境界観測《リミナル・サイト》―その線の先で、私は死んでいる―
『花を届けるまで、私は二度死んだ。』
花を届けるまで、私は二度死んだ。
「お父さん。お母さんって、なにが好き?」
朝食の皿を片付け終えた父の背中に向かって尋ねると、父は面倒くさそうに片眉を上げた。酒の臭いがほんのり漂う木の杯を片手に、不機嫌そうな顔で振り返る。
「なんだ急に。朝から妙なことを聞くな」
「いいから教えてよ。お母さんの大好きなもの!」
「知らん。本人に聞け」
「夫婦でしょ!? なんで知らないのよ!」
「うるさい奴だな。欲しいものがあるなら直接聞けば済む話だろ」
「直接聞いたらサプライズにならないじゃん!」
思わず声を張り上げると、父は呆れたように鼻を鳴らし、椅子の背もたれに深く体重をかけた。父はいつもそうだ。口を開けば文句ばかりで、照れくさいのか本心を滅多に言わない。
台所からは、器を洗う水の音と一緒に、心地よい鼻歌が聞こえていた。
「二人とも、朝から何をそんなに騒いでいるの?」
泡のついた手を布巾で拭きながら、母が困ったような笑みを浮かべて顔を出す。
柔らかい栗色の髪に、いつもどこか安心する匂い。私の大好きなお母さん。
「なんでもないの! なんでも!」
「そう? レナ、またお父さんをからかっていたんじゃないでしょうね」
「からかってないもん!」
慌てて手を振ると、母はくすくすと楽しそうに笑って台所へ戻っていった。
私は父の隣に寄り、ごく小さな声で呟いた。
「今日、お母さんの誕生日でしょ?」
「……ああ」
「だから何かプレゼントしたいの。でも私、お金持っていないから……」
「肩でも叩いておけ。去年もそうしてただろ」
「今年は特別がいいの! 十二歳になったんだから!」
「十一も十二も変わらん。余計な気を遣うな」
駄目だ、お父さんは全然頼りにならない。
私は口を尖らせ、椅子から立ち上がった。
「もういい! バイルさんに聞いてくる!」
「おいレナ、村の外へは出るなよ。最近は天気が変わりやすい」
「はいはい! 出ないよ! 薬草屋さんのところに行くだけ!」
「返事は一回!」
小言を背中に受けながら、私は玄関へ向かった。靴を履いていると、後ろから足音が近づいてくる。
「レナ? どこに行くの?」
振り返ると、母がかがんで私の服の襟を整えてくれた。母の手はいつも少しだけあたたかい。
「んー、ちょっと散歩に!」
「気をつけて行ってくるのよ。お昼くらいから雨が降りそうだから、お昼までには帰ってきなさいね」
「うん! 行ってきます!」
◇
「花ぁ?」
村の端にある薬草屋の店内で、バイルさんは棚の乾燥薬草を整えながら、白髪交じりの眉をひそめた。深く刻まれた顔の皺と、服の上からでもわかる太い腕。薬草屋というよりは昔気質の頑固な木こりみたいな人だ。
「そう! お母さんの誕生日に、綺麗なお花をあげたいの。バイルさんならどこに咲いてるか知ってるでしょ?」
「うちにあるのは苦い薬の材料ばかりじゃ。そんなものを贈ったら母親に泣かれるぞ」
「カピッカピになった草はいらないの! 私がプレゼントしたいのは飾れるような可愛いお花! どこかにないの?」
バイルさんは腕を組み、うーんと唸った。
「……そうさなぁ。村の南側、川の手前あたりなら、今の時期は黄色い小花が咲いとるはずじゃ。素朴だが、束にすればそれなりに見栄えもする」
「本当!? そこに行ってくる!」
「待て、話は最後まで聞け。川の向こう側には絶対に行くなよ。あのあたりの古い木橋は、最近板が傷んできておるからの」
