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境界観測《リミナル・サイト》―その線の先で、私は死んでいる―

『花を届けるまで、私は二度死んだ。』

作者: Rasky
掲載日:2026/09/08

 

 花を届けるまで、私は二度死んだ。


「お父さん。お母さんって、なにが好き?」


 朝食の皿を片付け終えた父の背中に向かって尋ねると、父は面倒くさそうに片眉を上げた。酒の臭いがほんのり漂う木の杯を片手に、不機嫌そうな顔で振り返る。


「なんだ急に。朝から妙なことを聞くな」


「いいから教えてよ。お母さんの大好きなもの!」


「知らん。本人に聞け」


「夫婦でしょ!? なんで知らないのよ!」


「うるさい奴だな。欲しいものがあるなら直接聞けば済む話だろ」


「直接聞いたらサプライズにならないじゃん!」


 思わず声を張り上げると、父は呆れたように鼻を鳴らし、椅子の背もたれに深く体重をかけた。父はいつもそうだ。口を開けば文句ばかりで、照れくさいのか本心を滅多に言わない。


 台所からは、器を洗う水の音と一緒に、心地よい鼻歌が聞こえていた。


「二人とも、朝から何をそんなに騒いでいるの?」


 泡のついた手を布巾で拭きながら、母が困ったような笑みを浮かべて顔を出す。


 柔らかい栗色の髪に、いつもどこか安心する匂い。私の大好きなお母さん。


「なんでもないの! なんでも!」


「そう? レナ、またお父さんをからかっていたんじゃないでしょうね」


「からかってないもん!」


 慌てて手を振ると、母はくすくすと楽しそうに笑って台所へ戻っていった。


 私は父の隣に寄り、ごく小さな声で呟いた。


「今日、お母さんの誕生日でしょ?」


「……ああ」


「だから何かプレゼントしたいの。でも私、お金持っていないから……」


「肩でも叩いておけ。去年もそうしてただろ」


「今年は特別がいいの! 十二歳になったんだから!」


「十一も十二も変わらん。余計な気を遣うな」


 駄目だ、お父さんは全然頼りにならない。


 私は口を尖らせ、椅子から立ち上がった。


「もういい! バイルさんに聞いてくる!」


「おいレナ、村の外へは出るなよ。最近は天気が変わりやすい」


「はいはい! 出ないよ! 薬草屋さんのところに行くだけ!」


「返事は一回!」


 小言を背中に受けながら、私は玄関へ向かった。靴を履いていると、後ろから足音が近づいてくる。


「レナ? どこに行くの?」


 振り返ると、母がかがんで私の服の襟を整えてくれた。母の手はいつも少しだけあたたかい。


「んー、ちょっと散歩に!」


「気をつけて行ってくるのよ。お昼くらいから雨が降りそうだから、お昼までには帰ってきなさいね」


「うん! 行ってきます!」




 ◇




「花ぁ?」


 村の端にある薬草屋の店内で、バイルさんは棚の乾燥薬草を整えながら、白髪交じりの眉をひそめた。深く刻まれた顔の皺と、服の上からでもわかる太い腕。薬草屋というよりは昔気質の頑固な木こりみたいな人だ。


「そう! お母さんの誕生日に、綺麗なお花をあげたいの。バイルさんならどこに咲いてるか知ってるでしょ?」


「うちにあるのは苦い薬の材料ばかりじゃ。そんなものを贈ったら母親に泣かれるぞ」


「カピッカピになった草はいらないの! 私がプレゼントしたいのは飾れるような可愛いお花! どこかにないの?」


 バイルさんは腕を組み、うーんと唸った。


「……そうさなぁ。村の南側、川の手前あたりなら、今の時期は黄色い小花が咲いとるはずじゃ。素朴だが、束にすればそれなりに見栄えもする」


「本当!? そこに行ってくる!」


「待て、話は最後まで聞け。川の向こう側には絶対に行くなよ。あのあたりの古い木橋は、最近板が傷んできておるからの」


「はーい、分かってる!」


「お前の『分かってる』ほど信用ならんものは小金貨一枚の価値もないわ」


 バイルさんの小言を背中で聞き流しながら、私は跳ねるような足取りで村の南へと向かった。


 家の数が減り、広がっていく草原。風に乗って草の匂いが鼻をくすぐる。


 しばらく歩くと、バイルさんの言った通り、川の手前に小さな黄色い花がたくさん咲いていた。


「わあ……可愛い!」


 しゃがみこんで、できるだけ綺麗な花を選んで摘む。一輪、二輪。小さくて綺麗だ。


 けれど、両手いっぱいに集めても、なんだか少し物足りなく思えてしまった。


「もっと大きな花束にしたいなぁ……」


 ふと視線を上げると、川に架かる一本の古い木橋の向こう側に、さらに色鮮やかな花畑が広がっているのが見えた。黄色だけじゃない。澄んだ青や、可愛い薄紫の花まで咲いている。


