勇者様の部屋は空けておいてください
「また割ったのかよ」
俺が声を上げると、食堂の奥で大柄なドワーフが申し訳なさそうに髭を撫でた。
「すまん、リオ。今度のは手が滑った」
「昨日もそう言ってただろ。これで今月3つ目だぞ」
「人間の杯は薄すぎるんだ」
「うちのせいにするな」
床に散った陶器を拾っていると、隣の卓から笑い声が上がった。泥まみれの革鎧を着た冒険者たちが、俺とドワーフのやり取りを酒の肴にしている。その横を、妹が料理を載せた盆を片手にすり抜け、空いた方の手を壁の魔石灯へ向けた。
指先から淡い光が弾けると、弱くなっていた灯りが白く明るさを取り戻す。
「兄さん、そっち終わったら厨房。父さんが呼んでる」
「分かった」
割れた欠片を集めながら、俺は改めて店内を見回した。
角の生えた行商人が煮込みを食い、獣人の夫婦が明日の街道について話し、その向こうでは若い魔術師らしい客が、杖を椅子の背に立てかけたまま居眠りしている。
前の人生でこんな光景を見たら、たぶん1日中興奮していたと思う。
けれど、ここで生まれて24年も経てば、これが普通になる。
俺には前世の記憶がある。
日本という国で生まれ、学校へ通い、働いて、それから死んだ。今世では宿屋の息子として生まれ直し、物心がつくより前から《麦穂亭》の階段を駆け回っている。
いわゆる異世界転生というやつなのだろう。
もっとも、物語に出てくるような特別な力はなかった。
剣の才能があるわけでもなく、珍しい魔法が使えるわけでもない。火をつけたり、水を少し動かしたり、濡れた布を乾かしたり。その程度なら俺にもできるが、妹にも隣のパン屋の親父にもできる。
最初のころは少し残念だったものの、24年も暮らしていると、それくらいがちょうどいいと思うようになった。
家族がいて、仕事があって、毎日飯を食えて、たまに妙な客が来る。
俺はこの世界が結構好きだった。
それに、ありがたいことに魔王もいない。
正確には、昔はいた。
今から40年ほど前、この国と周辺諸国を散々苦しめた魔王を、勇者アルヴァンとその仲間たちが倒している。
だから俺は子供のころから、勇者アルヴァンには密かに感謝していた。
異世界へ生まれ直したうえに魔王討伐までやらされるなんて、冗談じゃない。俺が来る前に済ませておいてくれて、本当にありがとう。
「リオ」
厨房から父の声が飛んできた。
「明日の予約、帳面見とけ。北から商隊が来るぞ」
「何人?」
「12。あと役所の2人組」
「じゃあ、ほぼ埋まるな」
「9号室は数えるなよ」
「分かってるよ」
そう答えながら、俺は廊下の一番奥へ目を向けた。
そこだけ、扉の脇に古い木札が掛かっている。
《勇者様御用》。
子供のころから、ずっとそこにある札だった。
*
翌朝、祖母は9号室の窓を開けていた。
使わない部屋でも、掃除と換気は必要になる。俺が廊下を通りかかると、祖母は机の埃を払い、窓枠を布で拭いていた。
「まだ毎回きっちりやるんだな」
「使わなくても部屋は傷むよ」
「40年も客を泊めてないのに?」
「だからだよ」
9号室には古い寝台が1つあり、机と椅子、衣装箱、壁際の棚が置かれている。そのほかにも、古びた外套や革の鞄、金属製の食器、筆記具、小さな地図入れなど、アルヴァンが残していった旅用品がそのまま保管されていた。
当時なら、ただの旅人の私物だったのだろう。
だが、その後アルヴァンは魔王を倒し、国を救った英雄になった。
結果として、何でもない外套や鞄までが、《麦穂亭》に本当に勇者が泊まったことを示す品になった。
国が回収するほど重要なものではない。何より本人が、この部屋をそのまま残してほしいと頼んでいたため、その意向が尊重された。宿にとっても、勇者が実際に滞在した証明を勝手に処分する理由はなかった。