「はーい、分かってる!」
「お前の『分かってる』ほど信用ならんものは小金貨一枚の価値もないわ」
バイルさんの小言を背中で聞き流しながら、私は跳ねるような足取りで村の南へと向かった。
家の数が減り、広がっていく草原。風に乗って草の匂いが鼻をくすぐる。
しばらく歩くと、バイルさんの言った通り、川の手前に小さな黄色い花がたくさん咲いていた。
「わあ……可愛い!」
しゃがみこんで、できるだけ綺麗な花を選んで摘む。一輪、二輪。小さくて綺麗だ。
けれど、両手いっぱいに集めても、なんだか少し物足りなく思えてしまった。
「もっと大きな花束にしたいなぁ……」
ふと視線を上げると、川に架かる一本の古い木橋の向こう側に、さらに色鮮やかな花畑が広がっているのが見えた。黄色だけじゃない。澄んだ青や、可愛い薄紫の花まで咲いている。
「あっちの方が、絶対に喜んでくれる……」
バイルさんは渡るなと言っていた。お父さんも村から出るなと言っていた。
でも、ほんの少しだけ。橋を渡って、目についた綺麗なのを摘んで、すぐに戻ってくれば大丈夫なはずだ。村の大人の人だって時々使っている橋なのだから。
「ちょっとだけ……ね」
誰に言い訳するでもなく呟き、私は木橋に足を乗せた。
ぎし、と頼りない音が響く。少し怖くなって足早に渡り切ると、そこはとても綺麗なお花畑だった。
「お母さん、どれが好きかな」
夢中になって花を摘んだ。黄色、青、紫。花びらを傷つけないよう丁寧に摘み取っていくうちに、私の腕は溢れんばかりの花束で埋まっていた。
「ふふ、お母さん、きっとびっくりするぞー!」
お母さんの喜ぶ顔を想像すると、胸が躍った。お昼の時間にも十分間に合う。
私は花束を大切に抱えて木橋へと戻った。
渡り始め、二歩、三歩。
──みしっ。
「え……?」
足元から、嫌な音が響いた。
驚いて視線を落とした瞬間、足元の木板が真ん中から割れ、身体が大きく傾いた。
「きゃあっ!?」
手が離れ、色とりどりの花びらが宙に舞う。
下から迫る岩肌が目に入った、その直後。激しい衝撃が背中と頭を襲った。
「あ……が、は……っ!?」
息が吸えない。身体が熱くて、冷たくて、指一つ動かない。視界が急速に暗くなっていく。
(助けて。痛いよ。お母さん……)
そのまま、意識が消えていった。
◆
「……ん?」
気がつくと、私は立っていた。
痛くないし、息もできる。
周囲を見渡して、息を呑んだ。上も、下も、右も、左も、どこまでも真っ白な世界。
「ここ……どこ……?」
自分の手を見る。傷なんてどこにもない。
けれど、私は知っていた。
橋が壊れたこと。岩にぶつかったこと。すごく痛くて、怖かったこと。
──私は死んだのだ。
「私……死んじゃったの……?」
死という言葉の意味が、一度に押し寄せてくる。
嘘だ。嫌だ。ただお母さんに花をあげたかっただけなのに。
「やだ……やだやだ! お父さん! お母さん!!」
どれだけ叫んでも、真っ白な虚無の空間に虚しく消えていくだけだ。私はその場に崩れ落ち、泣き叫んだ。
「帰りたいよ……! お母さんに……まだ花渡してないのに……っ!」
お母さんに会いたい。お家に帰りたい。
泣きじゃくりながら、心の中で必死に思った。
橋なんて渡らなければよかった。あんな橋、二度と近づかない。
お母さんのところに帰る。生きて、お母さんのところへ帰りたい。
その瞬間、白い世界が眩しい光に包まれていった。
◆
「お父さん。お母さんって、なにが好き?」