「あっちの方が、絶対に喜んでくれる……」


 バイルさんは渡るなと言っていた。お父さんも村から出るなと言っていた。


 でも、ほんの少しだけ。橋を渡って、目についた綺麗なのを摘んで、すぐに戻ってくれば大丈夫なはずだ。村の大人の人だって時々使っている橋なのだから。


「ちょっとだけ……ね」


 誰に言い訳するでもなく呟き、私は木橋に足を乗せた。


 ぎし、と頼りない音が響く。少し怖くなって足早に渡り切ると、そこはとても綺麗なお花畑だった。


「お母さん、どれが好きかな」


 夢中になって花を摘んだ。黄色、青、紫。花びらを傷つけないよう丁寧に摘み取っていくうちに、私の腕は溢れんばかりの花束で埋まっていた。


「ふふ、お母さん、きっとびっくりするぞー!」


 お母さんの喜ぶ顔を想像すると、胸が躍った。お昼の時間にも十分間に合う。


 私は花束を大切に抱えて木橋へと戻った。


 渡り始め、二歩、三歩。


 ──みしっ。


「え……?」


 足元から、嫌な音が響いた。


 驚いて視線を落とした瞬間、足元の木板が真ん中から割れ、身体が大きく傾いた。


「きゃあっ!?」


 手が離れ、色とりどりの花びらが宙に舞う。


 下から迫る岩肌が目に入った、その直後。激しい衝撃が背中と頭を襲った。


「あ……が、は……っ!?」


 息が吸えない。身体が熱くて、冷たくて、指一つ動かない。視界が急速に暗くなっていく。


(助けて。痛いよ。お母さん……)


