにか吸収させてくれと聞こえてくる。枕元の目覚ましを何気なく眺めてやれば、いつのまにやら夜の十時すぎ。ずいぶんと長く眠っていたらしい。

「…………みず」

「はい」

 立ち上がるのもおっくうな私の前に、透明なグラスが差し出される。私はわずかに身を起こし、透き通った水の入るそれを受け取った。手のひらに、ひんやりと冷たいガラスの感触がする。

「どうも」

 そう言って、一口水を飲んだ。喉を滑り落ちる水は、さながら乾いた大地に降る雨のようだ。なんという甘露。なんと美味い水であろうか。

 待てよ。

 ぞっと血の気が引いていく。寒気がするのはどうやら風邪のせいではないらしい。私は両手でグラスを抱きながら、ゆっくりと顔を上げた。

「は、は、ハルちゃん! どうしてここに!?」

 言ったとたんにむせて、私は咳を繰り返した。

「だめですよ、具合が悪いのにそんな大声出したら」

 これが大声出さずにいられるかーい。

「ゆっくり寝て、体を治さないと。劉生さんが心配していましたよ」

 私の背を撫でながら、大きな瞳を心配そうに細めるのは、紛れもなくハルちゃんだった。長い髪をひとつに纏め、動きやすそうなシャツとホットパンツといういでだちだ。アクティブストーカーは機動力が命。今からでも劉生を追いかけて行きそうな姿の彼女が、なぜこんなところへ?

「そもそも、どうやってこの部屋に。いや、それ以前にどうして私の具合が悪いと。あ、いや、劉生が心配って」

「落ち着いてくださいよ、お姉さん」

 ハルちゃんが困ったように私の顔を覗きこんだ。片手はなだめるように私の肩を叩き、もう一方の手は困惑してこぼしそうなグラスを取り上げる。冷静沈着、何もかもが当たり前のような所作だった。まるで困惑する私の方が異常みたいではないか。

「劉生さんに、お姉さんの具合が悪そうだから見てくれって頼まれたんですよ。だからお邪魔して、ちょっと看病です。お姉さんは、あたしに任せて寝ていてくださいね」

 当然のようにおっしゃる。間がいろいろ端折られすぎて私の理解が追い付かない。

 気になりすぎて眠れる気がしないので、端から聞いていくことにした。

「あの……鍵かかってたよね?」

 バイト帰り、意識朦朧としていても鍵だけはかけた記憶がある。がちゃんと下す鍵の音は、狭いアパートの最大の防衛線だ。かつてここを突破したものは、合鍵を作ったあのアホしかいない。

「かかってましたね」

「かかってたよねえ?」

 またしても当然のようにおっしゃる。私はおうむ返しに聞き返した。なにか、私が間違っているような気がしてくる。

「あんなの鍵のうちに入りませんよ」

 やだ、ハルちゃんの笑顔ちょうまぶしい。

 屈託なくハルちゃんは笑う。自慢するでもなく、当然のように。ははは、と私も笑い返しておいた。それ以上は聞いてはいけない世界の話なのだろう。この話はなし、やめやめ。

「えっと、劉生に頼まれたって言うのは?」

 私は二つ目の疑問を口に出す。劉生がハルちゃんに頼ることなど、天地がひっくり返ってもあり得ないと思っていた。劉生が唯一恐れ、逃げ惑う天敵、それがハルちゃん。この二人が結託しては、地上人類に勝ち目はない。

「昨日の一件で、劉生さんはとんでもなくお姉さんに顔を合わせ辛いらしいです。でも、お姉さんはずっと具合が悪そうで、気になって仕方がないんですね。鍵のかかった家に入れるのは、劉生さんの知り合いの中だとあたしだけみたいで、それでお鉢が回ってきました」

 ああ、最低限の気まずさは持っているのか。それでいてこの人選。安心できるようなできないような。

「……そもそも、なんで劉生は私の体調を知っていたわけ」

 三つ目の疑問であり、最大の謎であり、そして最も答えを知りたくない質問を、私はハルちゃんに尋ねた。

 ハルちゃんは大きな瞳をぱちりと瞬かせる。

「そりゃ、ずっと見ていればわかりますよ」

「ずっとって言ったって、劉生と会ったのは昨日が最後だし」

 具合を悪くしたのは今日。バイトの中頃からだ。いくら劉生だからって、あんなことがあった後で、まさか。

「劉生さんはずっとお姉さんを見ていますよ」

「し、四六時中ってわけじゃないでしょう」

「ずっと見てますよ」

「…………まさかそんな」

「ずっと」

「……うそでしょ」

「見てますよ」

 はっは。ここは笑いどころに違いない。やだなあ、今日のハルちゃんはやけに冗談が上手い。

 ――思わず背後を振り返ってしまった。誰もいない、当然だ。ストーカーでもあるまいに、ずっと見ているなんて、そんなこと……。

「お姉さんくらい隙があれば、ストーキングもしやすいんですけどねえ。劉生さんがうらやましいです」

 そういやストーカーだった。ハルちゃんと肩を並べる男だった。

 頭痛が悪化の一途を辿る。頭を押さえた私に、ハルちゃんは体を横たえるように促した。

「あたしが来たからには安心ですよ。お義姉さんに接するように、かいがいしく看病させていただきます。他のこともほっぽってきちゃったけど、何と言っても劉生さんのためですからね!」

「……他に用事があったの?」

 私は素直に枕に頭を収めながら、明るい笑顔のハルちゃんを見上げた。なんだよ劉生、迷惑かけまくりじゃん。

「大した用じゃないですよ。ちょうど行き詰っていたところでしたし」

 へいきへいき、とハルちゃんは片手を顔の前で振る。

「それより劉生さんのお願いの方が大事ですよ。こんなこと、一生に一度あるかないかですもん」

「ハルちゃん……」

 そうは言えども、ここにいるのは想い人の劉生ではなく、その姉なのだ。弟のことなのであまり悪くは言いたくないが、ぶっちゃけてしまえば、ハルちゃんは良いように使われているとしか思えなかった。

「なんです?」

 あどけないハルちゃんの黒い瞳が、私を映し込んだ。やはりハルちゃんは美少女だ。劉生とさえ知り合わなければ、今頃は真っ当に四、五人くらいの彼氏でも作って、破廉恥かつふしだらな花の女子大生生活を謳歌していることだろう。

 我が弟ながら、どうしてあんな男に引っかかったのか。劉生のいったい何が良かったのか。私には今一つ理解できない。

 私はハルちゃんの顔を覗きながら、実に根本かつ今さらなことを口に出した。

「ハルちゃんは、どうして劉生のことが好きなの?」

 ハルちゃんの目が、ゆっくりと見開かれる。冗談ではなく、これは本気の質問なのだ。


 恋とはいったい、なんぞや?

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