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 ついカッとなってやった。今では反省している。

 私は携帯電話を握りしめ、暑く湿っぽいアパートでじめじめと考えていた。昼間の私はなんと冷静だったことだろう。冷静すぎて笑ってしまう。おかげで劉生をだまして呼び出して、ストーカーと引き合わせるなどという悪行に手を染めたのだ。

 約束の時間はもうすぐだ。夕日は消えかけて、間もなく夜になろうというところだった。開け放されたベランダからは、少し冷たくなった風がカーテンを揺らし、部屋に夜の気配を運び込む。

 さて、そんな時間にTシャツとよれよれのショートパンツというだらしない格好で、私はなにをしているか。劉生に連絡を入れるべきか否かを、バイト上がりからずっと悩み続けていたのだ。

 あれは嘘だった。落居さんに頼まれて呼び出した。そう言うべきなのだろう、真っ当な人間としては。

 しかし、しかしだ。いくら私が真っ当な人間であっても、相手がまともじゃない。そもそもの原因は劉生だ。劉生の私への執着。それを断ち切るための荒療治も必要なのではないだろうか。

 たまに、ほつりと考える。

 私は劉生に嫌われるべきなのではないか。そうでなくとも、劉生を断固として拒絶し、関係を断つべきなのではないだろうか。

 劉生が同じ大学に入ってから、ずいぶんと顔を合わせる機会が増えた、顔を合わせたら話もするし、勉強を習いに来たら教えもする。姉弟なのだから当然だ。そう思う私を、私自身がたまにほだされたと感じる。

 それではだめだ。劉生の態度はいまだ変わらない。私と劉生が、本当に姉と弟に戻るためには、一度完全に離れた方がいいのだろうか?

 劉生の感情が――たとえ一時の気の迷いだとしても――異常なのだとわかっている。私はそんな劉生に対して、逃げること以上のことをしていない。いつか、自分から目を覚ましてくれるだろうと思っているのだ。

 それはもしかしたら、甘い考えかもしれない。このまま劉生が狂った感情を持ち続けていては、いつか、引くに引けなくなる時がくる。

 そうなったら――そうなる前に、なんとかするのが弟のため、そして私自身のためなのではないか。

 刻一刻と時間は過ぎていく。ゆっくりと空の色が濃い藍色に塗られていく。いつかどこかで決断しなければいけないのだ。俯きがちに携帯電話を睨む私にも、時間は容赦をしてくれない。

 さーっとさざ波のような音を立てて、街路樹が風に揺れた。不意に目の前に陰りを感じて、私は顔を上げた。

 さーっと、街路樹と同じ音を立てて血の気が引いていく。時間は過ぎていくと言ったばかりであるが、このときばかりは世界が止まったかと思った。私の心臓もついでに一時停止したが、次の瞬間に爆走し始めた。急ブレーキの次は急エンジンか、我が内蔵のことながら忙しない。おかげで心臓の暴挙に驚いた体が冷や汗をかき始めた。

 目の前にいたのは、一人の影だった。私はそれに見覚えがある。威圧的なくらいの上背。光がなくて暗い髪色。私を見下ろすために伏せられた、顔。私を見据えるその顔は、私に似ていて少し違う。どこか捨てられた犬のようなたたずまいの男。

 夜の風よりも冷たい瞳で、劉生が立っていた。

「劉生……」

 どこから入って来たか。それは聞かなくてもわかる。開けっ放しのベランダがいけなかった。風が入り込み、劉生の短い髪を揺らす。薄手のシャツが少しだけ肌寒そうだった。

「ねーちゃん、携帯で何しようとしてたの」

 劉生は後ろ手でベランダの戸を閉めると、抑揚の薄い声で言った。怒っているのだとはすぐに分かった。一方で、靴を脱ぎベランダを閉める劉生の律義さに、場違いに感心もした。

 座り込んでいた私の前に、劉生の腕が伸びてくる。と思うと、手から携帯電話を取られた。あ、と思う間もない。

「光一が教えてくれたよ。ねーちゃんからのメールは、変な女の罠だって。たぶん、あいつだろ、落居雛」

「劉生、返して」

 答えずに、私は手の内にあったはずの携帯電話を求めて、劉生に手を伸ばした。劉生はまるで楽しいいじわるでもするように、半笑いで携帯電話を後ろ手に隠す。

「なんでこんなことしたの?」

 表情とは裏腹に、目は笑っていない。声も低く突き刺すような鋭さを持っていた。そのアンバランスさに、私は戸惑いと微かな恐怖を覚える。

「なんで、って」

 私は一度、言葉を詰まらせた。落居さんの売り言葉に買い言葉。劉生を「売る」のに買い言葉とは何事だろうかというくだらないことは置いておいて、結局は落居さんの挑発に乗った。それがもともとだ。

 いや、落居さんのことはきっかけに過ぎない。私は口を引き締め、劉生をにらみあげた。

 決断の時はここだ、と私は思った。

「だましたようなことをしたのは悪かったよ。でもさ、これくらいしないと劉生は彼女なんて作れないでしょ。せっかく美人が好きだって言ってくれてるのに」

「俺が彼女を作ろうが、ねーちゃんに関係ないだろ」

「ないわけないじゃない。劉生!」

 私の叱りつけるような声に、劉生は眉をしかめた。

「いつまでそんな態度でいるつもり?  劉生、私と劉生は姉弟だってわかってるでしょ? 冗談にしても、……好きだなんだとかは言うの、やめにしなよ」

「冗談で言ったこと、ないんだけど」

 劉生は心外だと言いたげに、少し唇を尖らせた。冗談でないならなおさらたちが悪い。開き直っているのなら輪をかけてたちが悪い。私は苦々しさを顔いっぱいに出して言った。

「彼女ができたら気持ちも変わるよ。可愛い女の子と付き合った方が絶対に楽しいし、普通だし、妙なことも考えなくなる」

 私より可愛い女ならいくらでもいる。優しい子でも、楽しい子でも、劉生なら選ぶくらいにいるだろう。誰かと付き合って、しばらく私のことを忘れてみるといい。そうすればきっと、劉生がこだわり続けてきた感情がどれだけ不毛で、くだらなくて、馬鹿馬鹿しいことだったのか気がつくはずだ。