「なんだ急に。朝から妙なことを聞くな」
◇
「気をつけて行ってくるのよ。お昼くらいから雨が降りそうだから、お昼までには帰ってきなさいね」
「うん! 行ってきます!」
それが、今日二度目の『行ってきます』だった。
◆
「南側の川の手前、ね!」
バイルさんにお礼を言い、私は村の南へと向かっていた。
お母さんに素敵なプレゼントができると思うと、足取りも軽くなる。
やがて目的の場所に着き、目に入る小さくて綺麗な黄色い花をいっぱいに集めた。
ふと視線を上げると、古い木橋がぽつんと架かっている。
「あ……」
橋を見た瞬間、なんだか急に胸のあたりが不快になった。
寒気がするというか、理由もなく嫌な感じがする。
「う……」
橋の向こうへと向かおうとしていた足が勝手に止まる。
「……なんか、嫌だな。こっち側だけで探そう」
理由は分からないけれど、私は橋を避けて手前の川沿いで花を探すことにした。
少し歩けば、また黄色い花が見つかった。
「こっちにもあった!」
私はしゃがみ込み、花を摘んで腕の中へ加えていく。
一輪、二輪、三輪。
それでも、橋の向こう側に見えていた色とりどりの花と比べると、どうしても寂しく感じた。
振り返れば、古い木橋はまだそこにある。
向こう側には青や紫の花がたくさん咲いている。少し渡るだけで、もっと綺麗な花束を作れる。
「…………」
橋へ向かおうとして、一歩だけ足を動かす。
その瞬間、胸の奥がざわついた。
「やっぱり……やだ」
怖い理由なんて何もない。
バイルさんから古くなっているとは聞いたけれど、今すぐ壊れると決まったわけでもない。村の大人だって使っている。
なのに、どうしても渡りたくなかった。
「なんなの、もう……」
自分の身体なのに、自分の言うことを聞いてくれない。
少し腹が立ったけれど、それでも橋へ近づく気にはなれなかった。
仕方なく、私は川沿いを歩きながら別の花を探すことにした。
少し先に一輪見つける。
摘んで、また歩く。
今度は二輪咲いていた。
「もうちょっと……」
せっかくのお母さんの誕生日だ。
できれば両手いっぱいの花を渡したい。
驚いたお母さんが、どんな顔をするのか見てみたい。
だから、あと少しだけ。もう少し集まったら帰ろう。
そう思って歩いているうちに、最初に花を摘んでいた場所はずいぶん遠くなっていた。
「これくらいあれば……」
腕の中の花を見る。
それなりの花束にはなっている。
「うん。これならお母さんも──」
そこで、ぽつりと頬に冷たいものが触れた。
「……あれ?」
顔を上げる。
いつの間にか、空には黒い雲が広がっていた。その瞬間になって、ようやく朝の母の言葉を思い出した。
『お昼くらいから雨が降りそうだから、お昼までには帰ってきなさいね』
「……あ」
ぽつ。
また一滴、雨が落ちる。
「うそ、雨……!?」
だんだんと雨脚が強くなってきた。
「やばい、お昼になっちゃう。お母さんに怒られる。帰らなきゃ!」
摘んだ花を胸に抱え、ぬかるむ道を走る。雨がどんどん激しくなり、川の流れが濁って音を立て始めていた。
「きゃっ!?」
滑って転んでしまう。膝を擦りむいて痛かったけれど、泥のついた花を抱え直してすぐに起き上がった。
川沿いの細い道を通って村へ急ごうとした、その時。
──ずず、と足元の土が崩れた。
「え──」
足をすくわれ、そのまま冷たい水の中へ落ちた。
流れが速い。息ができない。どこが上かも分からなくて、必死に手を伸ばす。
(お母さん。助けて、お母さんっ!)