 そのまま、意識が消えていった。




 ◆




「……ん?」


 気がつくと、私は立っていた。


 痛くないし、息もできる。


 周囲を見渡して、息を呑んだ。上も、下も、右も、左も、どこまでも真っ白な世界。


「ここ……どこ……?」


 自分の手を見る。傷なんてどこにもない。


 けれど、私は知っていた。


 橋が壊れたこと。岩にぶつかったこと。すごく痛くて、怖かったこと。


 ──私は死んだのだ。


「私……死んじゃったの……?」


 死という言葉の意味が、一度に押し寄せてくる。


 嘘だ。嫌だ。ただお母さんに花をあげたかっただけなのに。


「やだ……やだやだ! お父さん! お母さん!!」


 どれだけ叫んでも、真っ白な虚無の空間に虚しく消えていくだけだ。私はその場に崩れ落ち、泣き叫んだ。


「帰りたいよ……! お母さんに……まだ花渡してないのに……っ!」


 お母さんに会いたい。お家に帰りたい。


 泣きじゃくりながら、心の中で必死に思った。


 橋なんて渡らなければよかった。あんな橋、二度と近づかない。


 お母さんのところに帰る。生きて、お母さんのところへ帰りたい。


 その瞬間、白い世界が眩しい光に包まれていった。




 ◆




「お父さん。お母さんって、なにが好き?」


「なんだ急に。朝から妙なことを聞くな」




 ◇




「気をつけて行ってくるのよ。お昼くらいから雨が降りそうだから、お昼までには帰ってきなさいね」


「うん! 行ってきます!」


 それが、今日二度目の『行ってきます』だった。




 ◆




「南側の川の手前、ね!」


 バイルさんにお礼を言い、私は村の南へと向かっていた。


 お母さんに素敵なプレゼントができると思うと、足取りも軽くなる。


 やがて目的の場所に着き、目に入る小さくて綺麗な黄色い花をいっぱいに集めた。


 ふと視線を上げると、古い木橋がぽつんと架かっている。


「あ……」


 橋を見た瞬間、なんだか急に胸のあたりが不快になった。


 寒気がするというか、理由もなく嫌な感じがする。


「う……」


 橋の向こうへと向かおうとしていた足が勝手に止まる。


「……なんか、嫌だな。こっち側だけで探そう」


 理由は分からないけれど、私は橋を避けて手前の川沿いで花を探すことにした。


 少し歩けば、また黄色い花が見つかった。


「こっちにもあった!」


 私はしゃがみ込み、花を摘んで腕の中へ加えていく。


 一輪、二輪、三輪。


 それでも、橋の向こう側に見えていた色とりどりの花と比べると、どうしても寂しく感じた。


 振り返れば、古い木橋はまだそこにある。


 向こう側には青や紫の花がたくさん咲いている。少し渡るだけで、もっと綺麗な花束を作れる。


「…………」


 橋へ向かおうとして、一歩だけ足を動かす。


 その瞬間、胸の奥がざわついた。


「やっぱり……やだ」


 怖い理由なんて何もない。


 バイルさんから古くなっているとは聞いたけれど、今すぐ壊れると決まったわけでもない。村の大人だって使っている。


 なのに、どうしても渡りたくなかった。


「なんなの、もう……」


 自分の身体なのに、自分の言うことを聞いてくれない。


 少し腹が立ったけれど、それでも橋へ近づく気にはなれなかった。


 仕方なく、私は川沿いを歩きながら別の花を探すことにした。


 少し先に一輪見つける。


 摘んで、また歩く。


 今度は二輪咲いていた。


「もうちょっと……」


 せっかくのお母さんの誕生日だ。

 できれば両手いっぱいの花を渡したい。


 驚いたお母さんが、どんな顔をするのか見てみたい。


 だから、あと少しだけ。もう少し集まったら帰ろう。


  そう思って歩いているうちに、最初に花を摘んでいた場所はずいぶん遠くなっていた。


「これくらいあれば……」


 腕の中の花を見る。

 それなりの花束にはなっている。


「うん。これならお母さんも──」


 そこで、ぽつりと頬に冷たいものが触れた。


「……あれ?」


 顔を上げる。


 いつの間にか、空には黒い雲が広がっていた。その瞬間になって、ようやく朝の母の言葉を思い出した。


『お昼くらいから雨が降りそうだから、お昼までには帰ってきなさいね』


「……あ」


 ぽつ。


 また一滴、雨が落ちる。


「うそ、雨……!?」


 だんだんと雨脚が強くなってきた。


「やばい、お昼になっちゃう。お母さんに怒られる。帰らなきゃ!」


 摘んだ花を胸に抱え、ぬかるむ道を走る。雨がどんどん激しくなり、川の流れが濁って音を立て始めていた。


「きゃっ!?」


 滑って転んでしまう。膝を擦りむいて痛かったけれど、泥のついた花を抱え直してすぐに起き上がった。


 川沿いの細い道を通って村へ急ごうとした、その時。


 ──ずず、と足元の土が崩れた。


「え──」


 足をすくわれ、そのまま冷たい水の中へ落ちた。


 流れが速い。息ができない。どこが上かも分からなくて、必死に手を伸ばす。


(お母さん。助けて、お母さんっ!)