 つまらなそうに劉生が息を吐く。

「ねーちゃんは俺に彼女ができてほしいわけ?」

「そうだよ」

「……ふうん」

 劉生が私を見下ろしたまま、緩慢とも思える動きで膝をついた。私と目線の高さが一緒になる。いや、背丈の分だけ劉生の方がまだ少し高い。

 窺うような瞳が瞬きをする。

「前は、俺が夜に女の子の家から帰ってくると、真っ赤になって怒ってたくせに」

「……今はしないよ」

「本当かな?」

 劉生の視線に耐えられず、私はふいと顔を逸らした。思えば叩き出せばよかったのだが、このときは私も少しばかり意地になっていたのだろう。

「本当だよ。私は劉生が何をしようと構わない。夜遊びも火遊びも、犯罪さえしなければなんでもよろしい。むしろ私から離れて行ってくれるなら大歓迎だし、せいせいする」

 暗くなり始めた夏の日暮れに、灯りもなく、窓も閉め切っている。風が街路樹を揺らす音も、木々の間で忙しなく鳴くひぐらしの声も、いつも悩まされる隣の部屋の騒音さえも今は遠くて、自分の言葉だけがやけに響いて聞こえた、

「ねーちゃんさ」

 ふ、と笑うような息遣いが聞こえた。上目で劉生を覗き見ると、口だけ歪めた劉生の姿があった。片手に持っていた私の携帯電話をシャツの胸ポケットにしまうと、その手をさりげないしぐさで私に伸ばす。

「俺から逃げようとしてんの?」

「――いっ」

 痛い――というわけではないが、不意に強く掴まれた肩に、私はひきつった声を上げた。劉生は愉悦とも怒りともとれない表情で私に顔を近づける。瞬きをすれば風を感じるくらいの距離で、劉生はまた口を開いた。

「駄目だよ。俺はねーちゃんが好きなんだ。どんなに嫌われても」

 冗談を言う声色ではない。その言葉の、背筋を撫でられるような感覚にぞっとした。言葉を吐くたびに、私と劉生の間にある空気が揺れる。それさえも感じとれるほどに、近い。

「俺の気持ちが変わることはない。絶対に」

「りゅうせ――――」

 離せ、も、やめろ、も言えなかった。息をする暇さえ。

 私の呼気は、劉生に奪われる。

 私の肩を引き寄せ、劉生は私に唇を押し付けたのだ。少しかさついた唇の感触、いつの間にか背中に回された腕。薄いシャツ越しに、劉生と体が触れあっているのだと気づいたとき、私は時が止まったのかと思った。動いているのは、私の限度を忘れた鼓動の早鐘と、口内に感じる感触だけだ。口の中で動く、夏の空気よりも熱い体温を、いやになるほど鮮明に感じた。




 ○




 結論から言えば、私の膝が劉生の急所に痛恨の一撃。具体的には言わないが、やる気満々だった劉生は無言で悶絶し、見ている私まで身が竦むような気分だった。しかしそれはそれ、無慈悲にベランダから叩き出し、私の身は守られた。

 その後、劉生は撤退。私はすぐさま洗面所へ向かい口を洗い流すこととなった。

「…………劉生」

 私は蛇口の水を止め、口を拭いながらゆっくりと顔を上げた。鏡に自分の情けない顔が映る。どうとっても美人ではなく、魔性の魅力などあるわけもなく、真面目だけが取り柄の野暮ったい女がいる。短い髪は好き勝手にはねるし、化粧なんてしてもしなくても代わり映えしないし、洒落っ気もないし、こんなないない尽くしで一体どんな男が好きになるのだろう。そう思って、私は皮肉にため息を吐いた。

 安いアパートでは、もちろん洗面所など独立しているはずもなく、風呂場の横に小さな鏡と共にくっついているだけだ。ようやく点けた最初の明かりは風呂場の黄色い電灯で、やわらかく私の目に入って来る。しかし暗闇になれた瞳には、その光でも少しきついらしい。少し目の端が痛み、私は濡れた瞳を瞬いた。

 劉生、と私はもう一度、声には出さずに呟く。

 あからさまな好意もストーカーも、一年と半年たってだいぶ慣れた。大学に入ってからの私は、劉生を避けつつもそれなりに言葉を交わして、笑ったり怒ったり、普通の姉のように接していた、つもりだ。劉生の気持ちはさておき、私だけは姉に戻れるのだと思っていた。

 ――逆戻りだ。

 劉生から逃げて、一人暮らしを始めたときに戻ってしまった。劉生の感情も、壊れかけた姉弟の関係も怖くてたまらなかったあのころ。私を見る劉生の目が、私よりも大きな体が、怖くて。

 私は頭を振った。うんざりだ。重たくて振り払えない、黒いもやが腹の中で渦巻いている。どうして私がこんな目に遭うのだろう。どうしてこんなにこじれてしまったのだろう。後悔しても、もうどうにもならない。

 一年と半年だった。

 次にもう一度、劉生と姉弟に戻れるのは、何年後になるのだろう。

 治りかけの傷をえぐったのだ。次はもしかしたら。

 ――もう、元には戻らない。

 馬鹿なことを考えるな、と私は自分の額を叩いた。

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