「本当にここに泊まったんだよな」
「何度聞くんだい。泊まったよ」
「ばあちゃん、会ったんだもんな」
「私が25のころだったね」
祖母は布を畳みながら笑った。
「勇者様っていうから、もっと大きくて立派な人を想像してたけど、普通の若い人だったよ。礼儀正しくてね。食事も何でも食べた」
「魔王を倒す人でも好き嫌いあるのかな」
「知らないよ、そんなこと」
祖母は笑ったあと、室内へ目を戻した。
「ただ、この部屋のことだけは妙に気にしてたね」
「使うなって話?」
「そう。出ていくときに、『俺が戻ってくるまで、この部屋は俺の部屋のままにしてください』って」
「戻ってこなかったじゃん」
「私も聞いたよ。いつ戻られるんですかって」
「何て?」
「分からないって」
祖母は少し考えてから続けた。
「だから、戻らなかったらどうするんですって聞いたら、それでも、できればそのままにしてくれって。誰も泊めないでほしいとも言ってた」
「理由は?」
「教えてくれなかったよ」
「よく40年も守ってるな」
「そのあと本当に魔王を倒した人だからね。本人がそう言ったなら、守るさ」
俺には、正直そこまで律儀にするものかと思わなくもなかった。
ただ、9号室は《麦穂亭》のちょっとした名物でもある。宿泊はさせないが、頼まれれば入口から中を見せることはあるし、《勇者アルヴァンが実際に泊まった宿》というだけで泊まりに来る旅人もいた。
だから俺も、それ以上考えなかった。
*
その3日後、午後から雨が降り始めた。
夕方には街道が川のようになり、日が落ちるころには北側の橋が増水で通行止めになったという知らせが入った。
足止めされた旅人が次々に押し寄せ、《麦穂亭》の食堂も廊下も、あっという間に人で溢れた。
「相部屋で構わない!」
「馬だけでも屋根の下へ入れてくれ!」
「隣の宿はもう満杯だ!」
父と妹と俺は、夕食を運び、寝具を出し、空いている場所を確認しながら走り回った。
最後の通常客室へ商人2人を入れたころには、もう夜になっていた。
「これで全部だ」
父が帳場の宿泊帳を閉じた。
「今日はもう取れないぞ」
「分かってる」
そう答えた直後、玄関の扉が激しく叩かれた。
外にいたのは、母親と小さな女の子だった。
二人とも外套から水が滴っている。娘は8歳くらいだろう。母親の腰にしがみつき、寒さで唇を青くしていた。
「すみません。一部屋だけでいいんです」
母親が頭を下げた。
「橋が渡れなくて……ほかの宿も全部駄目で」
父が困った顔で俺を見る。
「本当に申し訳ない。うちも今夜は満室で」
「物置でもいいんです。この子だけでも」
女の子が小さなくしゃみをした。
俺は廊下の奥を見た。
《勇者様御用》。
「9号室、使おう」
父が何か言う前に、祖母がこちらを見た。
「あそこは貸さない部屋だよ」
「知ってる。でも、この雨だぞ」
「勇者様との約束だよ」
「40年前の約束のために、この子を外へ出すの?」
祖母は黙った。
「アルヴァンだって、子供を雨の中へ追い返せなんて言わないだろ。一晩だけだよ」
しばらくして、祖母が小さく息を吐いた。
「……一晩だけならね」
「明日の朝には元に戻す」
それで決まった。
俺は9号室を開け、母親に室内を簡単に説明した。
「寝台と椅子は使って構いません。ただ、壁際の荷物や棚にある物は、勇者アルヴァン本人が残したものなんです」
母親の表情が変わった。
「そんな大事なお部屋なんですか」
「今夜だけですから。ただ、そこにある物には触らないでください。娘さんにもお願いします」
「もちろんです」
女の子も母親に言われ、真面目な顔で頷いた。
最後に俺は、扉の脇の《勇者様御用》を外した。
今夜は宿中が満員で、廊下を行き来する客も多い。この札を掛けたままにしておけば、勇者の部屋が見物用に開放されていると勘違いして、中を覗きに来る酔客が出てもおかしくなかった。