冷たい水の中で、意識が遠のいていった。
◆
「あ……っ!」
真っ白な世界で、私は跳ね起きた。
呼吸を確かめるように何度も息を吸う。
頭の中に、二つの死の記憶があった。
橋が崩れたこと。
雨で川に落ちて、おぼれたこと。
「橋、渡らなかったのに……なんでまた死んじゃうの……」
悲しくて、怖くてたまらない。私はただ、お母さんに花を渡したかっただけなのに。
一度目は、橋から落ちた。
だから橋には近づかなかった。
何故だか分からないが、一度目とはちゃんと違う選択をした。
それなのに、今度は川に落ちた。
「もう……嫌だよ……」
膝を抱えて、小さく身体を丸める。
「もう外に行きたくない……。花なんて……もう、いらない……」
また死ぬかもしれない。
橋が駄目なら、次は川。川を避けても、また別の何かで死ぬかもしれない。
そう考えるだけで怖かった。
「もう……家から出たくない……」
だったら、花なんて諦めればいい。
お母さんには謝ればいい。今年は何も用意できなかったって。
きっとお母さんなら笑って許してくれる。
それでいい。
死ぬくらいなら、もう何もしなくていい。
「…………」
そう思った途端、頭の中に朝のお母さんの顔が浮かんだ。
『気をつけて行ってくるのよ』
襟を直してくれた、あたたかい手。
『お昼までには帰ってきなさいね』
「……帰りたい」
ぽつりと言葉が零れた。
花を渡したい。
それも本当だった。でも今は、それよりも。
「お母さんのところに……帰りたい……」
綺麗な花じゃなくていい。
たくさんじゃなくてもいい。
一輪でもいい。
それすら無理なら、何も持っていなくたっていい。
生きて帰りたい。
お母さんに「ただいま」って言いたい。
涙を拭い、私は二度の死を思い返した。
一度目は、もっと綺麗な花が欲しくて橋を渡った。
二度目は橋を避けた。でも、たくさんの花を探して遠くまで歩きすぎた。
そして雨が降った。
「……欲張らない」
小さく呟く。
「花を見つけたら、すぐ帰る。橋にも行かない。川からも離れる」
もう綺麗な花束なんていらない。
「今度は……早く帰る。お母さんのところに……帰る。だから───」
そして最後に、泣きながら小さく続ける。
「だからお願い…。 お願いします。 もう一度、やり直させてください……」
その言葉を口にした直後、真っ白な世界が眩しい光に包まれていった。
◆
「お父さん。お母さんって、なにが好き?」
「なんだ急に。朝から妙なことを聞くな」
◇
「気をつけて行ってくるのよ。お昼くらいから雨が降りそうだから、お昼までには帰ってきなさいね」
「うん! 行ってきます!」
それが、今日三度目の『行ってきます』だった。
◇
「……よし、急ごう!」
玄関を出た瞬間、なぜだか急に“今日は急いだ方がいい”気がした。
理由は分からないけれど、のんびりしちゃいけないような直感があった。
薬草屋へ行ってバイルさんに話を聞く。
「南側の川の手前だな。黄色い花が──」
「ありがとうバイルさん! 行ってくるね!」
「おい待て、話は──」
「すぐ帰るから大丈夫!」
慌ただしく手を振り、村の南へ走った。
川の木橋が見えたけれど、近づきたくなくて、視線を逸らす。
「やっぱりあっちに行くのはやめよう」
手前の草むらに咲いていた黄色い花を、手早く摘んだ。
一輪。二輪。三輪。
やがて、片手に収まる程度の小さな花束ができた。
「…………」
もう少し探せば、もっとたくさん集められるだろう。
お母さんの誕生日なのだから、本当なら両手いっぱいになるくらい持って帰りたい。そう思うのに、不思議と今日はこれ以上探す気になれなかった。
むしろ、片手に収まる花束を見ているだけで、なぜか十分な気がした。
「……うん。これでいいや」
自分でも少し不思議だった。いつもの私なら、もっと欲しいと言って探し回りそうなのに。
けれど今日は、それよりも早く家に帰りたい。
「よし、帰ろ!」
出来た小さな花束を握り締め、来た道を戻っていた。
その時。
「……う……ぐ……」
草むらの奥から、小さな声が聞こえた。
「え……?」
足を止める。
「うぅ……誰か…………」
早く帰らなきゃいけない気がする。ここで立ち止まっていたら、帰るのが遅くなる。
でも、私は声のする方へ走っていた。
「誰かいるの!?」
草をかき分けると、泥だらけで倒れている男性がいた。
村で木こりをしているガルバさんだ。
