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 翌日のバイトのことである。

「付き合うことになりました」

 はえーよ。

 先輩と外村君が機嫌よくお出迎えしたと思ったら、とんだテポドンの投下である。

 学校帰りの女子高生がかしましくコーヒーブレイクする時間帯。適度に忙しいというのに、この二人と来たらもう、一目でわかるほどにくっついて離れない。季節は夏。最高気温は三十度を超えたらしい。しかし先輩と外村君の熱はそれを上回る。

 私はタイムカードを押しながら、働かない二人に小声でたずねた。

「えーっと、昨日の今日ですよね。早くないですか?」

「え、このくらい普通ですよ」

 けろりと外村君は答える。いや、はえーよ。

「昨日なにがあったんですか」

「なにが……って」

 先輩と外村君が目を合わせて含み笑いをする。このいかにも親密な空気。居心地の悪さ満点。店長はいない。そして今日のバイトはこの三人だけだ。私、試練の日。

「だって、光一手が早いんだもん」

「えー、そんなことないって。ねえ成瀬さん」

 はえーよ。

 そんないかにも一線越えました態度を出されて、私はいったいどんな反応をすればいい。昨日ちょっと浮かれていた私が馬鹿みたいではないか。フラグかと思ったらフラグでもなんでもなかった。外村君にとって昨日の告白は、本当に昔の話に過ぎなかったのだ。

 現実とは世知辛い。これが現実、これがリア充。肉食男子と肉食女子が巡り合うとき、子孫を残そうと本能が働くのは宇宙の真理。草食どもは草でも食ってろ。

 現実を見せつけられた私は、今まで通りもてない街道をひた走る。夏のせいか二人のせいか、いやに店に満ちる熱気と裏腹に、私の温度は下がりまくりである。局地的最低気温を観測。この小さなコーヒーショップに、温度差により台風が発生する日も遠くない。

 とりあえず先輩、および外村君。

 いちゃいちゃしている暇があれば働いてください。


 ○


 なにげなく落ち込んで帰ると、家に劉生がいた。

 何を言っているかわからないと思うが、私も何が起こったかわからない。

 確かに鍵は閉めたはずだ。帰ったときにも鍵はかかっていた。劉生は部屋の中央に置かれたテーブルの前に座り、当たり前のような顔をしてテレビを見ていた。

 これは幻? それとも夏の暑さで蜃気楼でも見ているのだろうか。

 扉も開けっぱなしのまま玄関に立ち尽くす私に、劉生が「おかえり」と手を振った。

「バイトお疲れさま。ご飯作ってあるよ。あ、それとも先にお風呂入る?」

 そう言いつつ、劉生はそそくさと立ち上がり、私の鞄を受け取った。見事な若奥様っぷりである。

「…………なんで劉生がここにいるの」

 困惑する私が、ようやく出せたのがこの一言。劉生は小首を傾げ、逆に不思議そうに答えた。

「だって合鍵を持ってるから」

「……なんで合鍵持ってんの」

「だって前に家に入れてくれたから」

「……なんで家に入れると合鍵が手に入るの」

 思考回路がショート寸前。

「だってねーちゃん、合鍵って意外と簡単に作れるんだよ」

 思考回路がショート。

「つまり……勝手に合鍵を作ったってこと」

「うん」

 悪びれることなく頷く劉生に眩暈がした。いかれた弟だとは思っていたけど想像の上を行く。というかそれは犯罪だ。

「劉生」

 一息吸い、劉生から鞄を取り返すと、私はにっこり笑ってそう言った。

「出て行け!」

 開けっ放しの扉の外へ劉生を蹴り出すと、私はすかさず扉を閉めた。が、閉め切る前に劉生の手が邪魔をする。無理やり抉じ開けて、隙間から傷ついたような顔をのぞかせた。

「ねーちゃん酷い! 弟になんてことを!」

「勝手に合鍵を作る弟がいるか!」

「いるよ! ここに!」

 この規格外!

 ギリギリと扉の前で押し合いへし合い。実に地味な攻防を私と劉生は続けた。こんなもんご近所さんに見られたらどうするんだ。と思ったが、隣から飲み会の大騒ぎの声が聞こえたのでたぶん大丈夫だろう。

 扉を隔て、拮抗した争いの中に唐突にジリリリリと耳障りな機械音が鳴り響いた。私と劉生は反射的に、ほぼ同時にポケットに手を伸ばす。それが命運を分けた。

 ジーンズの尻ポケットにある私の携帯電話は静かだった。電話が鳴ったのは劉生だ。劉生が顔をしかめ、胸ポケットに入っていた携帯の画面を確認する。その隙を逃さず、私は勢いよく扉を閉めた。

「あっ、ねーちゃん!」

 悔しそうな劉生の顔をまぶたに残し、扉を締め切ると迷わず鍵を下した。

 そのまま玄関の前で、私は疲れた肩を落とした。電話に出たのか、それとも切れたのか、着信音はいつの間にかしなくなっていた。不意に静けさがよみがえる。といっても、隣からは大宴会の声はするが。

 常識はずれの弟め、まさか合鍵を作って来るとは。前の勉強会の時、劉生を一人部屋に残したのがいけなかったのだろう。あの時、大人しく帰ったと見せかけて、実は鍵の型でも取っていたに違いない。

 ……まてよ、鍵?