 冷たい水の中で、意識が遠のいていった。




 ◆




「あ……っ!」


 真っ白な世界で、私は跳ね起きた。

 呼吸を確かめるように何度も息を吸う。


 頭の中に、二つの死の記憶があった。


 橋が崩れたこと。


 雨で川に落ちて、おぼれたこと。


「橋、渡らなかったのに……なんでまた死んじゃうの……」


 悲しくて、怖くてたまらない。私はただ、お母さんに花を渡したかっただけなのに。


 一度目は、橋から落ちた。


 だから橋には近づかなかった。

 何故だか分からないが、一度目とはちゃんと違う選択をした。


 それなのに、今度は川に落ちた。


「もう……嫌だよ……」


 膝を抱えて、小さく身体を丸める。


「もう外に行きたくない……。花なんて……もう、いらない……」


 また死ぬかもしれない。

 橋が駄目なら、次は川。川を避けても、また別の何かで死ぬかもしれない。


 そう考えるだけで怖かった。


「もう……家から出たくない……」


 だったら、花なんて諦めればいい。

 お母さんには謝ればいい。今年は何も用意できなかったって。


 きっとお母さんなら笑って許してくれる。


 それでいい。


 死ぬくらいなら、もう何もしなくていい。


「…………」


 そう思った途端、頭の中に朝のお母さんの顔が浮かんだ。


『気をつけて行ってくるのよ』


 襟を直してくれた、あたたかい手。


『お昼までには帰ってきなさいね』


「……帰りたい」


 ぽつりと言葉が零れた。


 花を渡したい。


 それも本当だった。でも今は、それよりも。


「お母さんのところに……帰りたい……」


 綺麗な花じゃなくていい。

 たくさんじゃなくてもいい。


 一輪でもいい。


 それすら無理なら、何も持っていなくたっていい。


 生きて帰りたい。


 お母さんに「ただいま」って言いたい。

 涙を拭い、私は二度の死を思い返した。


 一度目は、もっと綺麗な花が欲しくて橋を渡った。

 二度目は橋を避けた。でも、たくさんの花を探して遠くまで歩きすぎた。


 そして雨が降った。


「……欲張らない」


 小さく呟く。


「花を見つけたら、すぐ帰る。橋にも行かない。川からも離れる」


 もう綺麗な花束なんていらない。


「今度は……早く帰る。お母さんのところに……帰る。だから───」


 そして最後に、泣きながら小さく続ける。


「だからお願い…。 お願いします。 もう一度、やり直させてください……」


 その言葉を口にした直後、真っ白な世界が眩しい光に包まれていった。




 ◆




「お父さん。お母さんって、なにが好き?」


「なんだ急に。朝から妙なことを聞くな」




 ◇




「気をつけて行ってくるのよ。お昼くらいから雨が降りそうだから、お昼までには帰ってきなさいね」


「うん! 行ってきます!」


 それが、今日三度目の『行ってきます』だった。




 ◇




「……よし、急ごう!」


 玄関を出た瞬間、なぜだか急に“今日は急いだ方がいい”気がした。


 理由は分からないけれど、のんびりしちゃいけないような直感があった。


 薬草屋へ行ってバイルさんに話を聞く。


「南側の川の手前だな。黄色い花が──」


「ありがとうバイルさん! 行ってくるね!」


「おい待て、話は──」


「すぐ帰るから大丈夫!」


 慌ただしく手を振り、村の南へ走った。


 川の木橋が見えたけれど、近づきたくなくて、視線を逸らす。


「やっぱりあっちに行くのはやめよう」


 手前の草むらに咲いていた黄色い花を、手早く摘んだ。


 一輪。二輪。三輪。


 やがて、片手に収まる程度の小さな花束ができた。


「…………」


 もう少し探せば、もっとたくさん集められるだろう。

 お母さんの誕生日なのだから、本当なら両手いっぱいになるくらい持って帰りたい。そう思うのに、不思議と今日はこれ以上探す気になれなかった。


 むしろ、片手に収まる花束を見ているだけで、なぜか十分な気がした。


「……うん。これでいいや」


 自分でも少し不思議だった。いつもの私なら、もっと欲しいと言って探し回りそうなのに。

 けれど今日は、それよりも早く家に帰りたい。


「よし、帰ろ!」


 出来た小さな花束を握り締め、来た道を戻っていた。


 その時。


「……う……ぐ……」


 草むらの奥から、小さな声が聞こえた。


「え……?」


 足を止める。


「うぅ……誰か…………」


 早く帰らなきゃいけない気がする。ここで立ち止まっていたら、帰るのが遅くなる。


 でも、私は声のする方へ走っていた。


「誰かいるの!?」


 草をかき分けると、泥だらけで倒れている男性がいた。


 村で木こりをしているガルバさんだ。


「ガルバさん!? どうしたの!?」