代わりに、ほかの客室でも使っている《在室》の札を掛けた。
母娘が部屋へ入り、扉が閉まる。
俺は外した《勇者様御用》の札を帳場の下へしまい、そのまま仕事へ戻った。
*
翌朝には雨が弱まり、昼前には橋も通れるようになった。
「本当に助かりました」
母親は何度も頭を下げた。
娘も、
「勇者様のお部屋で寝た」
と嬉しそうに笑った。
二人を見送ったあと、俺は9号室へ向かった。
勇者の私物が残っている以上、実際に客を泊めたあとは一通り確認しておいた方がいい。母娘を疑っているわけではないが、何か壊れていたり、客の忘れ物が混ざっていたりすれば、早いうちに分かった方がいい。
俺は《在室》の札を外した。
《勇者様御用》を戻すのは、部屋を確認してからでいい。
寝具を片づけ、机と椅子を確認する。
壁際の外套にも異常はない。
革鞄や古い食器、地図入れも、どれも見覚えのあるものだった。俺自身、子供のころから何度もこの部屋の掃除を手伝っている。
ただ、普段は埃を払ったり傷みを確かめたりする程度で、箱の中身を一つずつ取り出して確認することまではしない。
棚の下段にある古い木箱を引き出した。
思ったより重い。
蓋を開ける。
「……何だ、これ」
最初に出てきたのは、小さな銀色の聖印だった。
中央教会で使われるものだと分かった。
その下には、赤い糸を複雑に結んだ護符がある。西の地方で、旅人が災い避けとして身につけるものだったはずだ。
さらに、刻印の入った黒い石、乾燥した植物を詰めた小袋、小さな木彫りの像、空になった細長い瓶、丸められた祈祷布、薄い金属板、用途の分からない骨製の飾りまで出てきた。
この世界で育った俺なら、すべての由来までは知らなくても、守りや祈り、魔除け、災い避けに使う類いのものだということくらいは分かる。
しかも、一つの宗教や地域のものではない。
東の神殿の印もあれば、北方の民が使うらしい護符もある。中央教会なら眉をひそめそうな、民間のまじない道具まで混じっていた。
魔王と戦う勇者が、なぜこんなものを大量に持っていたのか。
それも、系統立てて集めたようには見えない。
効きそうなものを見つけるたび、片っ端から手を出したような集め方だった。
俺は中身を脇へ並べ、箱の底まで確認した。
そこで違和感に気づいた。
外から見た深さの割に、中が浅い。
指で押すと、底板がわずかに動いた。
「二重底か?」
端へ爪を掛けて持ち上げる。
その下に、古い布で包まれた薄い冊子があった。
表紙には何も書かれていない。
俺はしばらく眺めたあと、冊子を開いた。
最初のページを見て、手が止まった。
日本語だった。
24年ぶりに見る文字を、すぐには目の前のものとして受け止められなかった。
読めないのではない。
あまりにも普通に読めた。
癖のある手書きの漢字とひらがなを見ているうちに、駅の案内板やコンビニの商品棚、学校の黒板、スマートフォンの画面まで、一緒に頭の中へ戻ってきた。
「勇者、日本人だったのかよ……」
思わず声が漏れた。
自分以外にも日本から来た人間がいた。
それが、よりによって勇者アルヴァンだった。
俺は少し興奮しながら床へ座った。
勇者の冒険譚が日本語で読める。
歴史書には残っていない魔王との戦いや、仲間との旅、転生直後に何を思ったのか。そんなものが書いてあるのではないかと思った。
最初のうちは、実際そんな内容だった。
『剣、思ったより重い。腕が死ぬ。』
『魔法を初めて見た。本当にある。』
『こっちのパン硬すぎる。』
思わず笑った。
歴史書の中では堂々と剣を掲げている勇者も、最初は俺と大して変わらなかったらしい。
けれど、何ページか進んだところで、妙な一文が混じり始めた。
『今日もいた。』