「ガルバさん!? どうしたの!?」
「レナか……斜面で脚を滑らせて……動けん……」
見ると、足首が変な方向に曲がっている。血も出ていた。
「大変! すぐ村から人を呼んでくるね!」
「待て……空を見ろ。すぐ酷い土砂降りになるぞ」
「え?」
見上げると、いつの間にか黒い雲が広がっていた。冷たい風が吹き抜ける。
このまま一人で走れば、雨が降る前に帰れるかもしれない。
でも、怪我をしたガルバさんを一人にしてなんていけない。
「村まで行って戻ってくる頃には、この辺りも危なくなる。呼びに行くなら、そのまま村まで戻れ。俺のことはいい」
「そんなの無理だよ!」
「俺は大人だ。自分でなんとかする。お前まで巻き込まれる必要はない」
「でも、その足じゃ動けないでしょ!」
「…………」
「……肩、貸すよ!」
「レナ!? 馬鹿言うな、お前じゃ俺を支えきれん!」
「やってみなきゃ分からないでしょ! ほら、立って!」
ガルバさんの腕を自分の肩に回す。
ずしりと重い。大人の体重は、十二歳の私には重すぎた。それでも踏ん張る。
「行くよガルバさん!」
「……すまん、レナ!」
一歩。また一歩。
ゆっくりと村へ向かう。
想像していたより、ずっと重かった。
ガルバさんが怪我をしていない方の足を地面につくたび、その体重が私の肩へかかる。
「んっ……!」
「無理するな。やっぱり俺を置いて──」
「無理してない!」
反射的に言い返したけれど、強がりだった。
肩が痛い。足も震えている。
それでも、ここで手を離すことだけはできなかった。
やがて、ぽつ、と冷たい雨が降り始めた。最初は小さな雨粒だったものが、すぐに数を増していき、あっという間に激しい雨になる。
「くそっ、やっぱり降りやがった! レナ、川沿いの道から帰るぞ、あっちの方が近い!」
ガルバさんが叫ぶ。
言われた通り川沿いの道へ向かおうとした、その時。
ぞくっとした。
「……っ」
なんだか妙に怖い。
川沿いの道を選ぼうとすると、足が竦んで前に進まなくなった。
「レナ? どうした?」
「ガルバさん……あっちの道、なんか怖い……」
「何を言ってる、あっちが一番近いんだぞ! モタモタしていたら道が崩れるかも───」
「でも! ……なんか嫌なの! 上の道から行こう!」
私は首を強く振った。理由は説明できないけれど、どうしても川沿いの道には行きたくなかった。
ガルバさんは私の顔をじっと見つめ、それから川の方を見た。
「こんな時に何を言って……うん? 川の水が急に濁ってきたな。上流で溜まっていた水が一気に流れてきているのかもしれん」
ガルバさんは顔色を変えた。
「分かった、上の道へ行こう! あっちなら少し遠回りだが、山沿いの抜け道がある!」
「うん!」
そうして二人で上の斜面道へと足を進めた、その直後だった。
ドザザザッ、と大きな音がして、さっき通ろうとしていた川沿いの道が、増水した川の勢いに呑み込まれて崩れ落ちた。
「嘘だろ……」
ガルバさんが息を呑む。
もしそのまま川沿いを進んでいたら、二人とも巻き込まれていただろう。
けれど、上の道を選んでも決して楽になったわけではなかった。雨で地面は滑りやすく、ガルバさんを支えたまま斜面を登るだけでも息が切れる。
「レナ、そこは右だ! 左は雨が降るとぬかるむ!」
「分かった!」
言われた方向へ足を運ぶ。
「次の岩に手をつけ! その方が身体を支えやすい!」
「う、うん……!」
濡れた地面に気をつけながら進んでいた、その時だった。
足が泥に滑った。
「きゃっ!」
「レナ!」
二人の身体が大きく傾く。
私は咄嗟にガルバさんを支えようと、両手を使った。
その拍子に、持っていた花束が地面へ落ちる。
「あ……!」
黄色い花束が泥の上に転がった。
一輪はガルバさんの足元に落ち、踏まれて潰れてしまう。
「花が……」
せっかく、お母さんに渡そうと思って摘んだのに。
拾わなきゃ。
そう思って手を伸ばしかける。
「ぐっ……!」
隣でガルバさんの身体が傾いた。
「ガルバさん!」
私はすぐに花から手を離し、ガルバさんの身体を支え直した。
「すまん……花、潰しちまったな」
「……ううん」
泥の中に落ちた花を見る。
悲しくないと言えば嘘になる。
でも───
「お花より、ガルバさんが転ぶ方が嫌だから」
拾えるものだけ拾い上げ、私は泥を軽く払った。花びらは曲がり、一部は潰れてしまっている。