「レナか……斜面で脚を滑らせて……動けん……」


 見ると、足首が変な方向に曲がっている。血も出ていた。


「大変! すぐ村から人を呼んでくるね!」


「待て……空を見ろ。すぐ酷い土砂降りになるぞ」


「え?」


 見上げると、いつの間にか黒い雲が広がっていた。冷たい風が吹き抜ける。

 このまま一人で走れば、雨が降る前に帰れるかもしれない。


 でも、怪我をしたガルバさんを一人にしてなんていけない。


「村まで行って戻ってくる頃には、この辺りも危なくなる。呼びに行くなら、そのまま村まで戻れ。俺のことはいい」


「そんなの無理だよ!」


「俺は大人だ。自分でなんとかする。お前まで巻き込まれる必要はない」


「でも、その足じゃ動けないでしょ!」


「…………」


「……肩、貸すよ!」


「レナ!? 馬鹿言うな、お前じゃ俺を支えきれん!」


「やってみなきゃ分からないでしょ! ほら、立って!」


 ガルバさんの腕を自分の肩に回す。


 ずしりと重い。大人の体重は、十二歳の私には重すぎた。それでも踏ん張る。


「行くよガルバさん!」


「……すまん、レナ!」


 一歩。また一歩。


 ゆっくりと村へ向かう。


 想像していたより、ずっと重かった。


 ガルバさんが怪我をしていない方の足を地面につくたび、その体重が私の肩へかかる。


「んっ……!」


「無理するな。やっぱり俺を置いて──」


「無理してない!」


 反射的に言い返したけれど、強がりだった。


 肩が痛い。足も震えている。


 それでも、ここで手を離すことだけはできなかった。


 やがて、ぽつ、と冷たい雨が降り始めた。最初は小さな雨粒だったものが、すぐに数を増していき、あっという間に激しい雨になる。


「くそっ、やっぱり降りやがった! レナ、川沿いの道から帰るぞ、あっちの方が近い!」


 ガルバさんが叫ぶ。


 言われた通り川沿いの道へ向かおうとした、その時。


 ぞくっとした。


「……っ」


 なんだか妙に怖い。


 川沿いの道を選ぼうとすると、足が竦んで前に進まなくなった。


「レナ? どうした?」


「ガルバさん……あっちの道、なんか怖い……」


「何を言ってる、あっちが一番近いんだぞ! モタモタしていたら道が崩れるかも───」


「でも! ……なんか嫌なの! 上の道から行こう!」


 私は首を強く振った。理由は説明できないけれど、どうしても川沿いの道には行きたくなかった。


 ガルバさんは私の顔をじっと見つめ、それから川の方を見た。


「こんな時に何を言って……うん? 川の水が急に濁ってきたな。上流で溜まっていた水が一気に流れてきているのかもしれん」


 ガルバさんは顔色を変えた。


「分かった、上の道へ行こう! あっちなら少し遠回りだが、山沿いの抜け道がある!」


「うん!」


 そうして二人で上の斜面道へと足を進めた、その直後だった。


 ドザザザッ、と大きな音がして、さっき通ろうとしていた川沿いの道が、増水した川の勢いに呑み込まれて崩れ落ちた。


「嘘だろ……」


 ガルバさんが息を呑む。


 もしそのまま川沿いを進んでいたら、二人とも巻き込まれていただろう。


 けれど、上の道を選んでも決して楽になったわけではなかった。雨で地面は滑りやすく、ガルバさんを支えたまま斜面を登るだけでも息が切れる。


「レナ、そこは右だ! 左は雨が降るとぬかるむ!」


「分かった!」


 言われた方向へ足を運ぶ。


「次の岩に手をつけ! その方が身体を支えやすい!」


「う、うん……!」


 濡れた地面に気をつけながら進んでいた、その時だった。


 足が泥に滑った。


「きゃっ!」


「レナ!」


 二人の身体が大きく傾く。


 私は咄嗟にガルバさんを支えようと、両手を使った。


 その拍子に、持っていた花束が地面へ落ちる。


「あ……!」


 黄色い花束が泥の上に転がった。


 一輪はガルバさんの足元に落ち、踏まれて潰れてしまう。


「花が……」


 せっかく、お母さんに渡そうと思って摘んだのに。


 拾わなきゃ。


 そう思って手を伸ばしかける。


「ぐっ……!」


 隣でガルバさんの身体が傾いた。


「ガルバさん!」


 私はすぐに花から手を離し、ガルバさんの身体を支え直した。


「すまん……花、潰しちまったな」


「……ううん」


 泥の中に落ちた花を見る。


 悲しくないと言えば嘘になる。


 でも───


「お花より、ガルバさんが転ぶ方が嫌だから」


 拾えるものだけ拾い上げ、私は泥を軽く払った。花びらは曲がり、一部は潰れてしまっている。


 もはや、花束とすら言えない本数の花しか手元にない。それでも、どうしても捨てる気にはなれなかった。


「これでいい」


「……そうか」


「うん。行こう」