誰のことだろうと思った。
少し先には、
『宿を変えた。でもいた。』
さらに、
『終わったと思ったのに。』
前後を読み返しても、何の話なのかよく分からない。
魔族との戦いのことではなさそうだった。
ページを先へ進める。
『死んだら終わると思ってた。』
『こっちまで来た。』
そこで、さっきまでの軽い気分が消えた。
何かがおかしい。
日記を戻ったり、飛ばしたりしながら読み進めるうち、見慣れない4文字の並びが目に入った。
常 魂 留 命
「……何だ、これ」
日本語のはずなのに読めない。
なんて読むんだ。
その少し後に、アルヴァンが日本にいたころのことを、思い出すように書いたページがあった。
『たぶん、あの日からだと思う。』
『高校のとき、田島たちと山の神社へ行った。肝試しだった。』
山の中にある、ほとんど使われなくなった神社だったらしい。
社殿の裏へ回ると、小さな祠があった。
そこに彫られていたのが、
《常 魂 留 命》
という4文字だった。
『みんな読めなかった。俺だけ、なぜか「とこたまるのみこと」だと思った。』
俺は4文字に視線を戻し、初めて聞く日本語に戸惑いながら、
「これ……とこたまるのみこと……って読むんだ」
と独り言を漏らし、続きを読み始めた。
『何でそう読んだのか、今でも分からない。でも、読めたんだ。』
『それで馬鹿みたいに、その名前で拝んだ。彼女ができますように、とか言った気がする。』
『中で、こつ、と鳴った。』
『帰り道に、あいつがいた。』
それ以上、神社についての説明はなかった。
何を祀っていたのかも、《常魂留命》が何の名前なのかも書かれていない。
そのあとの記述も、日本にいたころの出来事を、この世界へ来てから思い返して書いたものらしかった。
『ずっと笑ってた。』
『何がしたかったんだ。』
『なんでずっといたんだよ。』
そして、次のページからは、この世界へ来てからの話に戻っていた。
『転生して……終わったと思った。』
『最初の宿で窓の外にいた。』
『死んでも駄目だった。』
俺は無意識に、床へ並べた魔除けへ目を向けた。
日記にも、それらしい記録が増えていく。
『教会も駄目。』
『北の祈祷師も駄目だった。』
『昨日もらった石も駄目。』
『聖水も変わらない。』
『もう何を試したか分からない。』
箱に詰まっていたものの意味が、そこで分かった。
全部、これだったのだ。
アルヴァンは、あの男をどうにかするために、効きそうなものを見つけるたび試していた。
それでも駄目だった。
あるページには、
『魔族の方がまだ楽だ。』
と書かれていた。
『あいつらは敵だと分かる。襲ってくるし、斬れば傷もつく。』
『こいつは何なんだ。』
剣を持てば戦える相手と、何をしても消えず、ただついてくるもの。その違いだけで、アルヴァンが何に追い詰められていたのかは十分に伝わった。
床に並んだ大量の護符を見ていると、歴史書の中の勇者より、この日記を書いた若者の方がよほど身近に感じられた。
*
日記のかなり後ろまで来たところで、《麦穂亭》の名前が出てきた。
『今日は、いなかった。』
俺はページをめくった。
『昨夜は仲間の部屋で寝た。朝まで来なかった。』
『自分の部屋に戻ったらいた。』
次の日。
『もう一度やった。同じだった。』
さらにその次。
『部屋はそのまま借りた。荷物も置いた。俺だけ外へ出た。来なかった。』
『俺じゃなくて、俺がいることになってる場所にいるのか?』
断定はされていない。
アルヴァン自身も、何が起きているのか分からなかったのだと思う。
そのあとも何度か試している。
9号室はアルヴァンの部屋として借りたままにする。
荷物も置いておく。
宿の人にも、その部屋を誰にも貸さないでほしいと頼む。
本人だけ別の場所で夜を過ごす。
そうすると、男は9号室に残った。