 はっとして顔を上げると、目の前で閉めたはずの鍵がぐるりと回った。息をつく間もなく扉が外側に大きく開き、携帯電話を耳にあてた劉生が私の肩を掴んだ。

「ねーちゃん! 光一がねーちゃんのバイト先にいるって本当!?」

『なんだ劉生、そこに成瀬さんもいるのか?』

 受話器から聞き覚えのある声が漏れ聞こえた。

「冗談だろ、ねーちゃん」

 劉生はかすれた声を出し、私の肩をゆすった。このときほど焦った劉生の顔を、私は生まれて初めて見た。

 そして鍵は付け替えるべきだと、心底から思った。


 携帯電話はすげなく切り、劉生は断固叫んだ。

「駄目だ駄目だ駄目だ! 光一のいるところなんて絶対に駄目だ!」

 いや、そんなこと言われたって、バイトをしていたのは私が先だ。

「今すぐバイトを変えるか、光一を追い出すか、選んで」

「なにその唐突な二択は」

 私に外村君をやめさせる権限はない。

 とはいえ私は劉生の剣幕に押され、若干たじたじである。外村君の何がそんなに気にくわないのか、劉生は不機嫌さと不安をないまぜにしたような表情で私に迫る。

「光一だけは絶対に近づけさせない。ねーちゃん、今すぐバイトを辞めて。そうじゃなければ、俺がバイト先を見張らないと……! ねーちゃんがシフトの日は毎日会いに行って、店の他のバイトの人とも仲良くなって、できれば光一の他にも男がつかないように根回しを――」

 わあ、へんたいだー!

「やめんかい!」

 気色の悪いことを口走る劉生の頭にチョップを見舞う。軽く叩いただけだが、スイッチが切れたように劉生は口を閉じた。ほっとしたと同時にぞっとする。劉生の思考は素でストーカーだ。

「だいたい、外村君の何がそんなにいけないの。劉生の友達でしょ?」

「そりゃ友達だけど」

 劉生は苦い顔をして私を覗きこむ。

「ねーちゃんはまだ知らないだろうけど、あいつめちゃくちゃ手が早いんだよ」

 うん、もう知ってる。

「ても、外村君には彼女もいるんだよ」

「そんなの光一には関係ないよ」

「は?」

「あいつの女関係、本当にひどいから。誰とでも付き合うしすぐ別れるし、彼女がいるからって油断できないんだよ。人の彼女だってお構いなしだし、あいつのせいで別れた奴らも多いんだ」

 いやいや、だったらそんな男となぜ仲良くしているんだ。

 私の肩を掴む劉生の手に、力がこもる。それはもう痛いくらいに。

「男同士なら、光一はいい奴だよ。でも、ねーちゃんが関わるのだけは駄目だ」

 焦りを含んだ劉生の顔が近づき、ふと見えなくなった。代わりに感じるのは、熱を持った他人の肌。劉生の肩越しに、夜に変わっていく夏の空が見えた。ぎゅっと背中に腕を回され息苦しい。

「好きな子は、絶対にあいつの傍には置きたくないんだ」

 このクソ暑い中、やけに熱っぽい劉生に抱きつかれているというのに、私が感じるのは寒気だけだった。本日二度目の台風が発生する。原因は劉生と私の温度差。

「好きな子ってなんだよ!」

「ねーちゃんのことだよ!」

 わあ、即答! 非常識!

「冗談じゃない!」

 私は劉生の胸を強く押し返すと、そのまま玄関の外まで追い出した。そして今度は鍵をかけると同時に、素早くチェーンを下す。普段は面倒で活用しないチェーンだが、今日ばっかりは君が頼りだ。細い鉄の鎖に、私は身の安全のすべてを託す。

「ねーちゃん、本気で聞いてよ! 光一には近づいちゃ駄目だ!」

 まだ外で喚いている劉生を無視して、私はため息をつきながら靴を脱いだ。ようやく安心して部屋に上がることができる。

「ねーちゃん!」

 劉生の声を聞く耳はなし。どんな話をしていても、隙あらば迫ってくるような男だ。今回だって、きっと外村君にかこつけて抱きつくのが目的だったに違いない。

 高校時代、急転直下の大暴落を果たした劉生の株は、四月、同じ大学生となってからさらに下落を続けている。うなぎ下がりだ。ストップ安かと思ったのになお下がるとは、さすが劉生、留まるところを知らない。

 外村君のことも、劉生が話を盛っているに違いない。たしかに外村君の手は通常の三倍くらい早い。でも、外村君のせいで別れたとか、そんな奴が多いだとかなんていうのは、一人二人のたわ言を盛りまくって昇天ペガサスMIX盛りにした結果だろう。

 それにまあ、なんだかんだで先輩とよろしくやっていくのだ。あの愛に飢えた先輩が、外村君なんて良物件を手放すとは思えない。劉生の心配は、どうせ杞憂に終わるはず。


 そう思っていた時期が私にもありました。

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