 もう一度ガルバさんの腕を肩へ回し、歩き出す。

 何度も足を滑らせそうになりながら、ガルバさんの指示を聞いて雨の道を進む。


 足はもう痛かった。


 服も髪もずぶ濡れになっている。


 手の中に残った黄色い花も、朝とは比べものにならないほど汚れていた。


 それでも今度は、確かに家へ近づいていた。


「もう少しだ。あの岩場を抜ければ村への道に出るぞ!」


「ほんと!?」


「ああ。だからあと少しだけ頑張れ!」


「うん!」


 雨で滑る岩場を二人で支え合いながら通り抜けると、向こうから村の人たちの姿が見えてきた。




 ◇




「レナァ──ッ!!」


 雨の中を、父が走ってきた。


「お父さん……!」


「このバカ者が!! どこほっつき歩いてやがった!!」


 父は私に駆け寄ると、乱暴に抱き上げて叱り飛ばした。


「昼までに戻るって言っただろうが! この大雨のなか何をやってる!」


「ガルバさんが怪我をしてて……」


「おい、責めてやるな」


 村人たちに担がれたガルバさんが、声をかけた。


「俺が足を折って動けなくなっていたのを、この子が見つけてくれたんだ。雨の中、ここまで肩を貸してくれたんだ。……だから責めてやるな」


 父は黙り込んだ。


 それから、私の頭を少し乱暴に撫でた。


「……そうだったのか。よくやった。帰るぞ」


「……うん!」




 ◇




 家に帰り着くと、扉が開いた瞬間に母が飛び出してきた。


「レナ!」


「お母さん……ごめんなさい……」


 泥だらけで濡れた私を、母は気にせず強く抱きしめてくれた。


「よかった……無事でよかった……!」


「うん……大丈夫……」


 私は握りしめていた花を差し出した。


「これ……あげる……」


「…これって」


 泥がついて、途中で押し潰されてしまった数輪の黄色い花。朝摘んだ時は綺麗だったのに、今は形も崩れてしまっていた。


「今日、お母さんの誕生日だから……。本当はもっと綺麗だったんだけど……ごめんね、ぐちゃぐちゃになっちゃって……」


 母はその小さな花を、そっと両手で受け取った。


「綺麗よ」


「……え?」


「すごく綺麗。ありがとう、レナ」


 母は涙ぐみながら嬉しそうに微笑むと、もう一度私を抱きしめてくれた。


 その瞬間、胸の奥がぎゅっと痛くなった。


 あたたかくて、安心したはずなのに。


 なぜか目から涙が溢れて止まらなくなった。


「……あれ……?」


 自分で自分に驚いた。なんで泣いているんだろう。


「どうしたの? 怖いことでもあった?」


 母が心配そうに覗き込んでくる。


「……なかった、と思う……」


 涙を拭いても、次から次へと溢れてくる。理由なんて分からなかった。


「……お母さん」


「なぁに?」


「……()()()()


「おかえりなさい、レナ」


 母の抱きしめる腕に少し力が入る。


 私は母の胸の中で、しばらく泣き続けた。




 ◇




 その夜の食卓には、小さな花瓶に飾られた黄色い花があった。父がスープを飲みながら言う。


「泥は落ちたが、つぶれてるな」


「いいのよ。レナが持ってきてくれたんだから」


「無茶しやがって」


「無茶じゃないもん! ガルバさん助けたんだから!」


「威張るな」


 母が楽しそうに笑う。父と私が言い合う。

 あたたかいランプの光の中で、いつもと同じ夜が過ぎていった。


 寝る前、母が布団をかけてくれた。


「お母さん」


「なあに?」


「来年の誕生日も、お花あげるね。今度はもっと綺麗で、つぶれてないやつ!」


「ふふ、楽しみにしているわ」


「約束ね!」


 小指を差し出すと、母は微笑みながら自分の小指を絡めてくれた。


「うん。約束。でも、無茶はしちゃだめよ?」


「しないよ!」


 母と小指を解き、私は笑顔でうなずいた。


 来年も、その次も、こうやってお祝いできると思っていた。


 だから私は、その約束を少しも疑わなかった。


 ──その約束が果たされることはないことを。





最後までお読みいただき、ありがとうございました。


──どうして、約束は果たされなかったのか。


この物語は、長編

『境界観測 《リミナル・サイト》―その線の先で、私は死んでいる―』

へと続きます。


もしレナのその後が気になった方は、本編も覗いていただけると嬉しいです。


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こんな時間に、こんな眠れなくなるような作品を投稿するなんて。 明日から仕事なのに、本編読むしかなくなっちまったじゃねぇか! ってなるほどいい話でした。
感動しました。本編の方も読んでみます。
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