日記の最後のページは、それまでより文字が乱れていた。
『明日、この宿を出る。』
『部屋は借りたままにしてもらう。』
『荷物も置いていく。』
『宿の人には迷惑だと思う。』
『でも、もう無理だ。』
『戻ってくることにしておけば、あいつもここで待つかもしれない。』
『これで来なければいい。』
最後に、少し間を空けて、
『これで助かりたい。』
と書かれていた。
そこで日記は終わっていた。
魔王を倒した話も、その後どうなったのかも書かれていない。
俺はしばらく、最後のページを見ていた。
歴史では、このあとアルヴァンは魔王を倒す。
それから数年間は英雄として各地に記録を残し、やがて表舞台から姿を消した。
だが、この日記には何もない。
アルヴァンは、この部屋を自分の部屋のままにして、あいつだけをここへ残した。
そして帰ってこなかった。
そこで昨夜のことを思い出した。
俺は《勇者様御用》を外した。
《在室》に替えた。
40年間誰も泊めなかった部屋へ、別の客を入れた。
まだ《勇者様御用》は戻していない。
俺はゆっくり顔を上げた。
9号室の隅に、男が立っていた。
*
最初は、宿の客が入り込んだのだと思った。
暗い服を着た男だった。
若くも見えるし、中年にも見える。
着ているのは、この世界では見たことのない古びた黒い服で、前世の記憶にある昔の日本の服装にどこか似ていた。何という種類の服なのかまでは分からないが、布は擦り切れ、袖口や裾はぼろぼろになっている。
乾いているはずなのに、服全体がじっとり湿って見えた。
髪も額へ張りつき、顔には薄く油を塗ったような鈍い光沢がある。雨に濡れた人間とは違う。長いあいだ湿った暗がりに置かれていたものを、そのまま人の形にしたようだった。
「……誰ですか」
返事はない。
男は俺を見ていなかった。
何も置かれていない寝台のあたりを眺めながら、口元だけでにやにや笑っている。
その姿を見ているうち、さっきまで読んでいた言葉が頭の中へ戻ってきた。
『ずっと笑ってた。』
『なんでずっといたんだよ。』
『死んでも駄目だった。』
そして、この部屋に残されたもの。
目の前にいるのは、それだ。
あれだ。
その瞬間、男の顔がゆっくり寝台から俺へ向いた。
目が合った。
笑い方が、ほんの少しだけ深くなったように見えた。
今、見つかった。
なぜか、そう思った。
男が一歩進んだ。
「ぺた……」
靴音というより、濡れたものを床から剥がし、また置いたような音だった。
俺が数歩下がると、男も同じだけ進んだ。
「ぺた…ぺた…ぺた…」
距離は縮まらない。
だが、離れもしない。
男の顔をまともに見ると、どこがおかしいのかが余計に分からなくなった。口は少し横に長く、首もわずかに傾き、肩の高さも左右で違うように見えるが、どれも一つひとつなら人間にあり得る程度の違和感だった。
それなのに、全体を人間として受け取ることができない。
俺はそのまま廊下まで下がった。
男も9号室の入口まで来た。
さらに下がる。
「ぺた…」
もう一歩。
そこで俺は踵を返し、階段を駆け下りた。
*
その日のうちに、9号室は元へ戻した。
母娘が使った寝具を片づけ、動かしたものを以前の位置へ戻し、《在室》の札を外して、40年間そこに掛かっていた《勇者様御用》を掛け直した。
これで戻るかもしれないと思った。
しかし、その夜、男は俺の部屋の窓の外にいた。
9号室には戻らなかった。
翌日には、木箱に残っていた中央教会の聖印を一つ借りた。アルヴァンが同じものを試して駄目だったことは分かっていたが、それでも自分で確かめずにはいられなかった。
首から下げたまま町の神殿へ行き、最近よく眠れないので念のため清めを受けたい、とだけ頼んだ。
年配の聖職者は祈りを終えると、俺をしばらく見てから、