もはや、花束とすら言えない本数の花しか手元にない。それでも、どうしても捨てる気にはなれなかった。
「これでいい」
「……そうか」
「うん。行こう」
もう一度ガルバさんの腕を肩へ回し、歩き出す。
何度も足を滑らせそうになりながら、ガルバさんの指示を聞いて雨の道を進む。
足はもう痛かった。
服も髪もずぶ濡れになっている。
手の中に残った黄色い花も、朝とは比べものにならないほど汚れていた。
それでも今度は、確かに家へ近づいていた。
「もう少しだ。あの岩場を抜ければ村への道に出るぞ!」
「ほんと!?」
「ああ。だからあと少しだけ頑張れ!」
「うん!」
雨で滑る岩場を二人で支え合いながら通り抜けると、向こうから村の人たちの姿が見えてきた。
◇
「レナァ──ッ!!」
雨の中を、父が走ってきた。
「お父さん……!」
「このバカ者が!! どこほっつき歩いてやがった!!」
父は私に駆け寄ると、乱暴に抱き上げて叱り飛ばした。
「昼までに戻るって言っただろうが! この大雨のなか何をやってる!」
「ガルバさんが怪我をしてて……」
「おい、責めてやるな」
村人たちに担がれたガルバさんが、声をかけた。
「俺が足を折って動けなくなっていたのを、この子が見つけてくれたんだ。雨の中、ここまで肩を貸してくれたんだ。……だから責めてやるな」
父は黙り込んだ。
それから、私の頭を少し乱暴に撫でた。
「……そうだったのか。よくやった。帰るぞ」
「……うん!」
◇
家に帰り着くと、扉が開いた瞬間に母が飛び出してきた。
「レナ!」
「お母さん……ごめんなさい……」
泥だらけで濡れた私を、母は気にせず強く抱きしめてくれた。
「よかった……無事でよかった……!」
「うん……大丈夫……」
私は握りしめていた花を差し出した。
「これ……あげる……」
「…これって」
泥がついて、途中で押し潰されてしまった数輪の黄色い花。朝摘んだ時は綺麗だったのに、今は形も崩れてしまっていた。
「今日、お母さんの誕生日だから……。本当はもっと綺麗だったんだけど……ごめんね、ぐちゃぐちゃになっちゃって……」
母はその小さな花を、そっと両手で受け取った。
「綺麗よ」
「……え?」
「すごく綺麗。ありがとう、レナ」
母は涙ぐみながら嬉しそうに微笑むと、もう一度私を抱きしめてくれた。
その瞬間、胸の奥がぎゅっと痛くなった。
あたたかくて、安心したはずなのに。
なぜか目から涙が溢れて止まらなくなった。
「……あれ……?」
自分で自分に驚いた。なんで泣いているんだろう。
「どうしたの? 怖いことでもあった?」
母が心配そうに覗き込んでくる。
「……なかった、と思う……」
涙を拭いても、次から次へと溢れてくる。理由なんて分からなかった。
「……お母さん」
「なぁに?」
「……ただいま」
「おかえりなさい、レナ」
母の抱きしめる腕に少し力が入る。
私は母の胸の中で、しばらく泣き続けた。
◇
その夜の食卓には、小さな花瓶に飾られた黄色い花があった。父がスープを飲みながら言う。
「泥は落ちたが、つぶれてるな」
「いいのよ。レナが持ってきてくれたんだから」
「無茶しやがって」
「無茶じゃないもん! ガルバさん助けたんだから!」
「威張るな」
母が楽しそうに笑う。父と私が言い合う。
あたたかいランプの光の中で、いつもと同じ夜が過ぎていった。
寝る前、母が布団をかけてくれた。
「お母さん」
「なあに?」
「来年の誕生日も、お花あげるね。今度はもっと綺麗で、つぶれてないやつ!」
「ふふ、楽しみにしているわ」
「約束ね!」
小指を差し出すと、母は微笑みながら自分の小指を絡めてくれた。
「うん。約束。でも、無茶はしちゃだめよ?」
「しないよ!」
母と小指を解き、私は笑顔でうなずいた。
来年も、その次も、こうやってお祝いできると思っていた。
だから私は、その約束を少しも疑わなかった。
──その約束が果たされることはないことを。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
──どうして、約束は果たされなかったのか。
この物語は、長編
『境界観測 《リミナル・サイト》―その線の先で、私は死んでいる―』
へと続きます。
もしレナのその後が気になった方は、本編も覗いていただけると嬉しいです。
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