「特に悪いものが憑いているようには感じませんね」
と言った。
帰りに神殿の門を出たところで、通りの向こうに男が立っていた。
聖印を握っても、何も起こらなかった。
箱に詰め込まれていた、宗派も土地も違う大量の護符を思い出した。
アルヴァンも、こうやって一つずつ試したのだろう。
その結果が、あの箱だった。
*
俺は《麦穂亭》を出ることにした。
自分の部屋をそのまま残して、アルヴァンと同じことをするのも考えた。実際、昨夜はあいつが俺の部屋の窓の外に立っていた。荷物を残し、俺がまだそこで暮らしていることにしておけば、9号室と同じようにあいつを置いていけるかもしれない。
けれど、家族の暮らす宿にあいつを残していく気にはなれなかった。
必要な荷物をまとめ、残った物も片づけた。父には、空いた部屋は客室に使ってくれて構わないと伝えた。
旅に出る理由については、少し外を見て回りたくなったとだけ説明した。妹には「今さら冒険者?」と笑われ、俺も笑って返したが、行きたい場所があったわけではない。
ただ、あの男から離れたかった。
転生して24年目にして剣を買い、冒険者組合へ登録し、俺は生まれ育った町を離れた。
最初の町までは3日ほどだった。
その夜は普通に宿を取り、久しぶりにまともな寝台で眠った。男は現れなかった。
翌日も同じ宿に泊まった。
少し安心して、もう何日かここで休んでもいいかと思ったころ、夜の窓の外に男が立っていた。
何日も街道を歩いて離れたはずなのに、いつもの顔でこちらを見て笑っていた。
次の町へ逃げた。
そこでは2日目に来た。
その次では、3日間は何も起きず、4日目の夜に廊下の先へ立っていた。
何日目に来るのかは分からなかった。
ただ、荷物を広げ、この町で少し休もうとか、しばらく働こうとか、そんなふうに思い始めるころには、いつの間にか近くにいる。
そこで俺は、アルヴァンが《麦穂亭》でやったことを試した。
宿帳に自分の名前を書き、数日分の料金を払い、鞄や着替えを部屋へ置いた。外套を椅子に掛け、宿の主人にも、しばらくこの部屋を使うから、自分が外へ出ていてもほかの客には貸さないでほしいと頼んだ。
その日の夕方、俺だけ町を出た。
街道から離れた場所で一晩野宿した。
男は来なかった。
翌朝、宿へ戻ると、借りた部屋の窓際に、男が立っていた。
俺の荷物が置かれ、宿帳にも俺の名前があり、宿の人間が俺の部屋として扱っている場所で、帰ってくる俺を待つように笑っていた。
アルヴァンが見つけた方法は、俺にも使えた。
*
しばらく、そのやり方で暮らした。
昼間は町で日雇いの仕事をし、夜になると、金を払って借りている部屋をあいつに残して、自分だけ町の外で野宿する。
馬鹿らしい生活だった。
寝台のある部屋に金を払いながら、俺自身は地面の上で眠っている。
しかも俺には大した蓄えもない。宿代と食費が減れば働かなければならず、働くためにはまた同じ町に何日か留まる必要がある。
そのうち、宿に金を払うこと自体が惜しくなった。
だったら、最初から野宿だけしていればいい。
一晩だけ眠って翌朝には移動する場所なら、男はすぐには来ない。それなら町の近くに野営場所を作り、宿代を浮かせながら働けばいいと思った。
最初の数日はうまくいった。
町から少し離れた林の近くに荷物を置き、夜はそこで眠った。翌日は少し離れた場所へ寝床を移し、その次の日もまた別の場所へずらした。
男は来なかった。
これならいけるかもしれないと思った。
仕事へ行く間に使わない荷物を置く場所を決め、食料や調理道具をまとめた。濡れた服を乾かす場所も作り、毎晩少しずつ場所を変えながら、その一帯へ戻るようになった。
何日かすると、そこへ帰ってくることが当たり前になっていた。
その夜、男がいた。
前の日に眠った場所ではない。
少し離れた木立の間に立って、こちらを見ていた。
翌日は、さらに離れた場所へ寝床を移した。
それでも来た。
毎晩同じ場所で眠っているかどうかは、関係ないらしかった。
少しくらい寝床をずらしても、荷物を置き、そこへ戻り、同じ辺りで生活を続ければ、あいつにはその一帯が俺の居場所になる。
逆に荷物をまとめ、本当にその土地を捨てて街道を歩き始めると、しばらく姿を見なくなった。
野宿そのものが安全なのではない…
留まらなければいいのだ…
*
それからは、歩いて、眠って、また歩いた。
疲れれば町へ入り、宿を取る。数日休んでいるうちに男が現れれば、部屋を借りたまま自分だけ外へ出る。
金がなくなれば働き、また宿代を払い、夜になると自分が金を払った寝台をあいつに残して野宿した。
宿代を惜しんで野営を続ければ、今度は一つの土地に留まりすぎないよう気をつけなければならない。
少し休みたいと思う。
もう何日かここにいたいと思う。
そうすると、またあいつが来る。
何か月もそんなことを繰り返しているうちに、俺はもう旅をしているという気がしなくなっていた。
知らない町も、景色も、珍しいものもどうでもよかった。
あいつを見ないために移動し、疲れれば休み、休みすぎればまた逃げる。
それだけになった。
怖かった。
そして、もう疲れていた。
アルヴァンは《麦穂亭》の9号室を、自分がまだ泊まっている部屋として残した。
宿の人間もそう扱い、荷物もそこにあり、誰にも貸さなかったから、あいつもそこへ留まった。
あの人がそのまま最後まで逃げ切れたのかは分からない。
俺がいつか助かるのかも分からなかった。
ただ、もうあいつから離れたかった。
*
旅を始めてしばらく経ったころ、街道沿いの宿で食事をしていると、隣の卓の行商人が東の町で食べた料理の話をしていた。
「米に茶色い煮込みをかけるんだ。香辛料が利いてて、結構うまい」
俺は何となく話を聞いていた。
「何て料理なんです?」
「カレー、だったかな」
俺は匙を止めた。
「その店、どこにあるんです?」
ここから東へ4日ほどの町だという。
俺は町の名前と、そこまでの道を聞いた。
翌朝、俺は東へ向かうことにした。
荷物をまとめながら、最後にアルヴァンの日記を手に取った。
ページをめくると、《常魂留命》の4文字が目に入った。
その下には、アルヴァンが書いた読み方が残っている。
《とこたまるのみこと》
ここからだった。
日記を読み、この名前を知り、9号室に立っていた男がアルヴァンの書いていた「あれ」だと分かった。
それから、あいつは俺を見るようになった。
アルヴァンが9号室へあいつを残したまま、本当に最後まで逃げ切れたのかは分からない。
俺も、この先ずっと逃げ続ければ助かるのか分からない。
ただ、もう疲れていた。
俺は《常魂留命》のページに栞を挟み、日記を鞄へ入れた。
宿を出ると、東へ続く街道は朝のうちから旅人や荷馬車で混み始めていた。
カレーという料理を作った人間が、本当に日本から来たのかは分からない。
それでも、会って確かめるつもりだった。
俺は鞄を背負い直し、東へ歩き出した。
栞を挟んだページを、その人に読んでもらうために。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
楽しんでいただけましたら、ブックマークや感想、評価などいただけると、とても励みになります。
普段は現代を舞台にした怪談・怖い話を中心に書いていますので、そちらもお読みいただけたら嬉しいです。
今回のような「異世界怪談」も、評判がよければ今後また書いてみたいと思っています。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




